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細分化されゆくナラティブ - 企業経営は”都市型”システムへ?

はじめに

本記事は、ANRIの中路さんが執筆した「ナラティブだけが人を動かす スタートアップはなぜナラティブを紡ぐのか」を読み、いろいろインスピレーションがわいてきたので急いで書き下した(のに公開ボタンを押し忘れてそのまま半年ほど下書きに放置されていた)記事となります。

上記の記事でも指摘されているとおり、「一元的な解や真理があるとする”大きな物語”は終焉し、それぞれが自由に解釈し物語る”小さな物語の時代”にバトンタッチした結果」として、それぞれが物語る「ナラティブ」が現代においてあらためて注目されてきているというのが、社会一般における認識なのではないでしょうか。

他方で、個人的には、大きな物語から小さな物語へ文節化が行われるという現象や流れは、「ナラティブ」という言葉は使われずとも、昔から繰り返されてきたものであり、現代においても変曲点のタイミングを迎えていることから「ナラティブ」という形で改めて注目が集まっているのではないかという肌感覚があります。

以下では、物語の細分化の歴史を辿りつつ、物語の細分化が今後も加速したときに、企業経営はどうなるかという点について考えてみたいと思います。

生物にとっての最大のナラティブ=環世界

個人的に好きな概念に、「環世界」というものがあります。環世界とは、ドイツの生物学者フォン・ユクスキュルが提唱した概念で、生物が独自の時間・空間で主観的に認識し、構築する世界を指します。すべての生物は、自らが知覚している環世界が、客観的な全体そのものであると信じていますが、実際はそうではない、という考え方です。

中路さんの記事では「言語構築主義」「言語ゲーム」が引用されていますが、環世界の考え方に立つと、言語以前に生命体は感覚器官と認知プロセスによって主観的な世界を構築しているということです。例えば、マダニにとっては、酪酸の匂い、動物の皮膚の感触と温度、そしてこれらの刺激をトリガーとするいくつかの挙動で、世界の全てが構築されています。この世界がマダニにとっての環世界なのです。

環世界は生物の主観的な現実を創り出すため、ナラティブと密接に関連しています。

言うまでもなく、人類同士も、同じ種として共通の感覚的経験を共有し、同じ環世界に生きています。人類は、客観的な世界ではなく(仮にそんなものが存在するとして。)、環世界という一つの物語を共有して人生を歩んでいるのであり、人類登場の時点ですでに我々はナラティブ化しているのだと理解することもできます。

ナラティブを活かした宗教

時計の針を進めると、より細分化された単位でのナラティブも見えてきます。「言語構築主義」も代表的ですが、宗教も代表的なナラティブの例だといえます。宗教は、ナラティブを最大限活用した社会制度なのではないでしょうか。

すなわち、宗教は、宇宙、人類、そして宗教自体の起源を物語的に説明して、信者にアイデンティティと世界における居場所を提供します。また、多くの宗教的物語には道徳的な教訓が含まれており、宗教共同体の倫理的信念や行動の基盤を提供しています。そして、宗教的な物語は、共有された信念と価値観を通じて人々をつなぎます。例えば、古代ギリシャ神話は、ゼウスやアポロン、アフロディーテなどの神々を通じて、自然現象や道徳的価値を説明し、人々にアイデンティティと世界における居場所を提供していました。また、仏教では、釈迦の悟りの物語が人々に苦しみからの解放の道を示し、共同体の倫理的信念や行動の基盤を提供しています。

宗教のナラティブは、共同体への信者の所属感や統一感を醸成し、強力な結束力と、それに伴う行動力を生み出してきました。神への信仰(=宗教)の強さの根本にあるのは、ナラティブの力です。

「神の死」とナラティブの断片化

しかし19世紀後半、ニーチェは「神は死んだ」と宣言しました。当時の大きなナラティブであったキリスト教的・ヨーロッパ的価値観がもはや同じ影響力を持たないことを喝破したのです。

ニーチェの時代には、キリスト教以外の世界観や哲学が次第に認知されるようになり、また、個人主義が台頭し始め、個々人が自分自身の物語や価値観を持つことが重要視されるようになっていたとの指摘があります。これによって、従来の一元的な価値観が多様化し、それまでのナラティブが分解されていったのだと理解できます。

