大村 昇@宮城県美里町

地域おこし協力隊(2022.04〜)/約5年の東京生活からUターン/副業コピーライタ…

大村 昇@宮城県美里町

地域おこし協力隊(2022.04〜)/約5年の東京生活からUターン/副業コピーライター・ライター/Mr.Childrenとスヌーピーが好き/リトルトゥース/のぼ・ぼーの https://lit.link/nobo0630

マガジン

  • 就職活動に関する気づき。

    就活に苦しんだ大学時代を振り返り、今だからこそ分かってきたことを書いています。

  • 地域おこし協力隊としてのコラム。

    2022年4月から着任している地域おこし協力隊での活動を通じて、感じたこと・考えたことを綴っています。

  • 「対話」との対話。

    「この世界に自分の言葉を増やす」をビジョンとする今後の活動に向けて、そのキーワードのひとつとなる「対話」を考えます。

最近の記事

そうだなあ、そうかなあ。

読書が趣味のひとつである。分類でいえば、実用書およびビジネス書を多く読んでいる。気になる本をどんどんAmazonで購入してしまい、いわゆる積読は日に日に多くなっているけれども、やはり誰かの言葉と触れ合うことはとても面白い。そもそも好きなことである。 最近気になっているキーワードは、「地域」や「まちづくり」。「対話」や「ファシリテーション」なんかのタイトルも、本棚には増えているのかもしれない。その道のプロが記した事例を中心に、さまざまな考え方を読み込む。そんな自分自身の読書に

    • 今日はつぶやきにて。。

      • 僕は「詩人」ではないからこそ。

        ライフスタイル情報誌『BRUTUS』の動画を観た。 言葉をテーマにした特集「一行だけで。」に惹かれて、いつものサブスクで誌面も見ていたけれども、この動画も味わい深いものだった。お酒を飲みながら話していることや、動画自体の色味やトーン、何より3人が醸し出すグルーヴがとても心地よく感じられる。 印象的だったのは、冒頭の自己紹介である。個人的に初見だった黒川隆介さんが、自身の職業を「詩人です」と話したのだ。 まず詩人というものが、いったい何かわからない。「中華料理つくってます

        • 遠くの事象、近くの問題。

          きのう、富士山の撮影スポットに黒い幕を張ったというニュースを見た。海外のインフルエンサーの影響によって訪日客で混み合うようになり、危険な道路の横断やごみのポイ捨てなどマナーに欠ける行為が目に余るようになったという。地元住民からの相次ぐ苦情を受けた山梨県富士河口湖町は、観光客が撮影をできなくするため、長さ20メートル高さ2.5メートルの大きな幕を歩道と車道の間に立てた。 じつに行政らしい対応であり、じつに日本らしい事象である。外野から見ていれば、円安を追い風に多くの人が訪れる

        そうだなあ、そうかなあ。

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        • 就職活動に関する気づき。
          10本
        • 地域おこし協力隊としてのコラム。
          53本
        • 「対話」との対話。
          18本

        記事

          「言わないこと」の行方。

          「言わないこと」という概念に興味がある。 人は誰しも、何かを感じて何かを思う生きものだとする。しかしながら、そのすべてを口に出しているわけではないだろう。当然ながら他人との協働の中で生きることを余儀なくされ、自分だけの感覚を示すわけにはいかない。まあ厳密には示すことが必ずしもわるいということでもなく、その先には世界や他人とすり合わせる「対話」が必要になる。 いわゆる配慮が必要とされる中で、人は自然と「言うこと」と「言わない(言えない)こと」に線を引いて生きている。ときに後

          「言わないこと」の行方。

          いまを正直に。

          たとえば誰かの言動が、目に余るときがある。社会人においてその態度はいかがなものかと、このままいけば本人が損をする未来が見えるぞと、そんなふうに思うことがあるとする。というかもう社会人のひとりとして、すでに疑問を抱くこともあると思う。 きっとこの世界に生きていれば誰しもが、そう思ったり思われたりすることだろう。正直にいえば最近の自分は、その両方の立場を経験している。ではそんな中で、もし誰かの言動に疑問を抱くような場合、改めて人はどんなことを考えるだろう。 まずひとつ「あなた

          どうでもいい、どうにもならない。

          自分には、どれほどのチカラがあるのだろう。 知人に誘われ、となり町でのイベントにエッセイを出展してきた。芸術を大きなテーマとして、音楽や美術を楽しめる場所に「ことば」のエリアも設けられ、僕はこのnoteのような表現を成してきた。かつて古民家だった場所には100名に迫る来場者があったようで、そこの歴史を知る町の職員さんはこんなに人が集まるのかと、感心した様子でカメラを構えていた。 僕は初めてのイベント出展を通して、率直に在廊が苦手な自分に気がついた。一応ずっと会場にはいて友

          どうでもいい、どうにもならない。

          どうせ、僕。

          自分のこと、すきですか。 今の僕に問えば「どちらでもない」という答えが出た。ばっちり正面から受け入れられるほど好きではなく、さっぱり見切りをつけてあきらめられるほど嫌いでもない。いや厳密には、いちいちそんなことを考えないほど、当たり前の存在になっている。好きだとか嫌いだとか、結局それ以前に気づけば僕は、僕だった。 いわゆる何者かになれるのかもしれないと、ひょっとしたらあこがれの“あの人”のようになれるのかもしれないと、息巻いた時期もあった。なんでもない営業職がコピーライタ

