1.はじめのニーチェ
当時の思想家たちには、「この世(人生)は矛盾・苦しみにあふれている」という考え方が大前提にある。これは現代においても、おそらく同じ。
それを前提としたうえで、ショーペンハウアーのようにペシミスティックに考えるのではなく、人間の欲望や自我を肯定する「ディオニュソス的」な考え方をするのがニーチェ先生。
ニーチェは、仏教的なアプローチで「この世の矛盾」から生まれる苦しみを克服することにネガティブ。なぜなら、欲望を否定することで人間が”弱体化”してしまうから。
たしかに、人間から欲望を取り除いてしまったら、その人自身も弱体化するし、なにより、社会や技術も前進してこなかったはず。欲望は社会進化の原動力であるはず。一方で、社会が前進しすぎた結果として「地球資源の有限性」に人類は直面しているのも事実。
また、ニーチェは、知識と理性に信頼をおき、正しく思考し推論することによって「真理」に達するという考え方を否定。
2.批判する獅子
そもそも、「哲学」の本質は、既存の通説的な観念や考え方に対する疑いや批判にある。
哲学者ニーチェの批判の対象は、当時において「これまでヨーロッパにおいて考えられてきた人間的な価値の一切」。具体的には、①キリスト教、②道徳、③真理という観念の3点。これらは、現在においても人間的な価値として重宝されている概念ともいえる。
①キリスト教について
ニーチェは、欲望を含めた自分自身を肯定する利己的な人間(貴族的な人間)が「よい」人間であると定義する。一方でニーチェはキリスト教を批判している。すなわち、キリスト教は、強い者は悪いという否定的評価をはじめに置き、つぎにその”反動”として「だからわれわれ弱い者はよい」というロジック(弱者のルサンチマン=恨み・嫉妬・反感)を基礎にしている僧侶的なものである、とのこと。
「僧侶的評価様式」を、民衆支配の手段として利用したとして、ニーチェはキリスト教を厳しく批判する。
当時のヨーロッパのニヒリズムは、キリスト教に原因があるということも主張。
貴族的な人間は、自己の欲望を肯定する。そして、現実を直視し、矛盾が存在することは受け入れたうえで、コントロール可能なものに集中して、現実を動かそうという存在とのこと。
「貴族的」とは、スタートアップファウンダー的なマインドセットなのかもしれない。
②道徳について
「利他性」を絶対的な価値基準とするような「道徳」観念も、貴族的な人間の牙を抜きかねないもの。
人類の進歩やイノベーションを生み出してきたのも、起業家個人の強烈な「欲」や「情熱」であることからして、ニーチェのいう、自己の欲望を肯定して現実を変えていこうとする貴族的な人間こそいまの日本に求められている可能性が高い(「知的バーバリアン」)。
③真理について
ヨーロッパのニヒリズムの原因
19世紀ヨーロッパには、「相対主義」、「懐疑論」、「無神論」、「ペシミズム」、「デカダン」などの思想(総称して、「ニヒリズム」。人間の理想や価値における「超越的根拠」の喪失。)が登場していた。
ニーチェはその背景について、「この世界は仮象にすぎず、<真の世界>が存在するはずだ」という解釈が普及したものの、誰も<真の世界>などに到達できないことが原因だと指摘。
高度成長期を終えて、失われた何十年の“延長”を繰り返している日本にも、ある種のニヒリズムが蔓延しつつあるようにも思える。高度成長のような国民全員に共有されるわかりやすい「成長物語」が社会から失われてしまっているのが一次的な原因にも思えるが、より根本的には、ニーチェが指摘するとおり、真理=共通解釈=共通物語を求める姿勢に問題があるのかもしれない。
3.価値の顚倒
「真理が見つからない…(´・ω・`)」と萎えてしまっている人類に対する2大処方箋としてニーチェが提示するのが、①「超人」思想と②「永遠回帰」思想。前者は、社会的・歴史的なアングルから構築した思想であり、後者は、個人の実存というアングルから構築した思想として整理できる。
①「超人」の思想
「真理が見つからない…(´・ω・`)」と萎えてしまっている人類に対する一つ目の処方箋が、「超人」の思想。
