見出し画像

手紙 〜綴〜

キィィイイイイイ!

つんざくような急ブレーキの音で目が覚めた。

まただ。頭の中ではその音がずっとこだましている。いつもこの夢で目が覚める。やまない耳鳴りと頭痛。こんな人生さっさと終わればいいのにと顔を洗うよりも先にそんな思いが頭をよぎる。今日もまたのうのうと朝を迎えてしまった。
美音がいなくなったのは7年前。ある日の帰り道に僕と分かれた後、大型トラックにはねられて即死だった。遠くでブレーキ音を聞いた僕は物騒だなあとぼんやり思っただけだった。
遺体は見ない方がいいと言われたが、事実を受け止めることができない僕に彼女の母親が特別に口を利いてくれた。その華奢な体は悲しいほどに痛んでおり、ただただ可哀想でたまらなかった。葬式にも出席したが、現実を理解するには時間も心の準備も足りなかった。彼女の家族もそうだったろう。喪失感ですら追いつかなかった。
彼女がいない空白はいくら時間をかけても埋まらない。これはこれまでの事実の積み重ねであり、僕のこれからの未来だった。時間が解決してくれるよと友人は言ったが、そういうものではないことを実感としてわかっていた。

外は天気予報のとおり雨が降っていた。二人で過ごした部屋は今もそう変わっていない。彼女が料理を作ってくれた台所も彼女の髪を乾かしたドライヤーもそのままだ。僕は彼女の笑顔が好きだった。笑うと猫みたいに目が線になるところが可愛かった。彼女がそこにいるだけで空気が華やいだし、癒やされた。彼女の笑顔を見ていられるなら、何だってできるつもりでいた。その気持ちは僕を強くしてくれたし、他の誰かとそうなれるとは考えられなかった。
ある日部屋の中を片づけていると、引き出しの奥から宛名のない封筒が見つかった。ひまわりの絵がプリントされた可愛らしい封筒だ。おそらく美音の持ち物だろう。こんなところにもまだ彼女の気配を感じて、僕はいくらか安心する。そんなことにいつまでも身を浸していてはいけないのかもしれないとそう思うことはこれまでも何度もあったが、僕にはそれを捨てる勇気は持てなかった。封筒をそのまま引き出しに戻そうと持ち直すと厚みがあった。中に何か入っているのだ。
まさか。胸の奥がズンと鳴る。中には何か書かれた便せんが入っているのが見えた。そこには美音から僕に向けた手紙が入っていた。
手紙を開くと彼女の丸い筆跡でこう書かれてあった。
「いつもありがとう。今日でちょうど3年だね。出会ってから今までいろんなことがあったね。一緒にごはんに行ったのに財布を忘れて行ったことも、冷蔵庫の置き場所でケンカしたことも今思い起こせば大切な思い出です。私達二人だから今まで仲良くやってこられたと思ってるし、これからもやっていけるって信じてるよ。これからもずっと一緒にいようね。いつでも大切に想ってるよ。美音」
「美」の字がにじんだ。なぜなくしてしまったのだろう。不条理で暴力的な運命。僕らの未来はこの手紙が書かれた日で止まっている。僕の大切な人は閉じ込められ、この手紙のように思い出の中でしか生きられなくなってしまった。もう一度会いたいと願っても、その願いは二度と叶えられない。現実が僕を押し潰す。耐えられる重さではない。時間は解決なんかしない。気づけば僕は悲鳴をあげるように泣いていた。僕の部屋は嗚咽を吸収して、しんと静まりかえるだけだった。

数日後、僕は仕事の帰りに文房具屋に向かった。
「亡くなった人には手紙を書いて机の引き出しに入れておけば気持ちが伝わるんだって。」
ふと会社の若い子が騒いでいたのを思い出したのだ。馬鹿馬鹿しいと鼻で笑いたかったが、今の僕は否定する術を持たなかった。そんなくだらない迷信を信じざるを得ないほど、あの手紙に僕の心は揺らいでいた。気持ちの整理をするのにもいいだろうと自分に言い訳をして、僕は美音が好きそうな花の模様のシンプルな便せんを選んだ。

家に帰っていざ便せんを前に座るとどういう風に何を書けばいいのかわからなかった。
「ふふっ格好つけるからよ。」
美音の声が聞こえた気がした。参ったなと独りつぶやいた後、僕はやっと一筆入れることができた。
「美音へ。美音は僕にとってかけがえのない人でした。」
1ミリも偽りのない一文。僕にとって美音は他の誰とも替わりがきかない存在だった。僕の気持ちはきちんと彼女に伝わっていたのだろうか。虚勢を張って背伸びをしていた僕には素直にそれを表現することが出来ていなかった。今こうしてここに綴る言葉がもし彼女に伝わるのなら。どうか届いて欲しいと願う。
「もっと美音と一緒にいたかった。もっといろんなことを話したかった。もっと大切にすればよかったよ。」
こみあげる後悔に涙が溢れたが、僕はそれを拭いながら続けた。
「いつも怒らせてばっかりだったよな。僕が遅刻した時とか、メニューを決めるのが遅いとか。美音に怒られるの、実は嫌いじゃなかったんだ。でもわざと遅刻したわけじゃないよ」
「美音がくれたCD、今も大事に聴いてるよ。あのアーティスト大好きなんだ。これからも聴き続ける。あのCDを貰った時本当に嬉しかったなぁ。ありがとう。」
「美音に会いたいです。無理なことはわかってる。これは僕の気持ちなんだ。」

想いはかろうじて文字に変換された。単純な言葉を紡いでもそれ以上に伝える方法がわからなかった。僕にはまだまだ伝えたいことがたくさんある。ありきたりな言葉ももっと強く響くものであったらよかったのに。

書き終えると、気づけば時計は深夜零時を超えていた。このまま眠ればまたいつもの朝が来るだろう。またいつもの彼女のいない朝が。綺麗な空でさえ僕の目には虚ろに映る。僕はあの日から人生を彩る全ての色を奪われてしまった。彼女のいない朝にいつか希望が宿る日が来るだろうか。

僕は、空白の日々を繰り返していく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?