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ジーザス・クライスト・スーパースター 2024/05/07

これは、「『ジーザス・クライスト・スーパースター』を観たよ!」というnoteではなく、「『ジーザス・クライスト・スーパースター』を観に行くよ!」ということを書いたnoteである。

恐らく、駅の構内のポスターか何かで見たような気がするのだが(この記憶についてはなぜかとても曖昧)、冒頭から既に3回も触れている「ジーザス・クライスト・スーパースター」(劇団四季)の存在を知ったのはちょうど今から1ヶ月ほど前のことだった。

ポスターを観た瞬間にその中に吸い込まれた(感覚があった)ので、「これは観ないといけないやつ!」と思い早速劇団四季のホームページをチェック。その時点ではまだ公演は開始されておらず(ちなみに@京都劇場、2024/04/20開幕、06/02千秋楽)、だがチケットは既に売り出されていて、一言でまとめると当日券しか難しいという情報を得た(その時は、ですね)。

なので、その時点のわたしとしては、「とりあえず手帳を眺めつつ行ける日を考えながら当日券情報をチェックして行ける日に行くしかない」というところに落ち着いた。行けるところには行けるので、行けるという確信のある日が出てきたらその日に行こうと思っていた。

それが、昨夜(05/06の夜)、普段あまり丁寧にはしないほぼ見ていないメールのチェックをしていたら、まもなく大阪公演が始まる「ハムレットQ1」のチケット情報が届いていて、そのメールを開き、ざっと最後まで目を通したところ、最後に「劇団四季特集」というタブがあった。

わたしはほぼ無意識のままそのタブをクリックし、自分のかねて目当てとしていた作品「ジーザス・クライスト・スーパースター」をチェックしたところ、どうやらここからもチケットが買えるようだ。なぜだろうと見てみたところ、リセールチケットが出ていることがわかった。
※わたしの劇団四季のチケットの買い方はだいぶ前の時点からupdateされていなかったということ
※きっかけは「ハムレットQ1」だったはずなのに、そのリンクは開いていないというのもミソ。

わたしは、「なるほど!これで予め行く日を決めた上で、『ジーザス・クライスト・スーパースター』を観に行くことができるではないか!(至福)」と喜び勇み、手帳を開いて大阪に行く用事のある日を確認し、その日の元々の予定と自分に余裕がなくならず共存できる時間の公演をチェック&確認し、そのまま購入することにした。

チケットはエリアを選んでから座席指定までできるもので(リセールなので座席もわかっているということだったのだなとこれを書きながら理解)、その座席の番号がまるでわたしを呼んでいるようにかんじたのと、もともと見たいと思って当たりをつけていたような席だったのとで即決した。

創立70周年に贈る、劇団四季ミュージカルの原点。
時を経ても輝き続ける、魂の舞台をあなたに――。


創立70周年を記念して、劇団四季が自信と誇り、熱い想いと共にお贈りする『ジーザス・クライスト=スーパースター』。
演出家・浅利慶太が、オリジナル演出とは全く異なる独創的な発想で、海外ミュージカルを“日本人の心”に響く舞台に昇華させた、浅利演出の代表作です。
初演時のキャストは、劇団四季の俳優が中心。スターの知名度に頼らず、真の実力を持った俳優たちが、深いテーマ性のある作品を上演する――
四季の基本姿勢の先駆けとなり、現在の上演スタイルを確立した、まさに“劇団四季ミュージカルの原点”。それが『ジーザス・クライスト=スーパースター』なのです。
さらに、『キャッツ』『オペラ座の怪人』の作曲家A・ロイド=ウェバーと『ライオンキング』の作詞家ティム・ライスが20代の時に生み出した出世作でもあります。

Introduction

この作品は、イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)が十字架にかけられるまでの最後の7日間を描いたミュージカルである。

今からおよそ2000年前、ローマ帝国領のパレスチナに一人の青年が現れた。

大工の息子ジーザスは、人々に新しい教えをとき数々の奇跡を起こしているという。
圧政に苦しんでいた民衆たちは、たちまちジーザスの言葉に耳を傾けるようになり、彼こそ「救い主」「神の子」と讃える。

Story

そうだ。そうだった。わたしは自分が、2019年にSagrada Famíliaを訪れ、受難のファサードの彫刻を見てからずっと、イエス・キリストの最後のストーリーを知りたいと思っていたことを、あのポスターを見てきっと思い出した無意識に気が付いたのだと思う。

ということで、想像以上に近いうちにわたしはこのミュージカルを観に行くことになるのだけど、これもまたきっと何かの分岐点なのか通過点なのだと思う。わたしの感覚的には、何かしらの「分水嶺」・・・・・  ・・・   であるような気がしている。或いは、これを書きながら新たに知った「分水界」というものなのかもしれないな、その方が相応しそうだなと思っている。

分水嶺の「水系が別れる境界」そのものは「分水界」と呼ばれる。

Weblio辞書(リンクは最後に)

ちなみに気になるのでここで少しnoteを書く手を止めて言葉について調べてみたところ、過去にnoteでわたしが書いていた「分水嶺」の感覚は、「分水界」という言葉の方が近い感覚であるということが分かった。

分水界(ぶんすいかい、英: drainage divide)とは、異なる水系の境界線を指す地理用語で、山岳においては稜線と分水界が一致していることが多い。分水嶺(ぶんすいれい)とも呼ばれる。古くは水分(みくまり)とも呼称した。山岳だけでなく平地にも点在している。

Wikipedia(リンクは最後に)

分水界という言葉は古くは水分みくまりと呼ばれていたそうで(Wikipediaより。リンクは最後)、この言葉に触れた瞬間一気に諸々の解像度が上がった。そうだ、そういうことなんだと思った。この【水】に触れる感覚、【】が違う感覚、【】に触れる感覚、分かつ、分かれる、そもそも分かれている(分かれてそこに在る)という感覚、そのはずのものが分かれていないという感覚。

・・・正直、言葉にならない(することか難しい)のだが、目の前に映った世界地図がぶわっと隆起し、水分みくまりによって分かれるイメージが目の前に現れた(今も繰り返しそのビジョンは見ることができるのでとてもありがたい気持ち)。先月末、高千穂@宮崎を訪れて《》の体感について全身で触れ、その世界に物理的にも見えない世界的にも没入し、感覚のupdateしてきていたことも大きく大枠で、そして小さく繊細に関係していると思う。

頭の感覚では話が大きくズレているような気がするが、体の感覚では全くズレていない。今書けるのはここまでのようなので、一旦ここまで。続きはまた。

最後に付け足すことがあるとすれば、イエス・キリストのミュージカルを観に行くという話をしているのに、サムネイルに選んだのがマリア像であることに、今わたしは深く意味を感じている。



2024/05/07 (122/366)

このnote内で触れた記事(過去note含む)を貼っておきます。

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