「超人」の解釈は非常に難しいが、いわゆる「貴族的」な思考をもった、欲望に忠実な強い人間像として整理することが可能であり、ケインズが提唱した以下の「アニマル・スピリット」に通じる概念なのではないかと思われる。
「超人」思想には、ある種の不平等性である「階序」を認める点など、扱いづらい側面もある(「超人」思想はナチスに援用されたとの見方もある)。しかし、強者と弱者が存在するのは事実であり、それを認めることと、「強者の論理」とは明確に区別するべきである。
ニーチェが主張しているのは、あくまでも強者と弱者が存在するという”ファクト”の是認。これはイデオロギーや社会革命思想ではなく、社会のあり方に対する洞察にすぎない。この事実を否定していると、人間が凡庸化して虚弱化してしまう、というのがニーチェの主張である。
なお、「平等」の概念も単一ではなく、例えば、結果についての平等と機会についての平等がある。おそらく、「自由」を拘束しあうルサンチマン思想を批判している点からすれば、ニーチェは「機会の平等」については肯定的であり、否定しているのはあくまでも「結果の平等」の話なのではないかと思われる。
「横並び」主義を否定して、優勝劣敗が生まれることを前提としてイノベーションに専念する。まさにスタートアップに通じる思想だというのは考えすぎだろうか。
②「永遠回帰」の思想
「真理が見つからない…(´・ω・`)」と萎えてしまっている人類に対する二つ目の処方箋が、「永遠回帰」の思想。
ニーチェ自身が、「永遠回帰」の思想がもっとも伝えることが難しいものだと認めており、解釈も非常に難しい。竹田青嗣「ニーチェ入門」(ちくま新書)の整理は以下のとおり。
「永遠回帰」の解釈
(1)機械的思考の極限形式としての「永遠回帰」
(2)ニヒリズムの極限化としての「永遠回帰」
(3)育成の、理想形成としての「永遠回帰」
(4)ルサンチマン克服の、生の肯定としての「永遠回帰」
(1)機械的思考の極限形式としての「永遠回帰」
「永遠回帰」の一つの解釈・側面は、世界は神によって創造されたわけではなく、したがって目的もなく、次第に発展していくというベクトルがあるわけでもなく、ただただ”輪廻”のような循環を空虚に繰り返すものでしかなく、それ自体に何の意味もないという考え方。
(2)ニヒリズムの極限化としての「永遠回帰」
機械的思考の極限形式としての「永遠回帰」を前提とすると、世界はただ存在しているだけ、ということになる。これがニヒリズムの極限化としての「永遠回帰」である。
「人生死ぬまでの暇つぶし」という言葉があるように、現代においてはそこまで過激な思想ではないが、キリスト教的思想が支配的であった当時においてはかなり過激なものとして受け取られた模様。
(3)育成の、理想形成としての「永遠回帰」
上記についてはかなり理解が難しい。いったん「ニヒリズムを徹底する、つまり、極限的な虚無性まで含めてすべてを受け入れる。そして、腹をくくる。」という意味に理解しているが、適切なのかは不明。
(4)ルサンチマン克服の、生の肯定としての「永遠回帰」
ニヒリズムを徹底するということの発展形として、「世界に目的とか意味とか、あるわけねえだろ。ガタガタいうな、甘えるんじゃねえ。それでも生きるんだ。」というメッセージも「永遠回帰」には含まれているという趣旨であると理解できる(ように思えるがどうなのだろうか)。
ニーチェの立論は「ニヒリズムを徹底して人生あきらめろ」というものではなく、あくまでも、新しい「価値創造」をもたらすためにニヒリズムを徹底せよ、というもの。しかし、ニヒリズムの徹底がどのようなロジックで価値創造の原理につながるのかは、明快な解釈がない模様。
下記のように、「生を是認し、さらにそれに「然り」ということ」こそが「永遠回帰」のコンセプトであるとの説明もある。「然り」とは、今風にいえば「オッス」といったところだろうか。
要するに、「永遠回帰」という思想は、「この世界?人生?真実もないし、意味もないっす。押忍押忍。意味なんてないからこそ自分の欲望に忠実に生き抜きます。魂燃やします。」というある種のアニマル的ドM性を推奨するものなのかもしれない。
