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原作と脚本と制作の難しい話。

# センシティブな内容を含む記事となります。

この内容は2024/1/28にX(旧Twitter)上にて、自身が考え発信したことを改めてまとめたものです。個人及び団体等を否定するものではないことを予めご了承いただければ幸いです。

はじめに

まず自分の状況から。

1/28から数日経っても、自分自身が未だにショックを受けていると感じています。それは、芦原妃名子先生の意見表明からの死去という、誰も幸せにならない悲劇的過ぎる現実に直面しているからです。

末端の末端で生きる自分は芦原妃名子先生との面識はありませんが、先生の描く素晴らしい物語の数々が、琴線に触れたことは言うまでもありません。

特に連載中である「セクシー田中さん」は以前より拝読していました。どうやら最初に言及したタイミングは2020/12/6のようです。以後、今に至るまで、ずっと新刊を楽しみにしています。

その先生の非業の死という痛ましい事実が、胸の中にグサリと突き刺さっています。

死に意味を見出してしまうことは、あまりよろしくはないと考えます。連鎖が発生する可能性や残された親族たちの悲しみ、死人に口無し的な事実の改善のリスクを思うと、「生きてこそ」と言いたくなることもあります。しかし、死を選ばざるを得なくなった胸中を考えるや辛く暗澹たる想いになります。

そして、自身のXでの発信もその胸中をもっと慮るべきであったと思い、自らの浅慮さにも後悔の念が押し寄せています。

しかし、社会やビジネスのマインドやシステムを変化させ、進化させていかないといけない時なのだと同時に感じます。「今までこうだったから」は理由じゃない。言い訳です。これは僕個人のビジネス的な信条です。

その上で、敢えて改めてX(旧Twitter)上にて自身が考え発信したことを改めてまとめておこうと思います。

誰かを誹謗中傷する意図ではなく、自身のスタンスを明確にしておこうと思った個人的なエゴです。

これにより、今後、出版社・テレビ局等との仕事ができなくなる可能性はあります。おそらく世間的に言う「賢さ」とは真逆の行為であると思います。
「賢い人は言わない」という話はわからなくもないです。しかし、それは「処世術」であって、私はそれを「賢さ」とは呼びたくありません。

声を上げたものを暗にバカにすることが賢さであってはならないからです。もちろん「声を上げること」と「叩くこと・誹謗中傷」は別物です。

伝えるべきことを適切に言葉にする。

それが賢さの一つである、と僕は思います。

かつて、ガリレオは地動説を唱えました。
その後の彼がどうなったか。声を上げたが、時の権力者たちの不都合な真実を暴いてしまったことで異端者扱いされ、裁判にかけられ、軟禁状態となったのです。しかし、後の世にガリレオの正しさは証明されています。

「声を上げるな」という声は一見正しく聞こえますが一種の弾圧であり、言論の自由を奪う卑劣な行為だと自身は思う次第です。

もちろん前提として、誹謗中傷等を行い他者に多大なる迷惑をかけることは間違いだと思います。例えば、モナリザにペンキをかけて目立とうとするなどは言語道断の行いです。

ですが、「伝えるべきことを正しく伝えること」が恐れられる社会であってはいけないと考えます。「書物を焼くものは、早晩、人間を焼くようになる」と言われます。言葉を封じ込めようとすることは、事実の改竄を実行しようとする既得権益者の暴挙です。

他方、悪意ある言葉を他者に伝えることも言葉の暴力です。

ただし、忘れてはいけない事実としては、誠実に対応されておられる方が大半であろうこと、素晴らしい作品が生み出されていることです。

また、本件の発端も、誰もが素晴らしい作品を創ろうとした上での衝突やコミュニケーションエラーだと考えます。ぶつかった時にどう解消するか、信頼関係をどう築くか、複雑な事象の解決は決して、原作・脚本・制作に関わらず、仕事上でもそうですし、プライベートでも発生しうる事案ではないでしょうか。

他人事にならず、誰もが他者を慮り、少しばかりの優しさを隣人に配ることのできる社会。理想論ではありますが、少しだけでもいいので優しさが拡がる社会であることを願いします。

