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〈Aとは何か〉という問いはなぜ危ないのか? ではいかに問う?

〈Aとは何か〉という問いはなぜ危ないのか? しばしば問いを曖昧にするからだ。
 例えば〈言語とは何か〉という問いに答えは何でもあり?
なぜ〈言語はいかに在るのか〉を問うのか?
 どのようなことばの〈かたち〉で問うかは、人文学の基本的な課題だ。
 --言語存在論。

(中略)
 ただし、「Aとは何か」という形の問いは、実のところ、その答えに謂わば何でも据えることができてしまう。例えば、「言語とは記号である」などという答えは、二〇世紀言語学の基本的な命題となった。多くの人々の思考に受け入れられたわけである。そのこと自体は良い。またあるいは「言語とは機能である」などと別な観点からの答を提起することもできるだろう。
 この「Aとは何か」という形の問いは、言語学でも哲学でも文学でも、そして様々な分野で、これまで無数に立てられ、無数に答えられてきた。いくつか挙げてみよう。中には書物の題名にしてもよさそうな大胆な命題もある:
 
 「言語とは魔法である」
 「言語とは優しさである」
 「言語ハ夢デアル」
 
 それぞれ次のように展開される:
 
 「言語とは魔法である。あなたをいつしかその術の中に呼び込み、あなたを動かす魔法である」
 「言語とは優しさである。人が人に配慮し、人を気遣い、人と人の絆を造り上げてくれる無限の優しさである」
 「言語ハ夢デアル。ツヒゾ変ハリモセヌ冷厳タル現実ヲ脇目ニ見ナガラ、ソノ一方デ、ソレニヨツテ我々ガ喜ビモシ、悲シミモスル、果テナキ夢、ソレガ言語デアル」
 
 こんな具合に、いくらでも言い張ることができてしまう。これらは比喩を用いた修辞的な性格の強い文による言明である。こうした修辞的な言明はまさに言語だから可能な、言語の真骨頂である。それはそれで楽しく、面白い知見を探り当てることになったり、さらにはしばしば美しくさえあるわけだけれども、私たちの出発の始めから修辞に遊ぶのは、いささか尚早に過ぎる。比喩と修辞に頼り切ると、問いを曖昧にし、答えを逃げ道だらけにすることになってしまう。今は差し控えておこう。

では私たちはどう問うのか?

続きは、恐縮ですが、下記のpp.13-16をご覧いただければ、嬉しく存じます:

●野間秀樹『言語 この希望に満ちたもの--TAVnet時代を生きる』北海道大学出版会。2021年
https://www.amazon.co.jp/dp/4832934139

言語存在論についての原理論は下記で展開しております:

●野間秀樹『言語存在論』東京大学出版会。2018年

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784130860543


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