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やたら高い服を買うことを家族が受け入れてくれる、たった一つの冴えたやり方

結論

買った服を着倒す。

余談

家族が増えるということは、ファッションに限らずあらゆる趣味においてそれとの付き合い方を否応なく変質させ、独身時よりも時間も金もかけられなくさせる。
えいやと一旦離れてみると案外それに執着していない自分が見つかり「卒業」する趣味もあれば、自らの魂と分かち難く結びついている趣味に気付いたりもする。
ここからの話は、現時点で洋服がそういう一生付きまとう趣味となっている人間の話であり、洋服がそういう一生付きまとう趣味に今後なりうるのか、という話である。
言い回し的に「べき論」みたくなってしまっているが、実態としては自身の状況から理屈を逆算した特性論に過ぎないので悪しからずご覧いただきたい。

洋服というものは、高額である理由を知識・関心のない人間に合理的に説明するのが極めて困難なものである一方で、すべての人間に欠かすべからざる生活必需品でもある。この生活に欠かせないという特性を最大限活かそうとすると冒頭の結論に辿り着く。
その洋服が自分の生活に必要不可欠であると配偶者に説明し、購入した服を日常生活でガンガン使い倒している姿を実際に見せる。洋服は蒐集物ではく日常を彩る生活動産品なのだと相手が納得すれば良いということだ。
この境地に達するには少なくとも二つのハードルを超える必要がある。それは、「エリクサー症候群」と、「自意識とTPOとの折り合い」である。

価格の高低、ブランドの優劣に関わらず、着用すればするだけ洋服は消耗する。ハリは消え、シワが入り、毛玉ができ、襟袖は黄ばみ、色は霞み、クリースは消え、シームテープは剥がれ、ダウンは抜け、ポリウレタンは崩壊する。
故に大方の人間は、高額な洋服はできるだけ着用を控えて寿命を伸ばし、普段使いでは廉価な洋服で過ごすのが望ましいという価値観に着地する。そうして高級品は時が止まったように何十年もクローゼットに残り続け、勿体無くて使わないまま使われる場面が終わる「エリクサー」が完成する。
案外、エリクサー症候群は所謂「洋服オタク」においても(むしろ洋服オタクだからこそ厄介な形で)顕在化する。好きな服を着たい欲求と好きな服を消耗させたくない欲求が絶えず綱引きしていて、後者が究極に強まると、その服を持っていること自体がストレスになることすらある。
高級服は株と似ていると思う。自分が許容できる「分」があって、それを超えるものは所有し続けることさえ困難を伴う。分不相応な金額を投入した株券は往々にして、わずかな値動きを見るだけで動揺、狼狽し売り払うことになる。待てばはるかに多くの利益を得られるのに(得られると確信したから買ったのに)それを持ち続けるストレスに耐えられない。自分にとって高すぎる洋服も同じことだ。消耗が怖い。流行の変化や飽きが怖い。手放す時に無価値になっているのが怖い。セカンドマーケットには数回しか着用していない高級服で溢れているが「気分が変わった、着用場面がない」という説明文の背後には大概この手の恐怖が横たわっているのだと思っている。
着用しない服がずらりと並んだクローゼットを配偶者はまず許容しないだろう。ならば、その恐怖を振り払わなければならない。朽ちゆく過程を愛せるようにならなければならない。

家族が増えると生活が変わる。趣味というものは疑いなく「自分」のためのものであるが、結婚や出産は否応なく自身の世界に他者が入り込み、掻き回すものだ。独身時に趣味の価値や必要性をジャッジするのは自分で済んだが、家族を持つならばその判断の一部を家族に預けなければならないだろう。洋服で言うならば、着ている服を気にするあまりその場で取るべき行動(主に汚れや擦れ、生地の伸びを伴う)を躊躇するようでは家族の理解を得ることは難しい。
平凡な日常生活が1年の大多数を占め、一人でセレクトショップを回る時間は、日用品をスーパーで買い求める時間に取って代わられる。そういう日常に無理なく滑り込むデザインに金を払う価値を見出だし、一見「退屈」な洋服を愛することができる自意識に変革できるか、という問題だ。これは当人のファッション遍歴や好むイメージによって、難なく移行できる人もいればアイデンティティの解体レベルの出直しが必要な人もいるだろう。自分が好むスタイルが全く目の前の「日常」に全くそぐわない人に対する妙案は、現在のところ思い浮かばない。

おわりに

家族と折り合いをつけながら高い洋服を買いまくっている人間は決して少なくない(このような生き方の良し悪しは別問題として)。これは、上に挙げたような話を意図的にやろうとしてそうなったのではなく、洋服を買い続ける過程で自然とそうなっていたという類の話なのだと自身の事例の下に推測する。キリンが高い所の草を食べるために首が長く進化したのではなく、首が長かった動物がたまたま生き残りそれをキリンと呼ぶようになったのと同じことだ。





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