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A night in CINE-MA VIII 【後編】例外音楽/建築論

岡田栄造(京都工芸繊維大学教授、「岡田邸」施主)+野口順哉(音楽家、空間現代)+佐々木敦(批評家)+中山英之(建築家)

TOTOギャラリー・間「中山英之展 , and then」
ギャラリートーク「a night in CINE-MA」8

部分を撮ることの意味


中山英之 ここに座っていると、なんだか制作の現場にいたかのような気持ちになりますが、今回私は映像制作にはまったく関わっていません。「建築のそれから」に建築家が関わるわけにはいかないので、今話されているミーティングにも参加していないんです。ただ唯一、それぞれの映画に使われるカメラ選びにだけは、私も関与しました。濱口竜介さんには、それは何が写るかに対して決定的な判断をしているでしょう、と言われてしまいましたが(笑)。その時にも触れたのですが、1964年の東京オリンピックの記録映像を監督した時の、市川崑のエピソードをいつも思い出します。当時まだ手に入りにくかった超望遠レンズを、各会場に散らばった撮影クルーたちに配った話です。肉体の緊張と躍動を捉えた金字塔的映像は、そうとしか写らないレンズを渡すことで生み出された、という。今回僕が選んで渡したのは、一人称視点で写せるGoProや、全天球カメラのTHETAなどでした。そしてそれは、私が思い描いたとおりの絵を捉えていた、とも言える。ただ、「岡田邸」に関しては、カメラの選択にも本当に一切関わらず、そして結果的にそれが最も、私にとっては例外建築映画になっていた。

佐々木暁 今のお話を聞くと、僕が今回の作品、とりわけ「岡田邸」の作品を観て、映像から建物の構成がなかなか把握できなかった理由がわかった気がします。全体を撮らずに部分を写しているからなんですね。
建築とは、最終的な完成形から逆算して部分が決まっていくものだと認識していましたが、中山さんの本(『スケッチング』)を読んだ時にそれが覆されました。中山さんの場合は、住人の動きからディテールが想起され、それが広がって建築になる。『例外小説論』で、ある絵を描く時に画家が描いた最初の一筆が完成後認識できずとも確実に存在しているといったことを書きました。小説であれば書き始めた一言目がある。そこで言いたかったのは、全体像を措定した上で考えるのではなく部分からものを発想するということの重要性です。今回上映された映画も、同じようにつくられていると感じました。そしてそれは、中山さんの建築を撮ろうとするからそうなっているのではないかと。

岡田栄造 たしかに今回の映像も、ディテールからできているようなところがあるかもしれません。この映像を撮るのに35mmのレンズと広角レンズの2つを使いました。35mmはスナップ的に部分の絵が撮れるんですが、広角レンズは全体を撮ることができて、これを使うといわゆる建築写真っぽくなるんです。実際よりも迫力がある絵になったり、わざわざ全体を撮ろうとしているように見えて。そういう絵は編集の時点で削ったものが多いのですが、それでも母屋を広角で写した絵は残っています。隅のほうに子どもがいて、側面の白い壁が大きく写っているような絵ですね。不思議なことに全体を写している感じにならないんですよね。そのショットがこの建築のもっている雰囲気に近いと思いました。

中山 「岡田邸」の時も含めて、スタッフと案について話し合う時によくスケッチを使うんですけども、無意識に対象を紙の隅っこに描いていることが多くて。今描いた何かによって、ただの紙だった白に意味が充満していく感じを大事にしたいのだと思います。白い場所に何を見るのかは、捉えようによってさまざまであってほしくて、たいていは描き足したい手にブレーキをかけて、途中で線を止めてしまいます。小説でいうと芥川龍之介の『藪の中』のような感じというか。ひとつの出来事を語っているようで、そこにいた人の数だけ経験があるような。
僕にとってこのことは、実際にできあがった建築でも大事なんです。建築家が示すパターンにすべての生活がぶら下がっているような状態が思い浮かぶと、考える頭や手がこわばります。岡田さんほど、例外生活者としてそれを体現するような家族も他にいないと思いますけれども(笑)。
それくらい建築には、もしかしたら音楽にも、定式化されたパターンや思考がかなり強固に存在します。最初の頃に空間現代がつくっていた曲にも、たとえばAメロ・Bメロ・サビみたいな構造って、あったのですか?