          対等な世界を。

          日々のコミュニケーションの中で「対等」という言葉が気になり出している。 人は気がつけば、上下関係の中にいる。子どもの頃から自然と年齢でクラスを分けられ、歳上には敬うように促され、会社には「上司と部下」なんていう概念がある。まあそこまでいかずとも、自然と相手の役割や肩書きを気にしながらコミュニケーションを選ぶわけで、目の前の人によって態度(対応)が変化するのは、人として至極当然なことだとは思う。極端な話、3歳の子どもと60歳の大人、それぞれに接する際の気持ちは異なるだろう。

          絶望をあきらめて。

          もともと誰かや何かに期待しない性格だけれども、たとえば自分の価値観とまったく異なる世界を目の当たりにしたとき、なんだか虚しくなってしまう。いや、そもそも自分と違うことばかりであることは理解しているが、あまりにも違いすぎる環境、ましてや自分がこれから関わろうとする場所がそんな世界に見えたならば、途方に暮れてしまうだろう。 では、このいわゆる絶望を感じたとき、僕はどのような行動を起こすだろう。どう対処してきたのだろう。キーワードとなるのは、「あきらめ」かもしれない。絶望とまっす

          絶望をあきらめて。

          ぼくは毎日、100人の方と。

          2019年4月にこのnoteのアカウントを開設して以降、僕は毎日書いている。糸井重里さんや古賀史健さんら、あこがれの書き手の方々を北極星にして、生意気にもライバル心を燃やすなどして、自分と対話しながら日々の感覚や価値観を書く。どうやら、エッセイという類の文章に分類されるらしい。 先ほどなんとなく、このアカウントのPV数を覗いてみた。するとここ2〜3週間に投稿した記事は、いずれも100に迫るPV数を記録していた。月間で見れば、現時点でその数字は2500ほどになるようだ。 す

          ぼくは毎日、100人の方と。

          僕が社会と噛み合ったとき。

          いつものようにZOZOTOWNで服を眺めていたら、画面の端に「新卒採用エントリー開始!」の文字が見えた。およそ8年前、コピーライターの講座を受けるべく上京したばかりの僕は、定職に就かないいわゆるフリーターだった。せっかく関東にいることだし有名な会社で働こうと、千葉県にあるZOZOTOWNの倉庫で商品管理のアルバイトを経験した。という、自分の過去をふと思い出した。 当時の僕は、「書く仕事」に就くことを信じてやまなかった。それは自分が好きで憧れていたからであり、そしてそれまでの

          僕が社会と噛み合ったとき。

          人が変化するミクロとマクロ。

          地域おこし協力隊として、新たな事業や活動で町内外の人を動かすことを仕事にしている。ここまでの2年間、その楽しさや難しさを感じざるを得ない日々を送る中で、人が変わる瞬間に興味津々な自分がいる。つい先日は、コロナ禍で社会が大きく変化したことを思い出し、「文化」というキーワードに気がついた。がらりと世界が変われば、それに応じて人も変わるしかないのだろうと。 今度はふと、東京からUターンするに至った自分自身の過去に思いを馳せる。それまでライターとして生きていた僕は、たとえばまちづく

          人が変化するミクロとマクロ。

          間違わないこと、ではなくて。

          先日、問いを深めるオンラインイベントを開催したとき、ゲストがそのときのテーマの言葉を辞書で引いたり、いわゆる一般論を口にしたりしていた。主催でありファシリテーターを務めていた僕は、もっとゲスト個人の言葉を聞きたくて、問いを投げかけることを心がけた。 まじめな性格のゲストだったから、まあ理解できなくはない。それに辞書や一般論から、自分の言葉に展開することだってあるだろう。しかしそのゲストは「間違わないこと」を気にしていたように思う。知見や経験を重ねた自分自身の言葉を避けて、ト

          間違わないこと、ではなくて。

          人がぐるりと変わるには。

          コロナ禍になって、リモートワークという働き方が広まった。物理的な人との接触を避けるべく、一時は推奨どころか義務にもなっていたように思う。急激に訪れた世界の変化に多くの人が戸惑いを抱く中で、わずかにもたらされた光明だった。オンラインでの取り組みが一般的となったおかげで、結果として僕は東京のアパートから移住イベントに参加できて、地域おこし協力隊としてのUターンに至っている。 つくづく、人はどこまで変われるのだろうかと考える。それこそ地域で生きる中で、僕は自分自身の活動や事業を徐

          人がぐるりと変わるには。

          見ないのか、見られないのか。

          「希望の数だけ失望は増える」とは、Mr.Childrenの桜井和寿さんの言葉である。「それでも明日に胸は震える」という言葉が続くように、あくまで前向きな姿勢を唄った部分ではあると思うのだけれども、正直僕はとても共感できるスタンスである。そういえばまた別の曲では、「半信半疑=傷つかないための予防線」なんて秀逸な歌詞もあった。 未来を見据えるためには希望やビジョンが必要だと、最近気がついた。いわゆる目標と呼ばれるものが定まれば、イマ取り組むべきことが具体性を帯びるだろう。そして

          見ないのか、見られないのか。