苦しみは比べられない
発達を活かすことは社会にも+になる。
でも
「発達のせいにするな、言い訳にするな、そんなこと言ったら誰でも発達」そういう声がまだまだ日本では蔓延っている。
日本の教育が引き起こしてしまう二次障害
本人が全く困ってなくて、普通に楽しくやってるなら、あえて発達の検査も対策もする必要はないと思う。
けど、毎日しんどくてきついなら、検査も対策も療育も、本人が過ごしやすくなるために必要だと感じる。
アメリカの一部、進んだところでは、発達障害の子に一人サポーターみたいな大人がついてくれるらしい。
いくら得意や好きが突出していたとしても、導きがなければその才能を活かす方向に向かうのは難しいから。
日常生活が苦手で、怒られ体験や失敗が定型発達よりどうしたって増えてしまう発達人は、鬱などの二次障害を引き起こすこともあって
とくに日本の学校の
ーーいくら個性を謳っていようがーー
「みんな一緒に」「同じように」「(極めるより)平均的にマルチにこなそう」的な実際の雰囲気、考えることより決まった正解を言えることが大事で、平らにならして箱に収めるような教育
は
発達にとって苦しい・窮屈・我慢以外の何物でもなくて、それこそ凸凹の凸の、活かせば誰よりもすごいところに行けるかもしれない部分が潰されてしまう。
そうして自分自身も凸のものすごい部分に気づかないまま、失敗と怒られの経験値ばかりが豊富になり、劣等感にまみれた大人が完成する。
つまり
アメリカの一部進んだ教育を受ければ天才として生きられたかもしれない発達は、日本の一般的な(明治時代から大して変わってない古びた)教育によってspoil されるわけ。
日本にはスティーブ・ジョブズもイーロン・マスクも生まれない。
それが日本とアメリカの教育が生む差であり、発達を天才とするか落ちこぼれとしてしまうかの差だと個人的には思う。
日本でのイメージ(肌感覚)
日本で発達っていったら「不利」「ハンデ」「怠け者」「甘え」「言い訳」「邪魔者」「ならず者」って連想する人の割合のほうが多いんじゃないか。
わからなくもない。発達じゃなくたってみんな頑張ってるわ!苦しいわ!しんどいわ!お前らだけ特別扱いしてられるか!って感じだと思う。
以前、弟にたいしてそう思ってたからすごくわかる。
私が発達って話をしたとき、歳上の女性だったけど、反応はこうだった。
「誰でもそういうのはあるよ~」
検査する前に発達かもしれないって話を別の女性にしたときもこう言われた。
「えー、でも違うんじゃない?大丈夫だよ」
まるで「発達=悪いこと、いけないこと、よくないこと」っていうのが前提で、デフォルトとしてあっての反応だった。
いやいや (苦笑)
発達をないものにされちゃったら、認めてもらえなかったら、発達人は今以上に息が詰まるんですけど。
日本で発達障害の対応や考え方がこんなに遅れていてかつ未だに進まない理由は、吉濱ツトムさんのYouTubeで語られているのでぜひ見てほしい。
要約すると
「発達障害は社会の中でランク付けするためにつくり出された架空の概念である」
って
信じ込んでいる医者、それを継承する医者が東大の研究室を中心に学生運動時代から今まで根強く存在していて、その人たちの声も影響力も大きいからって感じ?
発達障害は甘えでも言い訳でもないし、苦しみは比べられない
発達障害は実際に存在する得意不得意の凸凹、それによる日常生活や社会生活との不和が起こる立派な特性(=ピーナッツアレルギーと同じように共通認識として持っていたいもの)であって、それをないものとしてしまう=その人たちの苦しみまでないものにしてしまうということになる。
どうか、言葉では簡単に伝わらない発達障害の苦しみを平らにならさないでほしい。
LGBTQへの理解が広まるのと同じで、発達への理解もだんだん進んでいってほしい。
YouTubeをやっている精神科医が
理解と平等が広まる順は
女性→LGBTQ→精神、発達障害
だって言ってて
女性でさえもまだまだな日本だから、発達の理解なんて何十年何百年先になるんだろうって感じなんだけど
ともかく
言い訳とも甘えとも特別扱いともとらずに、発達が居やすい環境をつくることが、結果、みんなが過ごしやすい環境を作ることの一助になるかもしれなくて、発達の特性を活かせる環境をつくることが、新たなイノベーションを生み、経済成長、社会全体の向上につながるってことを、発達のマイナスイメージの隣でもいいから、頭の片隅に置いておいてほしい。
自分が発達障害だからか、不思議と仲良くなったり気の合う人もそうだったりするんだけど
同じ発達障害同士で親近感と心強さ?は湧いても、それぞれがもつ苦しみは同じではなくて、もっと苦しいものかもしれないし、むしろ強みや武器として生かしているかもしれない。
だから
苦しみを同じとするのも失礼だし、違うとするのも違うのかもしれない。
そもそも、発達あるなし関係なしに苦しみ辛さは比べられるようなものじゃない。
比べていいようなものでもないし、比べようもない。
1つだけ言えるのは、苦しくても辛くても、私たちはここまできたということ。
私たちはここまでやってきたということ
それがたとえグチャグチャで醜くて不甲斐ないものだったとしても
私たちはここまで生きてきた
些細なことかもしれないが
いや
些細でも何でもいいから
そういうことを誇りに
自分(厄介なコイツ)を励まして毎日を生きていけたらいい。
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