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#145 呼吸について

このnoteを読んだ人の中で、普段から自分の呼吸に意識を向けて吸ったり吐いたり行なっている人はどれくらいいるだろうか。人間が生きていく上で必要不可欠な生命維持行為である「呼吸」。「心臓の鼓動」や「血管の伸縮による体温調節」、「瞳孔の開閉」など人間の意識によって操作が不可能な行為は他にもいくつか存在する。生命維持に関わる機能はそれにほぼ全てが該当するわけだが、その中でも「呼吸」という行為は、唯一人間の意思が介入できる特殊な生命維持行為である。

日常の中に埋没し無意識化で行えているからこそ、改めてその行為について深掘りしてみたい。


初めに個人的な話をすると、僕自身呼吸というものとそれなりに接点を持った生活を送っている。理由は日常でのヨガと瞑想の実践によるもの。どちらも呼吸に意識を向けることで余計な考えや感情の波を鎮め、心に静寂をもたらしたり、深く落ち着いた状態になることができる。そういった状態への移行をより手助けしてくれるのが、「人の意識が介入した深い呼吸」である。

「人の意識が介入した深い呼吸」で想起されるもので「深呼吸」が挙げられる。これは主に、何かしらの本番前などの緊張して身体に異常が発生している際に勧められる行為であり、実践した人はごまんと存在することだろう。

また、時たま見かける例として、号泣したり嗚咽している人を落ち着かせるために行う処置とした側面もある。

なぜこういった事例の時に呼吸法が重要視されたり、実践を勧められる場合が生じるのか。なぜ「深呼吸をしろ」と言われるのか。理由は簡単で、それだけ呼吸がもたらす身体への影響は計り知れないということに他ならないからだろう。


先日『十牛図』を読んでいた際、そこに書かれていた呼吸の在り方について、読んだ僕の脳には今まで感じたことのないような衝撃が走った。

一息一息、ゆるがせにせず、自己をすっかり吐き出しそして無限の開けを吸い込む。このような一呼吸は、たとえば、大都会(その現実のあらゆる意味と現象を含めて)を吹き払い得るかもしれない。

『十牛図 自己の現象学』

ここに書かれてあるように、吐息と共に自己の中身を全て、悩みや蟠りも全て吐き出し、吐き出したことによって発生した空間にまだ誰の色にも染められていない純粋な空気で満たす。そのようにして満たすことは何よりもこの上ない、なんとも形容し難い至高の幸せである。呼吸にはこういった一連の作用が秘められているのだ、と僕は解釈した。

まさに引用の通りである。僕自身も普段実践している中で、特にヨガや瞑想中に深い呼吸を意識して行うことにより、深い無の状態にどっぷりと沈むことができ、新たな自分として再度世の中に現れる、いや誕生すると言った方がいいか、そのような感覚がある。生まれたての瞬間は、まるで自分が自分でなくなるような感覚である。

そのような感覚は感じれていたものの、第三者による言語化との出会いによって僕自身の感覚の解像度もこのように格段に引き上げることができた。呼吸に重きを置かれるのも納得である。

情報量の多さに意識が外に向きがちになってしまう昨今、1日のうちに5分だけでもそういった情報と距離を置き、呼吸と向き合う、ただひたすら呼吸に集中する時間を設ける。・・・ということを読んでるあなたにも是非1度実践してもらいたい。たったそれだけの行為ではあるのだが、それを行うだけで、継続していくと心の波が静まって穏やかになり、満たされてホッとできる感覚というものが訪れる。流れの早い現代において、そういった一息つける時間というものは非常に尊く、粗末に扱ってはならない。


呼吸という行為の影響力が計り知れないからこそ、呼吸器官のケアというものも必要になってくるだろう。僕は鼻が悪いため極力毎日鼻うがいとごま油塗布による保湿は徹底するようにしているのだが、僕がこれを毎日のように実践できるのも、ケアをしたか否かでは翌日の調子が雲泥の差であることを実感したからである。

実際問題面倒でスキップする日もあるのだが、その日または翌日の快適さと天秤にかけた時に後者が圧倒的優勢であったため、今ではすっかり習慣づいている。むしろやらないと気持ち悪いまである。


基礎的な生命活動の1つであるからこそ、呼吸が体内を満遍なく巡ることでより一層生き生きと、満たされた毎日を過ごせる手助けとなるだろう。

基礎的であるからこそ意識を向けずとも行える活動であるのだが、だからと言って杜撰に行なっていいものとも言えないはずだ。



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