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カコタムでの「別れ」を考えてみる

 2月もまもなく終わり、東京では最高気温が20度を越える日も出てきました。今年も、出会いと別れの季節が目の前に迫っています。

 1年間で世の中の常識ががらりと変わり、移動や外出が大きく制限されましたが、それでも、進学や就職、転勤などに伴う春の人の入れ替わりは、今年も変わらずあるのでしょう。別れは寂しいものですが、同時に新たな出会いの機会でもあることは、だれしも実感として持っていることかと思います。

 今日は、Kacotamマガジン指定のテーマ記事として、「カコタムでの別れ」の題材で、書いてみようと思います。


子どもとの別れ

 Kacotamにはたくさんの子どもが通ってきてくれています。毎月新しい子が入ってくれる一方、色々な事情で、ある時を境に、Kacotamに来なくなる子どももいます。

 Kacotamと子どもの関係は、例えば学習塾のように「月謝を貰って対価としてサービスを提供する」というような、わかりやすい「契約関係」とは異なります。そのため、来週も必ず会えるという保証はどこにもなく、事実、今日一緒に過ごした子が、それっきり会えなくなる、ということも何度もありました。

 そこには、いろいろな理由があろうかと思いますし、もし家庭の事情や金銭的事情でKacotamに来たくても来れなくなってしまう子がいるのであれば、本人たちや、あるいはそんな社会に対して、なんらかのアプローチをする努力はもちろん必要ではあります。

 とは言いつつも、「Kacotamに来なくなることが必ずしも良くないこと」とは限りません。

 いわゆる「警察官のジレンマ(犯罪の無い世界を理想とするが、犯罪が無くなってしまうと職を失う)」に似ていますが、Kacotamの描くビジョンが実現した世界に、Kacotamのような団体は必要とされるのだろうか、と、ふっと考えることがあります。

 Kacotamが、その子にとって必要な存在でなくなったとき、彼らは自然と、卒業していきます。前述のとおり、○月までというような分かりやすい契約関係にあるわけではないので、卒業は予期せぬタイミングで、ふいに訪れます。あるいは、またいつか、我々が必要になった時に、ふらっと現れることがあるかもしれません。それくらいの「ゆるい繋がり」が、Kacotamの大事な部分なのかなと、思ったりします。

 「来週また会える保証がないこと」を悲観的に捉えるのではなく、逆に「今日会えたことを大事にする」のが、Kacotamメンバーとして大事な姿勢のひとつなのかな、と思っています。


メンバー自身の旅立ち

 私たちボランティアメンバー自身が、転居であったり、生活環境の変化だったりを理由に、活動現場から離れることもあります。

 もちろん、メンバーが長く活動に携われるに越したことはありませんが、それぞれKacotam以外の顔をたくさん持っていて、さまざまな事情がある中で時間を割いている活動なので、そこに「別れ」が生まれるのは仕方のないことなのでしょう。

 「別れは新しい出会いの始まり」とよく言いますが、ここでも大事なのは、「別れ」のマイナスの側面に囚われすぎず、Kacotamで得た経験を、新天地で存分に発揮できるように前を向くことかな、と思います。


 とはいえ、同時に「別れないという選択肢もある」のもまた、事実かなと思います。

 今の時代、たとえ住む場所が遠くに離れたとしても、人とのつながりが完全に断たれることはありません。特にこの1年で、全世界的に、さまざまなコミュニケーションのオンライン化がいっきに進みました。Kacotamでも、活動への関わり方は様々になっています。

 ここでお伝えしたいのは、もし、「別れ」に直面したメンバーが「別れたくない」と思うのなら、取りうる手段はあるかもしれない、という話です。

 僕自身、札幌から遠く離れてもうすぐ約1年になりますが、チームの活動や間接的な学習支援を継続できていますし、来年度からは新規事業も始められそうです。

 個人的に、「どこでも活動できることの証明」は、極めて関心の高いテーマなのですが、詳しくは前回の記事で書きましたので、もしお時間あれば読んでいただけたら嬉しいです。


 

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