原作と脚本と制作の難しい話

前提

# 敬称等を一部略称化して記載させていただきます。

芦原妃名子先生の死去に伴う自身の認識は時系列として以下の通りです。

1. 原作者である先生より「原作に忠実に実写化してほしい」旨が伝えられる
2. ドラマ制作サイドは了承する
3. 原作に忠実な内容ではない制作が進行する
4. 原作者より企画・脚本等への注意・修正指示が入る
5. 修正指示を受けるも、原作者の指摘する重要な点等が改変されたままのドラマ制作が進行・放映される
6. たまりかねた原作者がドラマのラスト2話の脚本を書く
7. (6)について、脚本家が自身のinstagramにて感想と共に投稿
8. 原作者である先生が自身のX(Twitter)・ブログにて詳細な時系列を記載
9. SNS等にて(8)および(7)の内容が拡散され続ける
10. 先生が記載内容を削除し、失踪
11. 先生の死亡が確認される

特に問題なのは「原作者の意向が反故され続けた」という点です。

著作者の権利には、著作権と著作者人格権があります。権利の詳細は省きますが、財産と心を守るための権利と言われることもあるようです。

今回において、原作者は最初に「原作改変はしないでほしい」という旨の意向を伝えたということですので、それが事実であると信じるならば、大いなる悲劇であると痛感します。

以降、自身の見解について述べます。

なお、事実を知らない第三者が書く内容ですので、憶測でしかありません。ならば書くなという声もあろうと思いますが、社会的なシステムの歪みではないかと思うので、その点について明記していきたい次第です。

原作改変について

個人的には、原作改変自体は問題ないと思います。そもそも媒体が異なれば、ある程度の表現や物語が異なるのは致し方ないところかと。もちろん契約等の範疇において、という前提はありますが。

例えば、原作を改変しても面白いドラマもたくさんあります。(いまパッと思いつくのは、小説ですが『ガリレオ』です)

ただ、いずれにせよ原作を扱う場合には、「原作/原作者への深いリスペクト」があり、「面白い作品」になっていることが必須だとは思います。そこが根底ではないでしょうか。

漫画家サイドとドラマ制作サイドとのすれ違いについて

契約内容等はわからないので何とも言えないですが、著作者の権利は相当に強いものにもかかわらず蔑ろにされたということは最大の問題だと思います。

その結果、先生の死去という痛ましい事実は何よりも悲劇的であり、関係者全てに泥を塗る形になってしまったことがとても心苦しく感じます。

では、これはどうして起きたのか?という推測です。

まず、出版社サイドの話です。

一般的に考えて、編集者が余程の無能ではない限り、原作者である先生の機嫌を損ねるようなことはしません。おそらく編集者は先生の味方として振る舞ったのではないでしょうか。ただし、先生だけを見ている訳ではないでしょうから、多忙故のコミュニケーションエラー等はあった可能性はあると思います。

また、出版社内での編集部門/ライツ部門/法務部門等といった部門間・個人間でのコミュニケーションエラーはある可能性は否定できません。

加えて、ライツ/プロデューサーでやり取りをされていれば原作者の意向は薄まり、よりビジネスに重きを置いた会話がされる可能性もあるでしょう。

ですが、今回の作品の著作権は、連載している出版社ではなく原作者個人にあるはずです。そうなると原作者の意向もきちんと確認するはずです。何よりも人気作品の筆を折る行為などをしてしまったのならば、さすがにライツ側も立つ瀬がないでしょう。

上記のような諸々を鑑みると出版社も慎重な対応をする、と信じたいところです。

しかし、今回は原作者個人の名で声明を発表してしまった部分は、出版社の落ち度であることは否定できません。ですが、自身もここまでの大事になるとは考えなかったところですし、おそらく原作者・出版社共に想定外の出来事だったのではないかと思います。

次に、制作サイドの話です。

まず脚本家についてですが、(言い方は悪いですが)彼ら/彼女らは、業務委託もしくは局や制作会社の社員等であって、言われた通りにするのが必然とも言えます。加えて、ドラマの全て(キャスティングや予算等々)を決められる訳もないので、脚本家が全面的に悪いということもあり得ません。

脚本家としても辛かったことや言いたいことはあって然るべきだと思うのです。

今回において、言い方が悪かったという点が事実として残ってしまうわけですが……例えば、一定数の方はSNSにて愚痴を吐くことをしたことなどはあるのではないでしょうか。SNSではなくとも、飲みの場やプライベートの場などで。当然、SNSであれば公衆の面前に曝け出すことになるという事実があり、リテラシーが問われる話ではありますが、脚本家がそれを書いておくことが自己防衛になると考えてもおかしくない部分もあると思います。

