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#152 その日、僕はイヤホンをするのをやめた

世の中はたくさんの音で溢れている。通勤通学の足音、排気音、鳥の囀り、刻む秒針、ゴポリと水の中を移動する空気、轟音を立てる凝り固まった身体、絶え間なく流れる血潮。椅子に深く腰をかけ、本をめくり、そして付箋を貼る。

僕は、身の回りから「音」を消しすぎていたのかもしれない。


突発的な大きな音、粗暴な口調、乱雑な素行。それらから身を守るため、僕は世の中との間に大きな壁を隔てることにした。この壁のおかげで僕は今までよりストレスを感じることは少なくなり、集中力を聴覚にジャックされる機会を大幅に減らすことができた。耳の中には常に何かしらの音が鳴り続ける。それがあることで僕は強くなれている気がした。何を失っているかも気づくこともなく。

初めは護身のために隔てた壁、壁の中は楽園が広がっているものだと思っていた。実際のところ、そこに楽園は確かに存在していたのだが、どうやら最近様子がおかしい。楽園が少しずつ瓦解し始めている。

気のせいだ。なんとかなる。ここは楽園だ。

瓦解のペースは決して早いわけではない。だが少しずつ、確実に楽園を蝕んでくる。

気のせいだ。ここ以外に楽園などあるはずがない。


・・・ふと我に返る。すると目の前の景色はいつの間にかディストピアになっていた。僕は守られていたはずの壁に押し潰されていたことにその時気がつく。下敷きになっているにも関わらず、僕はそこから脱け出そうとしない。僕は既に中毒になっていた。どうやら長時間のイヤホン装着が僕を破壊してしまったらしい。「静寂」を、「楽園」を求めていた先に待っていたのが「破滅」とは、なんとも皮肉なものである。

このように調子が乱れたり、身体が壊れるのも1つのサイン。その日、僕はイヤホンをするのをやめた。


今まで隔てていた壁を自ら除去することで、世界にはたくさんの「消してはならない音」の存在に気づいた。それは、波立ってしまった心のノイズを消すために必要なものであり、自然に還るために必要なものでもあった。

自然の中に「我」という独立した存在を肯定しつつも、自然の内に溶け込むことで否定する。そのように「我」を環境に還すことによって、静寂は究極的にもたらされるのかもしれない。

そう考えたら、この一見喧騒に溢れた世界に対しても、関わり方というものはまた変わって現れることだろう。

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