生命観

いつも通りのわけわからない文です注意

こんにちは のぶおです。
最近フォロワーの中でウマが流行ってます
いや、厳密に言うと流行ってる層がフォロワーになったり、最近その事実に気付いただけだったりするんてすがね。

さて、その流行りの競馬についてなんですが
なんかモヤモヤするというか、個人的に支持できないんですよね。
まだ見当ついてないですが、とりあえず掘り下げていきます。

・命をモノ扱いする

これ自体に関しては、生命保険やら戸籍管理やらで
人間でも“モデル化”されているので問題はないのです。

・動物の自由意志、意思疎通

“可哀想”かどうかは人間の想像力の範疇です
なので議論したところで尺度が異なってまとまりません。

「特定の目的のために生かされている」のがかわいそうなら、肉牛も乳牛も牧草もかわいそうですし、
人間も社会に利益を還元する為に労働させられてかわいそうです。

さて、ちょっと寄り道
少し前までは“生命らしさ”のことを“有機的”と言ったりもしました。
でも最近は言わなくなりました。
“無機的な生命”=人工知能が台頭して、ゲームチェンジャーとなってきたからです。
有機的な生命はリン酸などの化学的変化と状態維持を主として、
無機的な生命は半導体などの電磁気的変化と状態維持を主として動いているわけです。
その“仕掛け”の論理によって動いているわけです。
私は唯物論者なのでそこに本質的な違いはなく、
AI以外の機械的システムも広義の生命に含まれていると考えています。

自由、それらに関わる事象は外部から見ると確率と偶然性を持ち合わせているように見えます。
経験からの論理展開により予測可能でありながらも不確定性の強く残るものです。
出力側からフィードバックしたらそれこそギャンブルの根幹そのものなのです。

原義の唯物論と異なることを言っているように見えますが、“観測者”から見た性質を言っているだけで、全世界の状態は一意に求まると考えています。

で、肝心の自由と生命の包含関係ですが
そもそも世界の事象を観測から再解釈すると全部自由になってしまうんですよね。
機械は論理的かと思いきやいつかは壊れる不確実性がありますし。
そりゃ広すぎる。

あ、今思いついたけど生命の必要条件に“主体性”を上げるのはどうだろう?
でも、主体性を構成する「学習」「判断」は論理的システムで完結するからいいとして、
「行動」ってどこからどこまでなんてしょうかね
自ら事象を発生させなくとも、別の“生命”に影響を与えて環境を変え、新たなフェーズに移行するような形を取ったらそれは行動なのでしょうか?
それはいわゆる広義のコミュニケーションです。
単体では自立し得ない存在が他の存在と影響し合うことで社会を形成し環境をつくることです。

例えば黄色いポールがあることで、見た人に視覚的印象を与え、“避けさせる”。自己の存在と表現によってあり得た可能性から一意な事象を選択する。
なんなら物理的に存在し得ない“概念”すら生きています、
そういえば「ミーム=mean+gene」でしたね。

となってくるともはや全てが自由故の事象で、すべての存在がそれに関わる生命になります。

もう概念の拡張インフレが頭打ちです。

更に言うと「意思」こそ生命自由の根幹ですが、
それを外部から見てモデル化すると「行動原理」に落ち着きます。
でそのモデルはというと先述の自由と同じになるのです。
あぁ、循環論法。

これを当てはめると人間を馬もコンピュータも土もお茶碗も地球も世界も音も文学も自由の下に生きているし、それぞれ人間の横暴によって被害(影響)を受けて可哀想だと思えるのです。

概念愛護団体。

・優生思想

えっと、なんの話だっけ
あ、ウマのモヤモヤか

競争、race。これをイデオロギー化してracism。
このご時世不味いですね。

勝利のために命を“なんとか”するというのはそういう思想そのものなのです。
目的のために手段を選ばなくなっています。

さっきの生命観を適用すると、全てが命です。
総力戦になるわけですね。

物を大切にするということは、人を大切にすることという意味がわかりますね。





知らんけど

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?