わたしの輪郭を通り抜けて、そのまま拡がっていく世界 2024/05/06 -2
今日、瞑想をしていて感じた体感について、過去の〈下書き〉の中にピッタリはまるタイトルのものがあり(ちなみに04/04に書いていた)、「おおー!」と思って開いてみると体感そのもののサムネイル画像付きだったので、これは過去のわたしからのプレゼントか何かなのだろうとなんだかふわりと温かい気持ちになっている。心の中にキャンドルの炎がそっと自然に、やわらかく点るような感じ。時が満ちてそうなった、というふうな空気感。
わたしの輪郭を通り抜けて、そこにある世界、そのまま拡がっていく世界、そもそもそこにあった、拡がっていた、流れていた世界に溶けていく。それは、わたしでありながら全体に融けるような感覚で、輪郭線のみがあるだけの全てが共有されている世界。その共有を、共鳴とか共存とか共奏とか共振とかいうのだと思う。
エネルギーは常に重なり溶け合って、でも混ざりきらずマーブルに、でも限りなく分離したままで一体化している。独立/独律がそのまま共立/共律になる感じ、単音のまま和音である感じ、主旋律でありながら同時に副旋律でもある感じ。互いが個であり全体である。個に対して全体でもあるし、個でありながら全体でもあるし、全体の中に個がある(からつまり個は全体)でもある。
個にしがみつくことを終わりにせよ。
ここまで(2行前まで)書いて、急にこの言葉が出てきた。─のでそのまま書いた。なるほど、あの感覚は、既にそうであることを知っていると感じて、既にそうであるとも感じて、だからそのまま委ねればいいし、そもそも "そう" であるとき個と全体には同じものが流れているのだから委ねるも何もなく、手放すも何もないのだということを、体感で教えてくれたあの細かく刻まれたなだらかなコマ送りのようなスローモーションのような刹那の中の永遠の中のような時間は教えてくれたような気がする。
言葉にするよりも感覚のままの方がわかりやすくて、でも言葉にしないと伝わらない。ただ、そこに表現された言葉が感覚由来の言葉か、思考由来の言葉か、どちらの言葉で翻訳するかが、実は大きな分かれ道であり、大きな分かれ道となる。ちなみにこの感覚は今日気付いた感覚で、それはつまりこの感覚についてわたしの中での分離が起こったということだ。今まで分離できていなかった感覚が分離できて、わたしは密かに感動して、実はそれ単体でnoteを書こうとしていた!(何だか話が回っていて笑えるのだが、実は少しだけ書いたものが下書きに入っている。)でも、今書くかどうかを決めてなかったこのnoteを書き始めたことで、そこに流れが繋がっていて、それはわたしにとっての想定外の流れで、でもわたしの中にあった流れで、つまりそれは今ここに書いてきた「わたしの輪郭を通り抜けて、そのまま拡がっていく世界」そのものの流れであって、だからそれでいいのだなぁとすぐに答えをもらえて嬉しくて、じわじわ受け取っている。
問いが存在するとき、答えも既に存在する。これは引き寄せの法則を言い換えたもので、そういうふうにこの世界はできているよ、ということ。そのことについて、過去に書いたnoteを思い出した。これも全く同じことだ。今ここにいるわたしのなかに湧き出ずるものには、相応のエネルギーで呼応するものが既に存在する。それは、意図することで誘われるのと同じことだ。
決めることと決まっていること。このふたつが同じであることを知り、その場所に自分の0を設定できるとき、世界はきっと今までと同じままで、全く違うスケールでそこにあるということを見せてくれる。その壮大な物語は、大いなるものは、今この瞬間も、わたしたちひとりひとりがそのことに気付くことを、祈っている。
※祈っている、は人間からみた/人間の視点でキャッチするとこういう表現になるというもので、それはこの世界の理、 'そうである' ということと同じ意味です(と現時点のわたしは受け取っているしそう翻訳しています)。
2024/05/06 (120/366)
本文中に出てきた過去noteはこちら。
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