見出し画像

境界線をもう一度(必要であれば何度でも) 2024/05/12 -2

境界線をひく。これまでに何度もやってきたこと。何度も何度も引き直しては、何度も何度も引き直していること。

今は引き直すだけやればいいから(回数は無自覚にやってるものも自覚できていないものも含めれば死ぬほど多いと思うけど)、全然まし。全っっっっ然、まし。だって、わたしは最初は自分が境界線を引くことを諦めていることにすら気付いていなかったのだから。むしろ、境界線がないことで自分を明け渡していることで、困っている人の役に立ってると思っていた。本気で信じていた(ちなみに、こういうのはメサイアコンプレックスといいます)。

自己犠牲という言葉を尊いと思っていた頃。むしろ、美しいと、自らを投げ出して人を救うなんて、それこそが真実の愛だと思っていた頃の話。言葉にするのは恥ずかし過ぎる、間違った自己陶酔の話。でも、それ自己陶酔がアドレナリンになって、その頃のわたしに生きる意味を与えていたのは事実であり、その頃のわたしにとってはそれが自分が自分で在る意味meant to beだった。いつか、いつか、いつか。健在意識にのぼるかのぼらないかギリギリでのぼらないその場所、潜在意識との境目で、ずっと祈っていた。早くここから出たい、逃げたい、もうこんなこと止めたい・・・・・・・・・・・、と。わたしは、こんなことをするために生まれてきたんじゃないってきっと知っていて、だからそれに気付かないように、潜在意識の境目にその祈りを閉じ込めていた。それは、あとから振り返れば必然であって、そうである必要があったのだけど。

自分のコントロールできる範囲で自己犠牲している間はいいのだ。全然よくないけど、まし。自分の一部が犠牲になるだけだから。だから、他者の心地良さに敏感で、自分の心地良さに鈍感だった。自己犠牲をするにはその方が都合が良かった。自分が心地悪いと感じていることに気付いたら、美しい自分を保てなくなってしまう。ここにいないといけないのだ。自分を生きるためには、他者を救うためには、世界の役に立つには、自分に意識を向けるなんて愚かなことだ。そんな自己中許されない。だって、わたしは既に身を捧げているのだ。誰に?言葉にするとしたら、恐らく皆から《神》と呼ばれている存在に。ちなみに、コントロールできる範囲を超えて自己犠牲を続けた場合、途中から自分ではもう何も手に負えなくなって、自分以外の世界が勝手に現実創造をはじめて(というふうに見える、ただ見ているしか、そこに存在するしかできなくなる)強制終了を迎えることになる。

・・・話が少し逸れた(どれが逸れた話なのか分からないくらい話が混ざっていて恐縮です)、ここまで言語化したのは初めてで、わたしの過去の実体験そのままを書いたのだが、ここには実はかなり(ほんとにかなり)過去世の記憶が混じっている。だから、正確には今世の過去のわたしの実体験と、そこに混在して浮かび上がっている潜在意識の声(=過去世の記憶)の話。

ちなみに、繰り返しになるけど自分では当時ここまで言語化していないし、過去世の記憶的なものが混ざってるとかもわかっていない。分離ができてなくて、何となくそう思っているのが当たり前で、当たり前だから分からない、みたいな感じ。でも、そのお陰でうまく自分を騙しているというか(この辺はネイタルチャートでの海王星と太陽のアスペクトがきいている気がする、もちろんメインはそれではない(苦笑))、自己陶酔もここまで進むと見事なもので、使命感すら感じているし、そこに許しを求めている。ちなみに、意識的にも無意識的にも。自分が間違ったことをしていることに気付かないために、"この上なく正しくみえる"ものをそれを覆い潰す、ということを選んでしている(そしてこれはわたしの場合魂の意図でもあるあった)。有無を言わせぬ状況に自分のことを追いこんでいるのは自分なのに、そのことによってますます自分を自分ではない状態に導き続ける、という感じ。でも、そういう状態の中に自分を置くことで、自分のことを守っていたのも事実で、だからわたしは、この頃のことを、この頃よりもあとの時点で一度全否定した時期があることも含めて、とても尊い日々だったし、体験だったと思っている。

では、どんな自分を守っていたのか。それは、《わたしを生きるわたし》である。それを思い出すことが、わたしの魂的にも、そういう設定で育ててきた育ってきた自我的にも不都合だったのだ(今世の課題…多分過去世から持ち越しのやつ、或いは一度断ち切った自分の命を甦らせるために神(という名の自分)が産まれてくる前に自分に架した試練みたいなやつだったので、簡単にクリアしては困る)。自分を生きるために、自分が架したことを自分で理解してぜんぶ受け容れて、その上で再決断するだけの覚悟が自分の中に育つまで、気付かない方が、わからない方が、総合的によかったのだ。中途半端な状態で全部気付いても、それが不可能なことがわかっていたから、それだけの器が育つまで時間をかけることを予め決めていたのだと思う。だから、それをするために時間をかかってしまったともいえるし、その必要があったということでもある。

境界線の話から、何だかものすごく遠くへきてしまったきがするけど、わたしの中に引いていた境界線の話をしたからそれでよかったのかもしれない。でも、今したいこととしてこのタイトルで書き始めたことには意味価値を置いておきたいので、改めて自分としっかり向き合うことで、その確認が出来たということにしておく。他者との間にある境界線は、恐らく本当に全てを信頼できている状態(=Oneness)ではわざわざ境界線を引く必要がない。なぜなら、ないのが当たり前の全てが一つである状態をOnenessというから。でも、全て(のvibes)は変わり続けるから、次の瞬間(それはある意味永遠の先の次かもしれないけど)には分離が生まれる。分離した世界には必ず境界線がある。世界万物vibesのなかにあり、vibesでできていて、不変であり普遍であり、そういう意味でもそういう意味でなくても流転している変わり続けている

こういうことが書きたくなったのは、きっと『ジーザス・クライスト・スーパースター』を観たからだと思う。ちなみに、もう一度観にいきたい。ジーザスはマリアであり、ユダであり、そして人であり、男であり、神の子であり、わたしと何一つ変わらなかった。



2024/05/12 -2 (126/366)


よろしければサポートお願いします!!!いただいたサポートは、必ず循環させていきます!!!