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月と太陽 2024/05/14

月とは、満ち欠けしていることを知って観察するすべきものの総称ではないか、とふと思った。
そもそも満ち欠けするもの。自分かどこにいるのか、立ち位置やふるまいや在り方や自己認識で見え方が変わるもの。もともとの確かなものがあることを知らなければ全く違う形に見えるもの。それをゆらぎというならば、ゆらぎを孕むもの、ゆらぎそのものといってもよいもの。

そして、それを、そうゆらぎそのものであると「見る」ことができない限り、太陽のように一定であるものを見定めることはできない、そう思った。ここでいう「見る」は、全受容のことである。そのままをただ「見る」、それが当たり前として「見る」ということ。

ゆらぎあるものをゆらぎあると見定め、ゆらぎなきものゆらぎなきものと見定めること。それを摩擦なく行うには、その双方の視点と、そう「見えている」感覚を認め信じるということ、そして意図を持って観察するという継続力が必要なのだと思うし、同時にそれらが培われ、育っていくのだとも思うし、その両方が必要で必然なのだとも思う。一定であることを一定であると'知るわかる'ために、ゆらいでいるものがゆらいでいるということを'知るわかる'必要があるのだ。

☼☽

ここまで書いて、言葉が止まってしまったので、今日一旦ここまでで出しておこうと思う。普段なら下書きにするのだけど、なんか今日はこのままで出しておきたい気分なのでそうしようと思う。続きはまた出てきたときに書きます。おしまい。



2024/05/14 (129/366)

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