4.「力」の思想
竹田青嗣「ニーチェ入門」いわく、「力への意志」という概念があるからこそ、ニーチェの思想はエッジが立っているとのこと。
本書は、「力への意志」への理解を以下のように整理する。
(1)徹底的認識論としての(認識論の破壊としての)「力への意思」
(2)生理学としての「力への意思」
(3)「価値」の根本理論としての「力への意思」
(4)実存の規範としての「力への意思」
(1)徹底的認識論としての(認識論の破壊としての)「力への意思」
「この世に存在するのは解釈だけである」という考え方は、構造主義(言語学など)も有名になったこともあり、現代においてはかなり一般化しているように思える。
面白いのは、ニーチェが、生命体が自分の保存・生長の条件を参照して解釈を行っていると主張しており、リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」に通じる考え方になっているところ。
振り返ってみると、「利己的な遺伝子」のメッセージである、①生命体は遺伝子を運ぶ機械に過ぎない、②遺伝子に求められるのは非情なまでの利己主義といったものも、ニーチェのその他の考え方に通じるように思える。すなわち、①については、「人生に意味なんてない。世界も遺伝子残存のための永遠回帰に過ぎない。」というニーチェ的考え方につながり、また、②も、「世界に意味なんてないが、欲に従って「超人」として生きるべし」という考え方につながり得る。
脱線するが、「「価値評価する力」はただ生命体だけがもっている」という考え方は、AI(人工知能)と人間(生き物)の境界線の参考にもなるかもしれない。
「人類よ、所詮君たちは生命体に過ぎない。認識とか真理とかいう気障な言葉つかって気取ってないで、欲望・エロスドリブンなことを認めろよ」というメッセージを受け取りました。
ちなみに、この「力の意志」が何に由来するかという議論は、「環世界」の議論とも通底するものがあり、ニーチェの先見性?に脱帽する。
(2)生理学としての「力への意思」
本書によれば、ニーチェは、「力への意志」の議論を通じて、まず、「ダーウィン進化論」に対抗している。つまり、生命体は単なる自己保存や種族維持ではなく、より強力な個体=肉体の解放と創出こそが第一義的という考え方を提示している。また、「ヘーゲル歴史主義」にも対抗している。つまり、倫理や道徳によって人間を弱体化・平均化するのではなく、強力な個人の創出こそが目標であるという考え方を提示している。
(3)「価値」の根本理論としての「力への意思」
人間は欲望ドリブンであるからこそ、いわゆる世の中の価値基準というものも、欲望相関性のあるものである(そしてそれが正しい)という指摘。確かに、現代における「よい」「わるい」「いけてる」「いけてない」「優秀」「劣っている」という基準は、突き詰めると、金銭欲、権力欲、名誉欲、性欲などの諸欲望に収れんされるような気もする。
改めて、ニーチェは「”意識”高い系」の当時のヨーロッパを断罪する。
「君子色を好む」というのも、歴史的真実であるし、また、ニーチェ的にいえば、否定するべきものでもないのかもしれない。
(4)実存の規範としての「力への意思」
生命体としての人間は、自分の保存・生長を起点にして世界を解釈するし、価値基準を持つ、したがってディオニュソス的な生き方こそ正しい、というのがニーチェの主張。
上記のような次第なので、「力への意志」は、キリスト教的な「隣人愛」に対抗する概念でもある。ニーチェは、人間は自己への愛を通じてはじめて他者を愛することができると主張している。
5.まとめ
さまざまな不条理やアクシデント、カオスな状況を乗り越えていかなければならないスタートアップ関係者は、「永遠回帰」の思想、ひいてはディオニュソス的なマインドセットを持っているほうが生き残る確率が高いように思える。そもそも、新しい事業を興すのは、多かれ少なかれ「力への意志」が背景にある「超人」でなければやらないし、できないこと。
スタートアップ関係者は、ニーチェ・マインドを体得するとよいのではないでしょうか。