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#149 “師”の必要性

今まで生きてきた人生において、“師匠”や“先生”と心から敬意を払って慕える存在がいた経験を持つ人はどれほど存在するだろうか。何か新しいことを行う上で師の存在というものは、個人的にある方が圧倒的に好ましいことだろうと感じる。

世の中で様々な無料でアクセスできる有益な情報は出回っているものの、その中で自分にとって真に必要なものを探し当てられる人はどれほど存在するのか。残念ながらほとんどいないだろう。そのような夥しく漂う情報の海から特定の情報のみを抽出するには、ある程度のスキルと労力が求められるのだが、人間というものはどうにもその能力を獲得するための鍛錬を億劫に感じる傾向が見受けられる。そういった場合においても我々を救い出す、もしくはどこかへのきっかけへと導いてくれる存在である“師”を持つことを勧める理由からまずは掘り下げていこう。


そもそも僕にとっての“師”とはどのような存在であるか。

僕にとって師は、「疑問を即座にぶつけられる存在」であり、「迷いが出た時に導いてくれる存在」である。

物事を進めていく上において、その対象に対する「勉強」という行為は何においてもついて回ってくる。勉強をしていく上で、必ずどこかで自分の理解が及ばない壁という存在に悩まされるわけだが、その壁を共有し、共に解決していく「仲間」という意味で師の存在は必要になってくると考えている。しかし「仲間」とは言ったものの、ここで指す仲間は「自分より遥かに知見を携えている存在」という意味に限られる。

疑問をぶつけられることによって五里霧中から解放され、無駄なことに時間を割く心配が軽減できることは、精神衛生上非常に好ましいと言えるだろう。


また「迷いが出た時に導いてくれる存在」としての側面を説明すると、我々人間は1人でやり切れるほどの強さを持ち合わせていないためである。

我々は頻繁に迷い、誤り、堕落していく極めて弱い存在であり、師ほどの強さを心身共に持ち合わせていない。だからこそ、そのような誤った道から正してくれる師の存在というものが、我々には必要とされるのだ。


ここまでは師が存在することでもたらされる精神的な影響について話してきたが、単に情報入手という面においても、師は我々にとって絶大な存在となり得る。冒頭に話した通り、大量の情報の中から抽出することの負荷が高いため師から情報を享受することが好ましいと述べたわけだが、それを良しとするにおいて、やはりその「関係性」というものに起因する因子が大きいだろう。

一括りに「ネットの情報」というものは、誰でもアクセスできるが故に「あなたに対して」という属人性がどうも欠落しているように感じる。このnoteも例外ではない。

逆に“師”というものは、「あなたに対して」の情報を提供してくれる。迷い悩めるあなたを導いてくれる存在であり、時に師は、非常に貴重な経験を我々に届けて激励してくれる。

我々人間という生命体にとって、その関係性、間柄にこそ言語化しきれない意味があり、知識を享受した後もより一層長く堆積できるのではないだろうか。


念の為添えておくと、ネットの情報が悪いと言いたいわけではない。だがネットで収集するということは、自分に必要な情報を抽出する力であったり、夥しく広がる情報から「狩る、ハンティングする」能力が求められるということになる。それができるなら構わないが、できない場合は師から情報伝達する方が負荷が少なく、インプットする上での情報選別をするはじめの段階として好ましいと僕は感じている。


そして最後に疑問として、「師の探し方」ないし「師との出会い方」には何か特別なアクションが必要なのか、ということが残された。これに関して、「所属するコミュニティを安住化させない」ということ以外の明確な答えは僕の中では出てきていない。

安住化が強まることで、居心地の良さから「そこから出たくない」という気持ちも強化されてしまう。「そこから出たくない」がために「そこの中で解決策を模索」しようとしてしまうのだ。そこに答えなど転がっていないことにも気づかず。だからこそ積極的な自己破壊が必要となる。自己破壊の1つが「人脈の代謝」だ。安住せず新天地に自分を晒し続ける。

確かに人によっては初対面とのコミュニケーションに対して居心地の悪さを強く感じる傾向も見受けられる。無理は禁物であるのだが、そういった新人類との間でしか生まれない、堆積しないものも存在する。そこで発生した堆積物によって今まで蓄積されてきた自分の知見とのスパークが起こり、新たなものが産声をあげる。その産声があがる可能性というのは、新たな人脈の方が起こりやすいだろう。人脈は言うなれば「知の鉱脈」である。長年同じ鉱脈から採り続ければ、いずれその鉱脈は枯れてしまう。だからこそ我々は新たな鉱脈を求めて移動し続ける必要があるのだ。

その鉱脈源に感覚的に惹かれ出会うべくして出会った人脈こそ、その人にとっての“師”と言えるのかもしれない。

そこの鉱脈からは、盲目的に魅了されてしまう何かがよく採掘される。



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