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思考と表現のリハビリはまだ続いている

中学の頃から大学生まで、自分の思考のスピードを遅くする訓練をしていた。

誰にだって、思考なしに判断したり、何かを閃く瞬間はあるだろう。

当時は、自分に自信がなかった。誰かに無視をされているのはいいけれど、目の前で私を嫌っているとわかる視線が怖かった。人前で失敗をするわけにはいかない。閃きの通りに行動して失敗したら、もう生きてはいけない。その閃きを疑った。

人間であれば、誰もがコモンセンス、多くの人が選択するだろう行動原理に基づいて、思考なしに判断することがあるだろう。即断のおかげで、獣から襲われた人類は危機的な状況を回避し、進化をしてきたとも言える。しかし、その即断がもとで、誰かに嫌われてしまっては、私は生きてはいけない。当時はそんなふうに考えていた。少しでも正しい答えを検討する時間がほしかった。思考をなるべくゆっくり、確実にしたかった。

板を二枚、間を空けて並べて、その後ろでモノを投げて、通過したものを当てるクイズがあるだろう。思考のスピードは、あれをスローモーションにするイメージだ。スローモーションにできれば、投げている思考も追えるようになるだろうと思った。何かを瞬時に考えた時に、それをわざとゆっくり再生する訓練だ。思考や浮かぶイメージや言葉は一つではない。訓練することで、文字やイメージが弾幕のように流れる脳内も、絵は言葉になり、一単語ずつゆっくり流れるようになった。大学を卒業する時には、意識さえすれば、どういう情報が頭に流れたのか、ゆっくり再生できるようになっていた。もちろんイメージの中での話ではあるけれど。

が、社会人になって、問題が起きるようになる。ゆっくりした思考では、その場で即答できない。お客様や先輩から聞かれたことに、即座に「はい」言えない場面が増えた。失敗しないように育てた行動が、失敗を大量に生産するようになっていた。

表現もそうだ。中学生くらいの頃は夏目漱石のような短い文で、物事を言い得てしまう表現が好きだった。『彼岸過迄』に、学生が留年した理由として「そこが浪漫家だけあって」とだけ書いてあった。未来を夢想して、足下を見ない浪漫家という単語一つで、浪人した状況がよく伝わった。

大学を卒業するころには、目上の人に対しては、いい得ている言葉よりも、間違いのない言葉を選ぶようになっていた。一つのガラスのコップを表現するにも、誰しもの脳内に、正しい映像を結ぶことができるのなら、いくら言葉を費やしてもいい。小説なら、数ページかけても、そう表現すべき、という態度に変わっていた。

社会人になって、脳内の「処理」方法も、「出力」方法も、現実社会に不向きだと指摘されるように感じることになった。

そこからは、普通の人が行動するように、三叉路で、右に行きたいと思えば、立ちどまらずに右を選ぶようになった。しばらくの間は怖かった。理由もない、検討もしないままに、行動するわけだから。でも、それをしないと社会に適応できないとわかってから、理由を求めずに行動することが増えた。目隠しをして、交通量の多い、道路を歩くような気分が続いた。

表現も相手のイメージを頼るようにした。言葉の正確さよりも、相手のイメージを活用する方法だ。当時、同期と飲みに言った時、そのヒントがあった。

別の遅れてきた同期から「どこに行けばいい?」と電話があった。一緒に飲んでいた同期は、うまく説明できない私の携帯を奪って、説明を始めた。
「今、どこ?」
「じゃ右手を見るとXXの看板があるでしょ…、あ、それは右向き過ぎ…」
「で、しばらく行くと、右手に〇〇があるから、~」
と目印と確認方法をほどほどの情報量を与えつつ、説明していた。

なるほど、現状(現在の位置)を確認して、方向を示して、相手の理解度を確認しながら、平易な言葉で説明すればいいのかと理解した。今でも、口頭で人に説明する時の一つの指針になっている。しかし、道案内ならできることも、仕事となると、うまく説明できない。一番、思考が活発な時期に作った行動の弊害を今も抱えている。相手に伝わるかどうかよりも、自分の思考内に転がったブロックを意味のあるように見せて、前後に齟齬がないように並べて、提示してしまう。リハビリは、今も続いている。

マーケティング活動を通して、他人に情報を伝える仕事をしながらも、もっと根っこの部分、人として情報を伝えることがうまくできない。ここ数日、久々に、自分の思考が昔に戻っている感覚があって、いろいろ思い出した。

中学生の頃の自分と、大学生の頃の自分、社会人になった頃の自分、今の自分と、この件について、話したら、どういう話をするんだろう。今は、社会人の時に自分が望んだことが少しはできるようになっているんだろうか。


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