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#150 人はなぜ矛盾を起こすのか

人間というものは平気で自ら矛盾を起こす存在である。「昨日と意見が違う」なんて人もそこら中に存在する。生き物である以上、自分の思考がその時の気分次第でコロコロと変化してしまうことを悪だと言うつもりはないが、TPOによってはそうなられては困る場面というものも往々にしてやってくる。

なぜ矛盾は起こってしまうのか。理由は2つあると考えている。「人間皆多重人格者説」と「自我は点の集合体説」だ。


「人間皆多重人格者説」についてまずは取り扱おう。これは「分人性」という言葉にも置き換えることができる。要は1人の人間の中に複数の人格が宿されているという意味である。多重人格と聞くと精神疾患の1種かと思う人もいるだろう。過去には精神分裂病(統合失調症の変更前の名称)という言葉も存在していたため、致し方無い側面もあり得る。だが今回は、疾患という意味で使用しないことを先に断言しておく。

日常生活を振り返って、職場の仲間、家族、恋人、友達、先輩後輩、こういった様々な関係性の人たち全員に、全く同じテンション感、言葉遣い、人格で接する人は存在するだろうか。恐らく全ての人がそれぞれの関係性やTPOに応じて、人格というものを切り替えて接していることだろう。学校の先生に「お母さん」と言ったら羞恥心が込み上げてくるし、恋人に対してうっかり友達の名前を間違えて呼びかけるものなら、東西冷戦を彷彿とする修羅場になり兼ねない。人の中には関係性の数だけ人格も宿っていると考えていいだろう。そういった意味で、我々は皆デフォルトで「多重人格者」なのである。

関係性の数だけ人格も宿っているとするならば、その人格に応じた思考法というものも宿っていると考えて不自然ではないはずだ。朱に交われば赤くなるように、相手によって無意識的に人格が変わる状態を「多重人格」とした時、反対に意識的に自分の人格を切り替えて使い分ける様を「分人性」と表したらわかりやすいだろう。人格によって考え方が変わるのであれば、同一人物の内で矛盾というものが発生するのも合点がいく。というより、もはや起きて然るべき事態である。


次に「自我は点の集合体説」について取り扱う。

我々人間というものは他者に対して、基本的に他者は他者であり続けるものであると錯覚してしまっている節がある。これは以前のnoteでも取り扱ったことではあるのだが、再度説明しておこう。

僕はサツマイモが好物である。大学芋やスウィートポテト、おさつチップスを目の前にちらつかされたらSNSに投稿されている可愛いワンコたちのように一目散に対象めがけて飛び込んでしまう。

さて、僕がそのワンコたちに劣らぬ可愛さを持っているか否かは置いといて、僕という人間には「サツマイモが好きだ」という属性が宿っていることがわかる。この属性というものは一見不変の真理であるようにも見える。この事実から僕=サツマイモが好きという関係性が成り立つ可能性は言うまでもない。明日聞いても、明後日聞いても、来年聞いても、30年後聞いても僕は「サツマイモが好きだ」と言っているかもしれない。果たして本当にそうであろうか。

あくまで「サツマイモが好き」という情報は、僕の何十年ある人生の一時点の情報に過ぎない。聞かれたタイミングがたまたまサツマイモが好きなだけであって、「サツマイモが嫌いな時期」というものも存在し得るわけだ。そういった外れ値というものを考慮しなかった結果がいわゆる「想定外」という事態である。

線というものは本来「点の集合体」であるため、グラフで集計した際に「外れ値」というものが存在することは自然なことである。この「点の集合体」である線というものを、はじめから「線」として認識してしまうことによって、外れ値即ち「矛盾」が起きた際に未曾有の事態として大事と捉えてしまうのである。そんなことあり得るはずがないと。

多重人格同様に、点の集合体としての自我も、矛盾は起こるべくして起こっているのである。


ここまで「人間皆多重人格者説」と「自我は点の集合体説」についての解釈を述べてきた。述べてはきたものの、そもそも矛盾を作る隙がないほど人間というものは完璧でないが故に矛盾は発生しているのかもしれない。

物事と向き合う際に、分人性や多重人格の引き出しの数はある程度潤沢にしておくに越したことはないだろう。

結果を早く求める自分の中に、外れ値としての道草を楽しむ自分が存在するのもまたをかし。



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