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「116/366」 2024/05/02

116/366。これは、わたしが日々書いている「ヒビのキヲクのキロク」のこの投稿を示す数字だ。2024年01月01日から書き始めて、この投稿は116本めにあたる。

2024年05月02日は、01月01日から数えて123日目にあたるため、123-116=7、ということで、なんとなんと1週間分遅れている計算になった(汗)  足りないという自覚はあったが、まさか1週間分も遅れているとは思っておらず、noteを書き始めてからリアルタイムで計算したため多少動揺している(苦笑)

1度遅れをとって、そこから挽回して、また遅れて。何だかrhythmがあるみたいな気がしている(呑気すぎる発言すみません)。書き始めた当初年始は、「どんなことがあっても毎日書く!!!」と意気込んでいたのだが、どんなに気合を入れてみても書けない日というのは存在して、そんな日にドウニカシテ書くという行為を自分に強いると、そこ注ぐ労力の全てがハテシナク無駄であるため、それは早々に諦めたのだが、諦めていて良かったと今改めて思っている。

"どうやら頭で書きたいと思う書くと決めているだけでは書けない日がある"、ということがわかってから、その日はどういう日かということを後追いで検証してみたところ、今ここにいるわたしが感じていることが言葉ではないところ(=言葉にならないところ)で浮遊しているとき、言語化をすることが不可能であるということがわかったわかってきている。日常生活はなんとかできる。それはこれまで人間を'ちゃんと'してきたことの成果というかお陰であって、今ここにあるものを言語化するとかそういうのに含まれない定型文を話したりするくらいのこと(人間生活の中の最低限のこと)は可能であって、でもそれ以上はできない。果たして自分でそう思ってるだけで、本当の意味で成り立っているのかどうかは甚だ怪しい。でも、わたしはもうそういうのをわたしに許してしまったのだなと思った。もちろんいい意味で。・・・と書いたものの、まだ少しだけその部分に対して批判的な寛容になりきれない自分は存在する、かもしれない。

あっという間に過ぎていく、あっという間に変わっていく、昨日とは全く違う日々を過ごす中で、日々の記録をしていること、その時間を自分に架していることは、ものすごく自分に与える行為だと気付き、更には確信をしてきている。それはつまり、日々の記憶を記録するということが、今日という日の断片を、日々ひとつひとつ未来の自分に贈っているということなんだと、2024年05月02日の未明、このnoteを書いているわたしは感じて、それをそのまままるっと受け取っている、ということだ。

なんとか書けた。なんだかほっとした。ということで、夜も深まってきていることだし、そろそろ寝ようと思う。おやすみなさい。



2024/05/02 (116/366)

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