それがトリガーの1つとなった可能性は少なからずある訳ですが、様々な問題とエラーが積もり積もった結果であると思います。

また、「雇われ」という点においては、監督や演出家等々、関わるキャスト/スタッフにも言えることだと思うので、いくらクリエイターといえども指示され、その場で合意された内容を完全に放棄して何かを創るということは、仕事人としてできかねることでしょう。スポンサーや演者の所属する事務所等からの相談や圧力等もあるはずですので。

ただ、一つ気になる点としては、出版社サイド・制作サイドのステークホルダーそれぞれが原作および原作者をどこまでリスペクトできていたか?という濃淡はあるような気がしますし、その点における傲慢さとエゴは誰かを苦しめることになるという結果が鮮明に出てしまったのではないかと考えています。

個人的な経験で言えば、現場が揉めるのは、往々にしてそもそもトップサイドの意向や調整内容に問題があることが多いと考えています。M&A時代の上司が「誰もが目を逸らす課題が本質的に真っ先に解くべき課題」と言う言葉が脳裏を掠めます。

となると、結局のところ局または出版社のトップレイヤー、もしくは、どちらともの何かしらで問題があったと思う次第です。

と考え、行き着く先としては、最終的に「総合的に成功を担うべきプロデューサー」が責務を適切に果たせなかった、ということが大きな問題なのではないかと考えます。安請け合いをしていたり、丁寧な調整ができていなかったのではないかと思うのです。

ですが、彼ら/彼女らも組織に勤める「雇われ」の人間です。ステークホルダーの間で板挟みになってにっちもさっちもいかなくなった苦労や心労も容易に想像でき、全ての責務が個人に帰結できる話ではないでしょう。

ですので、個人を叩きすぎる風潮というのも止めるべき問題であると思います。

しかしながら、プロデューサーが責務を果たせなかった理由が、個人の力量等の問題なのかシステム的な問題なのか(単一というよりも複合的だと思いますが)、その点はある程度はっきりとさせつつ、関係者個々人のマインドや進行方法、契約等々といったビジネス的な要素を時代に合わせアップデートすることも必要なのではないかと思う次第です。

また、制作サイドが出した報告はあまりにも責任逃れのイメージが強く、個人的な感情で言えば、不誠実であると落胆します。仮に出版社等との見解に齟齬があるのであれば、第三者委員会等を設置し、事実と原因究明に乗り出すべきではないでしょうか。

自身としては、システム・仕組みを変化させ、進化させるべき時であり、個人だけの問題に矮小化させてはいけない出来事であると考えています。

また、創作者含めた関係者個人に多大なる負担を押し付ける状況の打破および(創作者のみならず)個人への敬意をなくすことなく生きることのできる社会へと進化していくために、自分たちができることを一つずつ積み重ねていけると、きっと不幸な出来事は減るのではないかと思います。

余談)創作者と契約について

創作者と契約について自身の意見を書いています。もし興味がある方は下記ポストをご参照ください。

終わりに

関係者全てが時代は大きく変わっていることを認識し、エゴや傲慢を捨て、創作者(に限らず、全ての個人)を適切に尊重する、糺すところは糺すということをすべき時なのではないでしょうか。

この件に限らず、悪習や因習をそのままにするのが最も悪である、と僕は強く思っています。

自身の力は小さくとも、ビジネスパーソンの一人として、社会やビジネスの仕組みを変えていけるよう、大人として何ができるかを真剣に考えて実行していきたいと感じます。

僕自身は創作者の皆様とやり取りすることの多いビジネスパーソンでありつつ、自身も創作者として活動もしているので、双方の橋渡しができる人物として頑張っていけると良いなと思ったりもしています。

そして、そういった変革と進化に対し、本気で取り組んでくれる大人たちが様々な組織・団体トップレイヤーに存在することを切に願う次第です。

冒頭のコメントの繰り返しにはなりますが、改めて記載します。

忘れてはいけない事実としては、誠実に対応されておられる方が大半であろうこと、素晴らしい作品が生み出されていることです。

また、本件の発端も、誰もが素晴らしい作品を創ろうとした上での衝突やコミュニケーションエラーだと考えます。ぶつかった時にどう解消するか、信頼関係をどう築くか、複雑な事象の解決は決して、原作・脚本・制作に関わらず、仕事上でもそうですし、プライベートでも発生しうる事案ではないでしょうか。

他人事にならず、誰もが他者を慮り、少しばかりの優しさを隣人に配ることのできる社会。理想論ではありますが、少しだけでもいいので優しさが拡がる社会であることを願いします。

末尾となりましたが、芦原妃名子先生の今までの様々な功績と功労、作品に対し深く敬意と感謝を表すると共に、心よりご冥福をお祈りいたします。

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