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福岡伸一『動的平衡2 生命は自由になれるのか』

福岡伸一の著作が大好きだ。

動的平衡の話は仏教的でもある。
それは何も、「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」的な諸行無常間を著しているから、という意味だけでなく、「実態がない」という唯識的な世界観を生物学から著しているから。
特にこの「動的平衡2 生命は自由になれるか」の中で展開する話は芸術分野などに対比しながら、世界がどう成り立っているのかるを説明しているようにも読める。

仕事(会社)も動的平衡が成立しているか?が継続するための鍵なのかもしれない、と組織の一歯車としてぼくは思う。
ぼくの中には、ぼくがいなくなっても平衡が保たれるように(つまり、ぼくがいなくなっても何もなかったかのように存続してくれることを)祈る自分がいる。
そして、そうなるように属人的に発展させた仕事のノウハウを非属人的な仕組み化することを日常のタスクにしていた、と自負もしている。全然やりきれてないけど。
と同時に、ぼくがいなくなったときに混迷極まるほど自分のプレゼンスが高ければなぁ、という醜い自我も同時に存在している。

話を福岡先生の著作に戻して、下に引用した遺伝情報の発現と音楽の話はすごいな。
音楽は、生命の律動を外部記憶装置にバックアップするためのメディアと言えるっていうことか。
これはすごい。
じっくり咀嚼して、思考を整理する必要がある。

っていうことで、2023-04-09現在、まだ読んでる途中。


p49
私たち生命体の内部には、実にさまざまな律動が内包されている。心臓の鼓動、呼吸の起伏、脳波の低周波、セックスの脈動。その振動が、絶え間なく流転する生命の動的平衡を支え、かつ鼓舞している。
音楽の起源はここにあるのではないか。私たち自身が発している律動。それとシンクロナイズする音源を外部に取り出したもの。私たちが普段、忘れがちになっている生命の律動を感じ、それに耳を澄ませるためのもの。私たち自身が外部に作り出したメトロノーム。生きていることの証。それが音楽というものではないか。

福岡伸一『動的平衡2 生命は自由になれるか』

p52
ルネもまたバッハの曲が演奏者に完全に委ねられていることを語ってくれた。私はふと思った。それは遺伝子と人間のあり方に似ている。遺伝子は私たちを規定し、運命づけているように見えるけれど、それは楽譜の音符のように使う音の高さと長さを指定しているだけだ。つまり各細胞で使うべきミクロなパーツのカタログを与えているに過ぎない。
遺伝子の集合体であるゲノムは、だからプログラムでもなく、指令書でもない。どれくらいの強度で、どんなフレージングで、どんな指使いで弾くのかはすべて奏者に委ねられているのだ。
バッハの作り出した音楽の構造は、特にそのような自由さに満ち溢れている。だから、ゴルトベルクは多様な表情を持ち、そして、どのような特定の情景や情念とも結び付くことがない。それはまったく私たち生命のあり方にも言えることなのだ。
遺伝子は、その発現の強度と関係性を、環境との相互作用にのみ委ねている。自由であれと。そんなことを話していたら、ルネはちょっとたけ面食らっているようだった。

福岡伸一『動的平衡2 生命は自由になれるか』


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