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#146 ノルマとふれあう

今回取り扱うテーマは「ノルマ」について。今思い返せば、このノルマという概念とのふれあい方に今までの僕の人生の諸問題の原因が集約されていたのかもしれない。

結論としては、ノルマは絶対化させずにその日のコンディションによって上下する生き物のように向き合うべきではないだろうか、というものである。このように表すと「それならノルマなんて必要なくなるじゃないか」という声も聞こえ兼ねないが、僕は「ノルマを排斥しろ」と言っているのではない。ノルマを絶対化せずに、もっと流動的なものとして捉える視点も同時に持ってみるのはどうだろうか?という提案をしているのである。必要性は否定していない、むしろ目安という意味で必要である。

なぜノルマを絶対化することを見直すべきなのかというと、絶対化することで達成できなかった時に発生する劣等感が精神衛生上よろしくないことに気付いたため。そもそも、このノルマという仕組み自体が人間の本質とあまり合致していないとも考えられる。


僕自身、人間の本質は「ドット」、点の集合体だと考えている。我々は現在に至るまでの人生を、紆余曲折してはいるものの「1本の線」として捉えている人が大半だろう。だがこのように1本の線として捉えてしまうと、様々な諸問題の原因となってしまう。

「昨日は調子良かったのに今日はダメだな…」
「上司の意見が二転三転してついていけない」

例えば僕が羊羹が好きだったとしよう。僕の「羊羹が好き」という属性は、今日聞かれても明日聞かれても恐らく「羊羹が好き」と答える見込みがあるだろう。この属性は10年後も、はたまた一生永続するかもしれない。

だがしかし実際のところ、この「羊羹が好き」という答えはあくまで人生の中での一時点の出来事に過ぎず、たまたま「羊羹が好き」と発言している場面を切り取っているに過ぎない。その時発生した1つの点を自分の想像で生み出した「仮想点」と繋げて「仮想線」にしてしまうのは少しやり過ぎな気もしてしまう。とはいえ、ドットが集合して線に見えるからこそ「今回も恐らくこれくらいだろう」と目標を立てやすくもなるわけで。


このように「ドットの集合体としての線」を眺めている時に我々を困らせるのが「外れ値」である。昨日は出来て今日は出来ない、人の調子には波がある、なんてのも1つのいい例である。人間なんてまさに「外れ値の結晶体」と言っても過言ではない存在であろう。

では、なぜこのような外れ値という概念が我々を困らせるのか。答えは単純で、脳における認知処理の負荷がグッと高まってしまうからである。

身の周りで発生する出来事に対して逐一全てに反応していたら、とてもじゃないが何も手につかなくなってしまう。そのような事態を防止すべく、人間の脳はある一定のポイントで物事をカテゴライズしてまとめてみたり、人格の捨象というものを行なって認知負荷の低減を試みているわけである。以上の前提を踏まえると、外れ値というものが我々を困らせるのも理解頂けるだろう。このような因子が存在するからこそ、ノルマや指標の絶対化という行為には待ったをかけたい。


ここまで話してきたことはあくまで希望的観測視点であり、実際問題としてノルマを生き物のように流動的な可変存在として扱うことを考えると、所詮夢物語と一蹴され兼ねないものだろう。しかし、再三示しているように僕は「ノルマを排斥しろ」とは言っていないし、そのように考えてなどもいない。今回僕が問うているのは、ノルマというものの向き合い方や考え方は本当に今のままでいいのか?というところにある。

先の例で出した「昨日は調子良かったのに今日はダメだな…」「上司の意見が二転三転してついていけない」に関して、理解が難しい事態の理解を手助けする糸口を最後に提示して終わろうと思う。


これらの問題は「常に変わる可能性を孕んだ諸行無常性」という概念を思考にインストールすれば解決する。

先述した通り、我々はあらゆる物事を点ではなく線で捉える認知傾向が見受けられる。その結果、自分が想像する線を逸脱した点を打たれることによって苦しみが発生してしまうわけだが、もはやそれは仕方のないこととして受け入れるべきだろう。

線ではなく点として向き合う。全ての物事は常に変遷し続けるものであり、1秒前の自分というものは、自分であって自分にあらず。そのため、自分の予想を遥かに超える変則的な点の分布になることは起こり得るし、調子の上下というものは起こって然るべき現象なのである。

またこの諸行無常性は自分のみならず当然相手にも適応されるわけで、それはしばしば「分人性」という形で表出される。

家族と関わるときの自分、友達と関わるときの自分、恋人と関わるときの自分、仕事をしている時の自分。これら全ての場合において、人によっては全く異なった人格でそれぞれのポジションによる立ち居振る舞いを行うわけだが、これらは全て「同一人物内に内包される別側面」として全ての人間が持ち合わせている特性である。何ら不思議なことではない。自らの中に複数体の自分が存在するため、以前発言していた意見と内容が変わっていることも十分起こり得るわけだ。過去発言していたのは「その一時点の自分」であって、今の自分ではない。

こういった「分人性の認知と許容」を行うことができれば、いざ自分や相手を線として捉えた時にも十分な理解を持って接することができるのではないだろうか。


以上、人間の本質という視点から「絶対化されたノルマ」というものは人間と相性があまりよろしくないのではないだろうか、という話であった。

絶対化するでもなく、しないでもない、ダブルスタンダードな視点で向き合うと世界はまた広がって見えるかもしれない。



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