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#154 見えないもの、聞こえないもの

このnoteに辿り着いたそこのあなた。五感で感じ取ることができない存在、現時点で存在認知をしていない存在を、あなたは認めることができるだろうか。また、そういった神秘的な物質が存在すると言われて、あなたは存在を認めることができるだろうか。こういった一見神秘的と見える力、現代科学によって証明できない存在による影響を少なからず我々は毎日受けて生活している(意見はそれぞれあると思うが、今回は便宜上、そういった存在があるものとして展開していく)。

そういった今見えているもの、聞こえているものをスッと手放すことで途端に本質に近づけるような感覚を憶えたため、今回のnoteではそれを記そうと思う。


上記のような感覚を憶えたのは、日課であるヨガをしている最中であった。

特に先月は乱れたリズムで日々を過ごしており、本来「心を落ち着かせ、全身の気の流れを円滑にする」ために行なっていたはずのヨガを、非常に機械的にーなんならやらない日もそれなりに存在したーこなしていた。以前までポーズを取る際は目を瞑りながら、呼吸に意識を集中させながら行なっていたのだが、先月は「さっさと終わらせたい」という気持ちで取り組んでいたためそんなことはお構いなし。

そのような乱れた状態であったため、先日ヨガに対する姿勢を改めんとし再度時間をしっかり確保し、目を瞑り、呼吸に意識を向けて取り組んだ。するとどうだろう。心は波風1つ立たない一切静寂「凪」の如く、身体は足から力強く張り巡らされた隆々たる「根」の如く、そのような感覚を強く憶えたのだ。

ヨガのポーズを取る際において「目を瞑って」行うことを一部で推奨されているわけだが、やってみるとはじめはこれが結構難しい。片足立ちで目を瞑るとバランスが途端に崩れるように、ヨガにおいても不慣れなうちはそれが起こる。僕個人として、視覚の情報をシャットアウトすることで自分自身の奥深くまで沈み込むことが可能となる。そのように沈み込んだ状態でポーズが安定している時の感覚は、「周囲の環境と自身が一体となって風景の一部として溶け込んでいる」と表現できる。目を開けている時はそれができない。これは身体の均衡保持が視覚に依存していると言えるだろう。真に「バランスが取れている」とはこういう状態を指しているのかもしれない。

目に映った世界でバランスを取ろうとする、大いなる自然の流れから独立して自身を制御しようという意識が自然の摂理に反しており、そのような状態でいる限り重心は乱れ続けることだろう。目を瞑り自分自身に集中を向け、不安定であろうとも大いなる自然の流れに逆らうことなく身を委ねる。自身も風景の一部として、大いなる自然の一部として世界に現れる。『十牛図』で言う「返本還源」の体現にこそ、真に自然と調和の取れた状態である。そういった目に見えない大いなる自然に身を委ねることができたからこそ、自然もそれに応えて僕を支えてくれたのである。たかが人間1人の力を過信し壮大な流れに逆らうがために不都合が発生するのだ。


「人を一面的に判断してしまう」ということも、現在見えているものこそ、聞こえているものこそ全てという物質主義的側面が見受けられる。人間の性質上しょうがないことではあるのだが、物事の本質と向き合うという点においては注意したい行動であり、僕自身の課題でもある。エコーチェンバーなんかは、思考が固執し本質を見抜けなくなっているいい例だろう。正直なところ見えないものにこだわる必要はないのだが、自分に開かれている世界というものは、自分の特異的なフィルターを通してでしか見れない非常に偏った見え方であることは重々承知しておいた方が賢いだろう。

今あなたから見えている世界は、世界に対する無意識的な執着によって歪んで開かれているのかもしれない。その歪みを自分の力で矯正したり反発するのではなく、敢えて歪んだ世界に身を委ねてみる。委ねた先の大いなる自然の一部として世界に現れることによって、今まで見えていた歪みは広い世界のほんの一面に過ぎず、なんなら錯覚で「歪んでいるように」見えていただけに過ぎなかったことに気づけるだろう。



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