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#147 感謝について

日頃から他者に何か施しを受けた際に「ありがとう」とお礼を返す人が大半であり、むしろ何かしてもらって「ありがとう」を言えないことで関係性の悪化に繋がる可能性すらある。

相手に対してお礼をすることは人間同士のコミュニケーションにおいて非常に大事な行為ではあるのだが、いかんせんそのお礼というものが機械的に行われている気がしてならない。自分も含め、日常的に使用されている「ありがとう」という言葉には、本当に感謝の心が内包されているのか。今1度省みる必要性があるだろう。


まず初めに「ありがとう」という言葉について。漢字で書くと「有り難う」。そう、本来「有り難い」とは「そこに存在していること自体が難しく、稀な、とても尊い状態」を表す言葉である。この背景を鑑みると、普段からある種テンプレのように使用されている「ありがとう」に対して、このような軽率な使われ方をしていていいのかという疑問が湧き上がるのも不思議ではない。乱用によって価値が低減してしまっていることは現実として起こっている。

だからと言って、感謝を本当に大事な時以外伝えることを辞めるべきとか、普段から全てのことに対して全身全霊の感謝を表すべきとか、そういう極端なことを言いたいのではない。価値が低減しがちだからこそ、当たり前ではない尊さを再確認することが求められるのではないだろうか?という提案を投げかけたい。

人間とは愚かなもので、毎日当たり前のように享受できている生活は全て自分単体で完結しているもの、享受できて当然のものと錯覚している人が大勢存在してしまっている。はじめはそのように感じていなくとも、刺激というものは次第に鈍化していくものであり、ある種避けられない結末に帰結することとなってしまう。このように忘れたり疎かになってしまいがちだからこそ、「自分と感謝の距離感」の見直す機会を設けるべきであろうと僕は考えているのである。

「自分と感謝の距離感」の見直す機会、「当たり前を疑って安住しない視点を持つこと」と言い換えてもいいかもしれない。


では、人はどのような時に他者に感謝の気持ちを感じる傾向が強まるのか。個人的な事例を挙げると、自己が危機的状況に晒されている時にそれは強まると考えている。

僕はつい先日ぎっくり腰なるものを発症し、今も療養中である。仕事中に発生し仕事仲間に状況を伝えたところ、湿布を恵んでもらったり、ぎっくり腰経験者による対処法を教えてもらったり、急遽休みを頂いたりと様々なものを受け取った。この時こそまさに、困った時に手を差し伸べてくれる人たちの存在というものに心底「有り難さ」を感じた出来事である。

もう1つ取り上げよう。これはぎっくり腰ほどの危機感はないのだが、最近は太陽に対しての感謝の気持ちというものも高まりつつある。我々人間は恒温動物とはいえ、一線を超えた低温環境に晒されると身体機能は低下し、自己保存のための防衛反応が働く。そのような体験をする機会が多い冬だからこそ、風がなく、太陽が燦々と降り注ぐ晴れた日に外を歩くと、「太陽に生かされている」という感覚を非常に強く憶えると同時に、太陽に対する感謝の気持ちも内側から湯水の如く込み上げてくる。さながら擬似的な太陽信仰でさえある。太陽に生け贄を捧げたくなるのも納得。


物事の希少性が当たり前に変化していくにつれて、感謝の気持ちも薄れていきがちなことに自分で気付けないことも往々にして存在する。そのため我々は定期的に自己の振る舞いを省みる必要があるだろう。それが感謝が疎かになりにくくできる唯一の方法と言ってもいい。

「決して当たり前ではない」

この気持ちは常に思い出せるよう、引き出しの手前側にしまっている方が賢そうである。




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