見出し画像

#151 なぜ精神的向上を図るのか

スピリチュアルな話に触れていくと、「次元上昇」や今回のタイトルでも取り上げた「精神的向上」といった単語に出会う機会が多い。今回取り扱う「精神的向上」とは何なのか。僕なりの解釈としては、瞑想やヨガなどの実践や、内省によって自分なりの真理探究を実践することで心の浄化を図ることであると定義している。そして、そういった所謂自分の心の磨き上げ作業と向き合い、日々取り組む必要があると考えている。なぜ取り組むべきなのか。

個人的には、怪我した時の処置を覚えておく感覚に類似している。出血したら心臓より怪我した部位を高く上げて保持することで出血が抑えられるように。いざ自身が堕落した時、メンタルブレイクした時にかつての健康的な心の状態に戻れるように。これには精神が参らないようにする予防的な意味合いも兼ねてある。物質的なエネルギーで真の充足感を得ることができないことを知っていれば、いざ自分が堕落してしまった時に自覚することが可能となる。なるほど、だからダメなのかと。やはりダメなんだなと。

物質的な快楽に依存したり、物質的なエネルギーで五感を満たそうとすることの何が良くないのか。理由は単純で、歯止めが効かなくなるためである。SNS閲覧なんかまさにそうで、恐らくあれは視覚を外部物質(映像などのコンテンツ)で満たそうとしているいい例と言えるだろう。ひとたび閲覧すると、ここ最近では視覚に脳がジャックされている感覚を非常に強く憶えている。そういった刺激に慣れてしまうことで、それがないと生きられないといった状態に陥ってしまうことになる。本当は見なくてもいいのに無意識的義務感によって閲覧してしまう。見ないと言語化できない物足りなさというものに襲われ、それに耐えきれず「何か自分の興味を惹いてくれるものがないか」と焦燥感すら感じてしまう。もう立派な味の素的報酬だ。

それに加え頭を使わずに見れるコンテンツである場合は、人間の原始的な仕組みにとっても非常に低負荷であるが故、尚更時間を溶かしかねない。人間の脳は本来、考えることを非常に嫌う性質を持ち合わせている。答えが明確に生み出せないもの、曖昧なものについては脳に対して高度の認知負荷を与えられるため、理解しようと努力すると無駄にリソースを割くことになる。食料と安全が確保されている現代においてはあまり問題にならないが、食料と安全のどちらかでも脅かされている場合、生命の第一優先事項である種の保存を達成するためにもそういった無駄なリソースなど割いている余裕などない。そのため認知負荷の低い方向へと流れてしまうことは、ある種当然の帰結とも言えるだろう。

「頭を使わない」という表現を使用したが、これについても少し言及していこう。僕はSNS全般を「認知コストを一切使用しない俗物的な悪役」に仕立て上げたいわけではない。SNSが発達したことによって情報の伝達もより一層容易なものになり、物理的な距離に干渉されずに関係性を構築できるようになったりと、我々の生活は間違いなく豊かで進歩したものになっている。

こういった所与の前提を明確にした上で展開すると、情報処理のプロセスというものは千差万別なものである。活字による情報処理が得意な人もいれば、映像での処理、音声での処理、はたまた絵画による処理や音楽による処理など、得意分野は人それぞれであり、そのどれもが「頭を使っていない」わけでは決してない。だが実際のところ、頭を使わずに情報を入れ続けている、眺めている時間というのも存在するはずだ。そういった所謂「眺めている時間」、「情報を情報と処理していない様子」を指して「頭を使っていない」と表現した次第である。


結論としては、物質的なエネルギーによる充足というものは実に虚無であるということである。本当の喜びと呼ばれるものは、精神的な活動でしかどうやら手に入れることはできないらしい。繰り返しになるが、真の充足感なるものは既に自分の中に持ち合わせているため、外的な物質で埋め合わせようとしてもそれを叶えることはできない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?