野口順哉 ありましたね。

中山 おお! そうなんですね。でも、やっぱり建築も構造なしには立ち上がらないように、音を組み上げるのにも構造は必要ですよね。そうでないと複数人でのバンド演奏だって成り立たない。私の場合は、不完全なスケッチに勝手な解釈でかたちを与える事務所のスタッフが欠かせない存在だったりするのですが、今回映像と音を同時に立ち上げていく様はどんな感じだったのか、とても興味があります。

野口 今回の場合は中山さんの建築と岡田さんという共同制作者がいたので、すんなりとつくることができました。制作をする際によりどころとなる外部がすでに存在していて、しかもそれがとてもおもしろい。自分たちの楽曲をつくるという時には頼る外部は存在しないので、自分たちの内部に外的なものを発見しなければならなくってすごく苦悩します。つまり、自分がつくったんだと思えてしまうものって聞くと気持ちが悪いんですよ。ギターでこんな音が出せたのか、というような驚きとともに聞こえたときのような状態を求めている。今回は外部があらかじめ用意されていたので、とにかく自分たち以外のものと対話することを考えました。
もうひとつ感じたことを続けてお話しすると、観客が音楽家にとって大事だと思っていて、観客と音楽家は時にフラットな関係になれると感じています。演奏する仕事をしている人と聞く仕事をしている人が対等な状態というか。それって、建築と住んでいる人の関係に少し似ているなと思っています。中山さんの建築は、最初の感覚がすごくポップだと思うんですよ。ポップというのはアヴァンギャルドと対比した時の普遍性みたいな意味です。中山さんが最初に描くスケッチは、普遍的な感情、感覚のよさを出発点にしているんだなと感じたんですね。ところが、実際にできたかたちを見るとアヴァンギャルドに見える。そして、岡田さんの生活っぷりを見て思ったのが、アバンギャルドなかたちの中でポップな生活が送られるような感覚がうかがえたんですね。生活と建築で環が回っていくように感じました。

中山 観客と音楽家のフラットな関係。その感覚はとても近い感じがします。それから、このことは今のお話とは少しずれるかもしれませんが、音楽家にしても建築家にしても、すべての創作者がはじめから強い信念やメッセージをもっているのかと問われたら、必ずしもそうは言い切れません。むしろ、その創作領域そのものに魅せられてしまっている部分が、少なからずあるのかもしれない。前回の濱口監督の映画にも、僕は映画そのものを感じます。映画を通じてなにかそこに描かれた主題に心動かされるというよりも、映画とはこういうものなのか!という感覚に打たれる。空間現代の音楽にも、僕は同じ感じを抱きます。リズムに乗って体が気持ちよくなるようなこととは少し違う、頭が体の外側に出て、そこから音楽世界を見ているような感じ、とでも言うのか。先ほど佐々木さんは、「例外」であることは結果的にその分野の領域を広げる、とおっしゃいましたが、本当にそう思います。そうしたスタンスはともすると「マニアック」などと言われてしまいそうになりますが、僕は「フェアプレー」だなあ、って思います。

岡田 空間現代の音楽は予想もしてない音が飛んでくる。中山さんの建築も私の予想を超えてくる。でも、これはいいという感覚が、こうでなくてはいけないと思っていた常識から解き放たれる瞬間がたびたびあるんです。分野を超えて建築や音楽に魅せられてるのはこの感覚につながってると思うんですよね。

野口 本当にその通りで、そういう感覚こそが一番重要だと自分も思っています。僕らの音楽でダンスはできないと言われながらも、音をつくっている時の僕たちの体は動きまくっていて、かつ体感的な判断でつくっているので、論理を超えたところに判断基準があるんですよね。「偏差値高そう」とか、「近寄りがたい」とかさんざん言われてきてるんですが(笑)、じつはそんなに頭で考え切れているわけではないし、むしろ自分たちでも全然理解できていないことをやっている。だからこそ、「これはいい」という感覚がもっとも重要になってくるというか。

中山 先ほど野口さんの口から「アヴァンギャルドなかたちとポップな生活」っていう、びっくりするような言葉がでましたね。その感覚、空間現代の音楽を聞くことと同じだと思う人は多いと思います。一方で、近寄りがたいっていう感覚も、わからなくもないです。自分も含め、人間、年をとると昔聴いていた音楽ばかり繰り返し聞いてしまうものですし、それは人が建築に求めることによく似ています。でも、よくわからないアヴァンギャルドな音に、なぜだか体が応答してしまうことに、あとから頭が追いつこうとする感じをそう言うのなら、空間現代は僕の中でポップミュージックそのものです。僕もそういう「例外」建築がつくりたいです。