つまり、ニーチェの「神は死んだ」という宣言は、キリスト教的価値観の喪失だけでなく、大きな物語(=「神」)の細分化と多様化が進む現象を予見したものだったのかもしれません。

現代におけるナラティブ

情報技術の発展に伴い、異なる文化や価値観が交流・融合し、それぞれの物語が細分化される傾向が加速しています。個々人が自分の物語や意見を簡単に発信できるようになり、物語の細分化がさらに進行し、多様な価値観や意見が広がることになります。

加えて、現代社会においては、個人の趣味や価値観に合わせた商品やサービスが提供され消費もパーソナライズされてきています。これは、物語の細分化が消費文化にも影響を与えていることを示しています。

これからも世界はより断片化され、ナラティブは分散し、社会はより混沌とした状態に突入していきます。そしておそらく、ナラティブの最小単位は「個人」よりももっと小さい単位になるのではないでしょうか。ここで登場するのは、平野啓一郎氏が提唱する「分人」の考え方です。

「分人dividual」とは、「個人individual」に代わる新しい人間のモデルとして提唱された概念です。

「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。

これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。

職場や職場、家庭でそれぞれの人間関係があり、ソーシャル・メディアのアカウントを持ち、背景の異なる様々な人に触れ、国内外を移動する私たちは、今日、幾つもの「分人」を生きています。

「分人主義」公式サイト

「分人」の考え方からすれば、個人のナラティブでさえ、細分化される対象になるということです。「個人として人生で成し遂げたいこと」といった目標(=神)を設定しても、その目標は分散化してしまう(=死ぬ)運命にあるかもしれません。

このように、人間にとってのナラティブ(物語)も、エントロピー増大則には逆らえず、永久に分散化・無秩序化していくのです(人間にとっての環世界という系が閉じられていると理解できます)。それこそ「人新世」が終焉を迎えるまで、この流れは止まらないのではないでしょうか。「神は死に続ける」のかもしれません。

企業経営は”都市型”システムへ

おまけ程度になりますが、ビジネス的な視点も混ぜて記事を終えたいと思います。

ナラティブが個人単位、さらには分人単位まで分節化されていくことを踏まえると、経営手法もアップデートを迫られるはずです。すなわち、ナラティブがより個人化され、細分化されていくと、企業を主語としたナラティブの押し付けは、未来においては「さむい」ものとして扱われる可能性があります。そうすると、企業には、法人単位でのナラティブではなく、個人単位、さらには分人単位のナラティブをエンハンスするような基盤としての役割が求められるようになります。具体的には、中央集権的・軍隊的なシステムから、都市経営や大学経営のようなシステムに移行していく必要があるのではないでしょうか。

企業としては、個々の従業員が自分たち自身のナラティブを作り出す力を引き出し、その実現をサポートするインフラ的な立場(場づくり)に徹する必要があります。そうすることで、より強力な個人(あるいは分人)が企業という「場」に集まり自己実現し、その「場」の魅力が増し、さらに強力な個人(あるいは分人)が自己実現するべく「場」に引き寄せられるというフィードバックサイクルが生まれるはずです。

企業の収入も、税収のようなものになっていくかもしれません。所属するメンバーに、自分たちの仕事に対するオーナーシップ・採算管理の責任を持たせ、企業としてはその活動に対してサポートしたこと、活動の場を与えたことを対価(税収)として売上を立てる形になるかもしれません。

もはやここまでくると、株式会社という法人格を採用する必然性すらなくなる可能性があります。

まとめ

  • 人間の「環世界」という閉じられた系の中において、ナラティブ(物語)は永久に分散化・無秩序化し続ける(エントロピー増大則のような挙動が起きている)。

  • 実際に、思想史的にも、ナラティブの分散化は繰り返し取り扱われているテーマである(思いつく限りにおいて、16世紀のルネッサンス、19世紀後半の「神は死んだ」、20世紀後半のポストモダン、21世紀の「ナラティブ」)。

  • ナラティブの最小単位は、もちろん企業や団体ではなく、個人ですらなく、分人なのかもしれない。

  • 企業単位のナラティブが無効化するとき、企業としては、都市のような「場づくり」の経営スタイルへの変革を求められるかもしれない。


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