「ぼくは病気じゃない」不登校児の思い

こんばんは。nocoroです。

私はHSPのシングルマザーです。
私の周りには、
不登校になった子どもたちが沢山います。

フリースクールを選択したり、
自宅で過ごしていたり、
学校の特別学級を利用している子も。

そんな中、
ある子どもに出会って
親が「不登校児」を育て上げる例もあるのだと
感じたことがありました。

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不登校ってどうなの??

私は現在、
学校は行っても行かなくても良いと思っています。
「子ども自身が選べば良い」

でも以前は、
不登校=怠惰な子
不登校=いじめ
不登校=逃げ

そんなイメージをしていました。
それも、自分が義務教育を受けている時
私のクラスには登校拒否になって長いA君がいました。
1度も顔を見たことが無いので、どんな子かも知りません。

ある時、担任の先生が
不登校のA君を登校させられないことを
「自分の力不足で、申し訳ないし。恥ずかしい」
と泣いた。
男性教員が泣いた。更に驚くべきワード。
その言葉を聞いて生徒は「先生に協力しよう!」
とクラスはまとまった。

担任の先生は、A君のことを人権の授業で取り上げ
どうやったら学校に来られるか、皆に考えさせました。

見たことも無いA君。
何故、登校拒否しているのかさえ知りません。

なのに、皆で謎の話し合いをするわけです。
・皆で寄せ書きを書いてみよう
・学校であった事を新聞にして、定期的に届けよう
・レクレーションを開いて招待しよう
いま思ってみれば、一体なにをしていたのでしょう。

先生は、週に何度もA君の家を訪問し、
学校に来るよう説得しているという。
訪問するたびに、皆にA君の様子を報告する。

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大人になってから思う。
A君は本当に学校に来たかったのだろうか。
あの時、本当の意味で
A君のことを考えていた人はいただろうか。

「ぼくは病気じゃない」

ある友人の子。B君。
彼は不登校だ。
原因はいじめではなく、何となく行きたくないから。

B君の父親は在宅ワーカー。
母親はたまにパートに出かける程度。
両親共に在宅している時間が長い。

両親は、B君のことを発達障害児であり、
情緒不安定、非常に困っていると言う。

私がB君宅に行った時、
B君は嬉しそうに自分の家の周りを案内してくれた。
「遊ぼう!!」
私は、彼の両親に会いにきたはずなのに、
結局彼とずっと過ごすことになった。

10歳の彼は非常に甘えん坊だった。
「見てみて!」
一緒に遊んでいるうちに気付いた。
彼の本質は
両親から聞いた困った子ではない

母親から「ごはんだよ」と言われれば、
「うるせー!!!」と叫ぶ。
父親から注意されようが、聞く耳を持たない。

でも、私が「ごはんだってよ~」と声を掛ければ、
「一緒に食べよう!」とニコニコしている。

ただ、分かりやすい愛情が欲しいだけの子だ。
それに反して、
ガキ扱いされたくないというプライドがある子

勉強はできる。集中力もある。
ADHDの傾向はあるけれど、
冷静になって話すことが出来る。
両親のいないところで、座って一緒に話しながら言っていた。
「ぼく病気じゃない」
病院に行かなきゃならない日が嫌だ。
学校でも、病院でも自分がダメな子扱いされているのが分かる。こんなはずじゃなかった。
よくよく聞くと、元々は気を引くために始めたのに、だんだん抜けられなくなってきて、そんな状況にもイライラしてしまっている。
イライラが始まると抑えられない。
自分に、両親に、周りの大人にイラつく。

B君の場合、少し放置された幼少期があり
両親への反抗は気を引くために始めたこと。
学校に行かないのは、シンプルに家にいたいから。
もやもやしているけれど
他に方法が分からないし、抜け出し方も分からない。

つくられた病

B君は、元々ADHDの傾向はあるものの
そんなに酷い子ではないと思いました。
(学校のサポートボランティアに行っていた経験から)

でも、両親の愛情を感じられず、
ただ反抗すること、ちょっと変わった子を演じることで
自分に目をむけさせたかった。
続けていくうちに、抜けられなくなった。

そんな状態でした。

母親の思い

「もう疲れた」そうだよなぁ。と思う。
毎日奇声を上げて、反抗する息子。
「可愛いなんて思えないよ」そうつぶやく母親。

私が聞いたB君の言葉を伝え
必要なのは、お母さんが休憩することだと伝えた。
母親は心の余裕を失っている。
父親に当たり散らして、父親も疲弊している。

母親の思いを聞くと
なんとかして「普通の子」にしたいと言ったり、
反対に「特別な子」として育ててあげたいと言っていたりも。
その言葉の裏には
「頑張っているお母さんとして生きたい」という願望も見える。

B君は彼女にとって
今生きていることの全てだ。
息子について一喜一憂すること、
悩みぬくこと。
息子に手がかからなくなり、自立することを彼女は望まない。

彼女が変わらないかぎり
息子は「難しい子」を演じ続けなければならない。

両者が欲しいのは
「愛情」だけなのに。

私はどうなんだろう

愛情をもつれさせている彼女を見てハッとした。
自分はそうなっていないだろうか。

自身のエゴを子どもに押し付けていないだろうか

「子どものため」という言葉を使った時、
私は自分を疑うようにしている。
結局は、自分のためだったり、
世間のためだったりすることがよくあるから。
本当に子どもたちが求めているものって何だろう。

そして

親が子どもを
本当の意味で自由にしてあげるとは
どういうことだろう。

普通の子として、目立たず生きて欲しい
優秀な子として、カーストのてっぺんを目指して欲しい
特異な子として、個性を出して活躍して欲しい

どんな姿であれ
そんな親が決めた「正しい生き方」や
親が出来なかった「理想の生き方」は
子どもたちには不要だ。


私たちに出来るのは
子どもの ありのままを愛して
自分を愛して
毎日を楽しく生きること

興味関心を示したものだけ、そっとサポートすれば良い

世間の波にのまれたり、
自分の余裕がなくなると
すぐに忘れちゃう

氣をつけよう

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