見出し画像

「デイヴィッド・ホックニー展」への期待:人の目に映っていることを理解し表現する

今週、東京都現代美術館の「デイヴィッド・ホックニー展」に行く予定だ。

何度か見に行く予定があれば、ホックニーのことを知らないままに見に行って、初見でむりやりにでも言語化を試みた後、いろんな記事を読んで答え合わせして、さらに、掘り下げたいところ。

もうすぐ、11月5日には展示が終わってしまうのに、今のところ二回目の予定がない。どうせ行くなら少しでも、何かを持ち帰りたい。先に予習しておこうと思って、いくつかホックニーの記事を読んでみる。

ホックニーに関する記事

目で見た世界を再現するために、ホックニーは時として伝統的な絵画の手法へも疑問を投げかけました。
手前にあるものを大きく、奥にあるものを小さく描く「線遠近法」は多くの人が知る絵画の手法です。しかしホックニーは「肉眼で見た世界はそうはならない」とし、この遠近法に疑問を投げかけました。
そのひとつが、京都の龍安寺をモチーフとした《龍安寺の石庭を歩く 1983年2月、京都》(下の写真左)です。自らの足元から塀まで、少しずつ視点をずらした100枚以上の写真を撮影し、肉眼でとらえた世界を平面上に構築。同じような試みは絵画やコンピューターグラフィックスを使っても行われており、本展では「目の前のものをどう描くか」を実現するためには長い絵画の伝統を飛び越えることも辞さないというホックニーの長年にわたる探究を見ることができます。

【レビュー】「デイヴィッド・ホックニー展」東京都現代美術館で11月5日まで 古くからのファンも 初めて出会う人もその画業を体験| 美術展ナビ

見るべきポイント

色が目立つホックニーだが、それを配置している構成、対象のバランスなどのことも知りたいと思っていた。目で見えるものをどう再現しようとしているか。それが目で見るものと同じように感じるか? またそう感じない時は何がそう思わせるのか。その理由を探してみようと思う。

1964年、初めてカリフォルニア州を訪れたホックニーは、いたるところにスイミングプールが設置されていることに驚き、繰り返しスイミングプールを描くようになった。何よりホックニーを魅了したのは、降り注ぐ光とともに刻々と移ろう水面である。「プールは見るたびに違う青色をしていて、見るたびに違う性質を帯びている。水面を見ても、水底を見ても、水中を見ても、毎日違って見えるんだ」

降り注ぐ光によって刻々と移ろう効果をとらえようとする姿勢は、印象派のクロード・モネが「積み藁」や「ルーアン大聖堂」の連作をとおして行った探求を想起させる。モネが積み藁や大聖堂で検証した光の反映を、ホックニーはプールの水で表現しようと試みたのだ

【デイヴィッド・ホックニー作品解説】最高傑作のひとつ「Paper Pools」シリーズの画期的な制作方法とは? | NEW ART STYLE(ANDART)

見るべきポイント

光をどう表現するかということは、過去、いろんな人が挑戦してきたテーマの一つだろう。正直、有名な「Paper Pools」というシリーズのことも知らなかったので、プール、水、そこに書かれた「光」についてはしっかり見よう。

ホックニーは1971年に初来日した際に、京都市美術館で開催されていた「京都日本画の精華展」を訪れた。その際に目にした福田平八郎の絵画、《漣》や《新雪》といった作品の色使いや構図に圧倒されたという。これはのちにホックニーの「ウェザーシリーズ」の《雪》《雨》《太陽》《富士山と花》などを創作するインスピレーションへと繋がったようだ。彼は19世紀日本の葛飾北斎の浮世絵やクロード・モネの印象派の絵画に注目したと言われているが、こうしたエピソードからも日本への造詣がうかがえる。

80歳を超えてもバリバリの現役!デイヴィッド・ホックニーの魅力を3分で解説。 | NEW ART STYLE(ANDART)