質疑

質問1 今日は楽しい時間をありがとうございました。岡田さんに質問です。生活が建築に対し最適化されるのはつまらないという意見に共感したんですが、実際自邸をつくられる際に中山さんとどんな話をしたのでしょうか。また、なにかここは考えが違うなと感じることはあったのでしょうか。

岡田 実は敷地が途中で変わったので2回設計してもらっていて……。一度目はとても細長い奥行20m幅3mという敷地で、これは建たなかったんですけど、この時に私がお願いしたことはただひとつで、なんの機能もない空間を用意してほしいとだけお願いしました。今の「岡田邸」は、最初に模型を見せられてそれがそのまま建ってます。だから、ほとんど何もお願いしてないですね(笑)。

中山 誤解を招く言い方になってしまうかもしれませんが、私は施主とはあるところ以上のコミュニケーションをとりすぎないようにしたいんです。注文と応答が一致しすぎることが怖いんですね。今回撮ってもらった映画を見ると、もっと施主の言葉を聞きなさい、と自分でも思ってしまいますが、そこのところの葛藤はあけ渡してはならないって、思っています。

質問2 例外に関してお聞きしてもいいでしょうか。例外だったらなんでもいいわけじゃないと思うんですけども、例外の中にもこれだけは守らなければならないルールのようなものはあるんでしょうか。

中山 中心から外れること自体が目的ではないんですよね。むしろわりと明確に意識していたことが「岡田邸」の時にもありました。たとえば電車に乗っているとき、カーブで自分の横にある窓から、ずっと前で先頭を引っ張っている車両が見えること、ありますよね。ああいう、自分は中にいるつもりなのに、その様子を外から見ているような視点はどうすればもてるのか。というようなことを、私はわりといつも考えています。建築はとても大きなものですが、そこに住む主と強い一体感をもつ存在でもありますよね。そこからくる安心感は、家族やもっと大きな集団にとっても重要なことです。けれども、その感覚が暴走してしまうと、人間の大きさを超えた、すごく利己的な力をもってしまうのが建築でもある。だから設計する建築には、家を含む自分自身を時々、どこからか眺めているような視点を探そうとしているようなところが、いつもあります。

野口 僕たちの場合は、すべての音が対等に聞こえる状態を目指しています。歌だけ、主旋律が決まってしまう、こういう関係性がなくすべてがフラットな状態のことです。それから、音楽は小説よりも詩に近いと思っていて、ことば未満のような音楽の状態を大事にしています。

佐々木 「例外」って外じゃないんですよね。内側にある外側が例外だと思っていて、だから、いかに内側に外側を担保するか、が大事です。
中山さんの建築も、建築の中に外側をつくるにはどうしたらいいかを考えられていて、試されてるように思いました。あと中山さんが最後に言っていた、自分を見る視点の話が結構面白いなと思って、これで思い出したのが『ムーたち』(榎本俊二)というマンガの中に出てくる「セカンド自分」という存在です。セカンドも主体になっちゃうから「サード自分」も出てくるんですけど(笑)。中山さんが映画というかたちで発表されたこと、それから空間現代がそれぞれのパートが中心にならない、ということと関連していると感じるのは、視点や目線の重要さです。ある建築を観念的に考えた時には神の視点というべきものしか存在しない。けれど誰かがそこに住み始めるとその人の視点が生まれる。細部というのは視点のようなもので、誰かあるいはカメラが部分を捉える視点がプリズムのように乱反射して、それが全体を想起させることもあれば、できないこともある。その時に自分だけではなくほかの誰かの視点がある。逆に言うと全体というのは理念、図面上にしかないのかもしれない。中山さんの本を読んだり展示を見ているとそのことを考えさせられます。それが自分が考えてきた建築以外のジャンルでも、なぜそれが好きなのかという問いの答えのひとつかなと思います。

中山 ありがとうございます。もっと聞きたい話がたくさんあるのですが、時間がきてしまいました。ゲストのお三方、今日来てくださったみなさん、そしてこれまで来てくださった方々に、心からお礼をお伝えしたいと思います。本当にありがとうございました。

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2019年7月26日、TOTOギャラリー・間にて


テキスト作成=木村浩太、金子太一


テキスト構成=出原日向子

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