見出し画像

みて、とどける人。

見届ける。

この言葉に昔、不思議さを感じた。
見ると、届ける。それが合わさるとはどういうことだろう。

そんなテーマで、小5のときに作文も書いたことがある。

言葉についての作文だったけれど、担任の先生にもっとことわざとか四字熟語とかを選びなさいと言われたのが、今につながる反骨の心の芽生えだと記憶している。前の席の男子が「一石二鳥」と同じ意味のことわざはこのぐらいたくさんあります、と調べ上げて褒められていた。今ならAIが0.001秒で諸外国語まで調べてくれるものだ。

さてその「見届ける」の作文、この時ぼくは、小3で引っ越した時のことを書いた。

小学校の時は草むらばかりを駆けていた。

2歳の時から7年間住んだ家から出るとき、がらんどうになった家が面白く、ぱたぱたと駆け回っていたら、母に叱られた。下の階の人に迷惑だからと。(団地だった) もう会わないじゃん、と8歳マインドで口答えした僕を、さらに叱る母。そのとき、引っ越しを手伝ってくれた母の友人(とてつもなく重い荷物をひょいひょいと持ち上げる女性で驚いた)が言ったのだ。

「このおうちともお別れだから、ちゃんと見届けてゆくといいよ」

僕は疑問に思った。
ちゃんと見る、なら、分かる。
あの部屋でお蕎麦をこぼしたな。
あの部屋で干し椎茸を齧って怒られたな。
あの部屋でピアノをテープレコーダーに録音して、それを流して練習しているフリしていてすぐバレたな。
見れば見るほど思い出す。刻まれる。

でもそれを、届ける、って?
どういうことだろう?

30年以上経ったいまも思い出すくらい、僕は言葉尻を唱えて疑問を抱いた。母の友人にも叱られたとその時思ったのだろう。

―――でも、その「続き」を覚えている。

新しい家に行って、はじめての晩。はじめて部屋をもらい、はじめてベッドで寝る。ふとんが大きくて、寒くて、丸まって寝ていた。その時思い出した。蕎麦のこと。干し椎茸のこと。録音したメヌエットのこと。引っ越しで飛び越えた町々、家々を越えて、「見た」ものが、たしかに、「届いた」。

見届けた。

このことを作文に書いて書き直しを命じられたことは別として、この経験は強烈に覚えている。その後、大学で美術史を学んだのも、映像の道に進んだのも、見ると、届ける、の組合せにどこまでも惹かれたからだと思う。

美術品を見て、その作品から受け取ったもの、不思議に思ったことを、古今東西の史料・史実を元に紐解き、論文として届けるのが美術史。
ある現場や人、モノを前にして、見て見て見尽くした上で、その全体を24時間360度で届けるのは不可能だから、見たものが伝わるように映像で切り取って、放送や公開という形で届けるのが映像の仕事。

最初の最初は、ここから届けた。いまもここを見ると、届ける思いになる

あの日から今も、きっといつまでもどこまでも、見て、届けることが僕の人生の根幹となり続けている。

さてこんな何だか私的なことを書き連ねてしまったのは、今日、ある特別な展覧会を「見て」来たから。なんとかの暇無しで駆け回っていたので行けるか行けないか分からなかったのだけど、きょう、見ることができた。見て、見て、見た。それを「届ける」べく、見終えて25分後の今、これを書いている。

「見た」のはこの展覧会だ。

きょうの午前中まで、埋め尽くされて途方に暮れていたスケジュールが、
武蔵小金井駅で14時に終わる。そのことはわかっていた。
そしてあしたからはまた、途方どころか怒涛に乗るしかないスケジュールがはじまる。
きょうこの日に、武蔵小金井にいるのはある種の天の配剤ではないか。
僕は前日、チケットをおさえ、武蔵小金井から中央線を反対に乗り、立川へ向かった。駅から歩くこと10分。到着した空間はあまりに豊かな空間。子どもたちが水に戯れ、誰もが本を読んだり、語らったりしている。
その奥に、その展覧会の空間はあった。

2022年から仕事を共にさせて頂いている、「船長」。
その言葉は、2年目、2回目の仕事となった昨年も、本当に鮮烈だった。
船長の最初の巻頭言で始まる番組。
2022年は一発でOK。みんなで思わず唸った。
2023年は、回転扉で出てくる仕掛けがすこし複雑すぎて、扉の閉まりが何回かずれる。そのため、何テイクか撮った。
そのたびに、扉をつくった美術チームや、うしろで扉をピタリとはめる役を担ったスタッフは緊張する。何度も繰り返させては申し訳ないから。
でも、船長はその度に声に出していった。「次はもう少し明るくやってみよう」「お昼の番組だものね、もう少し勢いよく言ってみよう」・・・周りが申し訳ない気分にならないように。
僕はその声を聞いてあらためて思った。
「ああ、この人は本当に、言葉の方だ。ことばのひとだ。」と。
自分の言葉が、どう届くかが、わかっているし、これ見よがしではなく、自然に溢れ出るように言葉を紡ぐ。
そばにいたクリエイターの竹谷さんも名久井さんも、うんうんと頷いていたのを目撃している。

そのあとも現場は、船長の言葉に導かれ続けた。
それは、船長オリジナルの言葉だけではない。
たとえば常滑が平安時代からの焼き物の産地であること。
それがナレーションされるとすかさず「平安時代」とつぶやく船長。
これで、届く。
VTRのナレーションで、これは届いて欲しいということばを必ず、つぶやいてくださるのだ。

毎回、番組ではロケにも出て頂いている。
そのロケの際も、船長はカメラの回っていない時に
「言葉」でぎゅっと取材相手をつかんでいた。

穴太衆の粟田さんたちを取り上げた番組をご覧になった船長。
挨拶のあと、写っていないところで、すかさず「見ましたよ!サムライウォール」とぶつける。取材相手の粟田さんも、ディレクターたちもうれしくてたまらない。言葉で、人の心をどんどん掴んでいく。

収録の最後に、僕は船長を見送る大役をおおせつかった。
そこで船長と何を話したかは、あまりに大切な思い出すぎて、死ぬまで語れない。だけれども、本当にほんとうにうれしかった。僕の言葉も覚えてくださっているし、それに対する言葉も、刺さる刺さる包まれる包まれる。
日本を代表するクリエイターたちを招くこのプロジェクトだけど、船長もまた、日本を代表する「言葉」のクリエイター。数多の言葉を読み、浴び、編んできた僕はそう思う。いつまでも、その言葉を聞きたいから、共に仕事をさせていただきたいと思う。

だから、絶対に今年の展覧会も来ると決めていた。
いつならいける?いつならいける?今日だ!ということでやってきた今日。
―――そして、今日は、3月11日である。

震災のことをきょう考える意味でも、訪ね続け、伝え続けてきた船長の
ことばを感じに行きたいと思った。
昨年の展覧会でも、震災のことを振り返る展示があり、あまりに濃厚で鮮烈に覚えていた。

そして今年は、昨年とならぶほどに、鮮烈なものを持ち帰ることとなった。

(昨年は見た瞬間にnoteに書いた。同じことを今している。
そのくらい、鮮烈なものを受け取った。展覧会をまだご覧になっていない方はネタバレしまくりなので、有料部分にします。)

ここから先は

2,425字

¥ 333

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?