見出し画像

#144 鈍さと向き合う

痛みや寒さ、総じて人間に不快感を与える感覚である違和感なるものを感じとりやすい箇所と感じにくい箇所、また体内の違和感センサーが敏感な人と鈍感な人、それぞれ思い当たる節はあることだろう。

今回焦点を当てたいのは「鈍さ」について。感じ取れないから「まぁいいや」と流すのではなく、普段感じ取りにくいからこそより一層気にかけて注意を払ってあげるべきではないだろうか。そういった問いを読んでくれたあなたに投げかけたい。


「自分の時間を犠牲にしてまで粉骨砕身の気概で労働に従事する」
「若いうちから仕事に励み、財産・権力を築き上げ出世する」

こういったことを世の美徳であり、あるべき姿であると思考する人は一定数存在する。僕はこの考えを否定する気はない。むしろ、そこまで力を注げるエネルギッシュさに感心するばかりだ。現時点での時間や体力を捧げて、未来の自分に投資する。投資した先の時間軸の自分を想像し、その見返りのために今を犠牲にできる。報われることを願って。

資本主義的な社会構造においては、「自分という労働資本」を市場に売り出すことによって社会からその見返りである給料をもらっている。その売り出す資本に比例して見返りも大きくなるわけだが、現実問題、産業革命の段階でそのようなことを行うと破滅が訪れることは明白となっている。我々が持つ24時間全てを労働に捧げることはあまりにも現実的ではない。そして持続可能的でもない。

持続可能的ではないことを認知しながらも、自分の身体に鞭を打って毎朝起床し、通勤し、労働に従事し、時には残業し、困憊するラットレース。知らずのうちに自分の価値観に麻酔をかけられていることにも気づけない。そう、現代人は「昏睡」してしまっているのだ。昏睡しているが故に自分の身体を無理に使役させ、しまいには身体の各器官がストライキを起こし、それらが「生活習慣病」や「精神病」といった形で表層化される。

こういったストライキを未然に防ぐためにも、我々は鈍さに敏感になる必要があるのだ。


気づくことが難しい違和感というものは、軒並み皆「声が小さい」という特徴がある。声が小さいからこそ、主張が控えめだからこそ、我々がその声に気づくことは難しい。「何かあったらすぐ言ってね」と言われても、相手からしたら気を遣ってしまうものである。その言葉を信用し、身体の不調を何かしらのサインとして出してみたらどうだろう。出されたサインに対して我々は、軽視したり面倒臭がったりシカトしたり煙たがったりと、向き合うことすらままなっていないではないか。さながら糞上司のそれである。

1度このような対応をされたなら、身体もサインは出しづらくなるのは当然。なんなら常時サインを送っていたとしても、脳がそれを感知しなくていいものとして遮断し始める。そうやって無視し続けて最終的に我慢の限界となって病気、炎症、致命傷、後遺症などの強烈な形として表出。こちらはさながらフランス革命のそれである。ケーキを食べて済む話ではない。脳という王族貴族聖職者が民衆の声に耳を傾け、私腹を肥やす愚行を控えていればこのような結果は起こらないはずである。本当に人間の身体は脳の一党独裁に陥ってしまいがちなことが痛感される興味深いアナロジーである。


では、声の小さい違和感の解消をどのように行なっていくか。

正直なところ、明確な答えというものはここで簡潔に伝えられるほど歯切れのいいものではない。あえて言うなら、毎日少しずつ自分と向き合う時間を作ることではないだろうか。それはつまり、僕にとっては日常でのヨガや瞑想の実践である。

様々な情報や感情に晒され続け、我々のセンサーは鈍化しがちである。センサーが鈍化することで、稀に誤作動の原因となる。この誤作動は、突発的に泣き出したり憤慨したり無気力になったりという自分でも予期せぬエラーとして表出される。そういった誤作動を防ぐ上でも、センサーは定期的にメンテナンスする必要がある。そのメンテナンス方法が「日常でのヨガや瞑想の実践」である。誤作動の原因となるノイズを除去することで、そのノイズの中に埋もれてしまっていた声の小さい違和感を拾うことが可能となるのではないだろうか、と僕は考えている。


序盤で労働を例に挙げて「昏睡してしまっている」と展開したが、これは決して『共産党宣言』に書かれていたような革命を斡旋する意図ではない。現在自分が置かれてる労働環境に耐えられる人はそれでもいいと思う。「耐えられる」というのもまた立派な才能であり、そのライフスタイルがその人の適正の可能性もある。

そういった人にとっては、環境を変えることや見直すこと自体の負荷が大きい場合もある。それはつまり、まだその人にとって見直す準備体制が整っていないということにもなるため、そういった場合には無理に鈍さと向き合ったり、自分の今の価値観を問うということはしなくてもいいと思う。

だがしかし、現在の自分の生活、思考、価値観といったものは「本当に今のままでいいのか」という定期的な自己破壊を行なって代謝する必要があるだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?