見るべきポイント

先に、構図について理解したいと書いたが、特に絵画の構図、構成について深い理解があるわけではない。でも、浮世絵を見る機会は過去もあったので、浮世絵的な構図と似ているかどうか、という視点があると、この先の深い理解に至る前のチェックポイントになるかもしれない。

ホックニーにとって「遠近法」が長年の関心事であるという意味だけではなく、根本的には、デイヴィッド・ホックニーという画家がどのように目の前にある世界を見てきたのか? そうした「ものの見方の複数性」に迫りたいという意図がありました。
ホックニーはたびたび「何を(What)」よりも「どのように(How)」が大事なのだと語っています。「何を見るのか」はもちろん考慮すべきですが、目の前にある対象を「どのように見て、どのように絵に置き換えるのか」こそがより大事というわけです。

ホックニーはなぜ評価と人気を60年も獲得し続けられたのか?「デイヴィッド・ホックニー展」担当学芸員が徹底解説!【前編】| TOKYO ART BEAT

見るべきポイント

版画の技法を使ったり、iPadを使って書いたり、制作の技法の理解までは難しいかもしれない。ホックニーが見ていることをどう表現しようとしているかの前に「どう見えているのか?」を考えるべきかもしれない。実は、私が「こう見ている」というのは、後から得た知識によるバイアスかもしれない。「絵の通りに見えていると感じる」と思えば、その表現方法を探り、「こうは見えてないんだけど…」という絵に出会えば、ホックニーにはこう見えているのか? 実は私にも、このように世界が見えてるんじゃないのか? と自分の視点を疑うことはしたい。

複数の視点が持ち込まれる最初の作品がフォト・コラージュ、絵ではなく写真というのも必然的な流れだったと思います。ホックニーは1960年代からタブローの下絵として手描きの素描を重視しつつ、写真も補助的に使っていますが、70年代半ば以降は写真を元に絵を描くことがほとんどなくなります。ところが1982年にポラロイドで連続的に撮影したフォト・コラージュの制作が始まる。なぜフォト・コラージュだったかというと、カメラは線遠近法を体現する装置であり、1枚の写真ではひとつの固定された視点からの眺めとひとつの瞬間だけしか表せませんが、複数の写真を組み合わせることによって現実の世界にある時間や空間の広がりを表せると考えたからです。

混迷から新境地へ。巨匠ホックニーが喜びに満ちた作品に辿り着くまで。「デイヴィッド・ホックニー展」担当学芸員が徹底解説!【後編】| TOKYO ART BEAT

見るべきポイント

写真を見る時の参考にもなりそう。線遠近法ではないホックニーの絵は、チャレンジの過程で、実際にホックニーにそう見えているものばかりではないのかもしれない。いずれにせよ、こう見えている? ほんとに? 何を捨てて、何を拾った結果に、この表現にした? ということを見る時には考えたい。

ホックニーに関する動画

他にも動画があったので、時間があれば見てから行ってみよう。

なるほど! 消失点が移動してる、消失点をどこにどう配置するかを考えてるのか!

日本の浮世絵には、影、反射の表現がない。なるほど。
光を表現する時に、どう見せているかのヒントになるかも。

難聴で、音が聞こえにくいそう。雑音を廃して「見る」ことは、私もやってみよう。

見に行ったあと

今週、「デイヴィッド・ホックニー展」を見に行った後、感想noteを書きたいと思っています。人の目にはどう見えるか? それを表現しようというホックニーのチャレンジの過程を見てこようと思います。

「人にはこう見えている」というはずという思い込みがあるので、違和感がある絵については、違和感を感じるポイントを意識して見ようと思います。ホックニーにとってそう見えている可能性もあるので、誰もが感じそうなことなのかどうかも意識して見たいところ。その時に「光」の表現、構図というポイントも意識したいところです。

※追記(見に行った感想です)

いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。