見出し画像

#156 「地に足をつける」とは

「地に足をつける」、スピリチュアルの世界では「グラウンディング」という言葉をよく耳にするが、正直いまいちピンと来なかった。というのも、それと対義語に位置した「フワフワしてる」「すぐに上と繋がっちゃう」という状態が理解できていないためである。「意味」というものは相対的な存在で、片方の「意味」を認知できてようやくそれに対応する「意味」を真に理解できたと言える。「速い」という意味は「遅い」という意味を認知することでようやく理解することができる。僕は「グラウンディング」に対応する「フワフワしてる」「すぐに上と繋がっちゃう」という意味を理解できていないがために、「グラウンディング」の真の意味に到達できないでいた。そのような状態であったのだが、今回は例外的に「グラウンディング」単体でその言葉の指す意味の仮説まで到達できたため、僕なりの解釈を記していこうと思う。

グラウンディングとは「今自分の目の前のことに意識が集中できてる状態」であり、「考え事ばかりしていてノイズまみれになった脳内を落ち着かせる作業」である、と僕は解釈した。解像度が粗くはなってしまうが、要は精神統一状態と捉えても問題はないだろう。

では逆に、グラウンディングができていない状態とは何か。「心ここに在らず」という言葉で表現されるように、身体はその場にあるにも関わらず「意識が幽体離脱してしまっている状態」と表すことができる。考え事や脳内で唐突に始まる妄想などに脳のリソースが割かれることで意識が散漫になっている様子であり、その状態こそ「上の空」であり浮き足立って「地に足がついていない」、out of control の空中浮遊、非グラウンディング状態と言えるのだろう。

また、日常的に「頭脳先行」で物事を判断し、知識ばかりが膨らんで頭でっかちになりがちな人も、グラウンディングが疎かになる傾向がある。知識を増やす、教養を身につけることは素晴らしい営みではあるのだが、行き過ぎるとインプットした情報でしか物事を判断できなくなり本質を見失う傾向が強まってしまうようにも思われる。

そこで生まれるのが、「知識を蓄えることや理論化できることが本当に正義なのか?」という問いだ。言語化できない感覚、そのように考えた理由を相手に説明できないことには価値がないといったような風潮が、一部の人間を苦しめているようにも感じられる。

理由なく判断してはいけないのだろうか?「なんとなく」や「心でそう感じたから」という理由で選択した物事より、理由を言語化できる方がえらいのだろうか?取るに足らないことは全て無駄と棄却されるべきなのだろうか?

これらに対し、僕は賛成しかねる。もちろん自分の脳内を言語化して文字や言葉でアウトプットできる能力は、意思疎通することにおいて大いに役立つことは明白だ。ただし、言語化能力のパラメーターが低い相手に対して「言語化しろ」と命令するのは酷なことである。あくまで言語化は、言語化が得意な人にとってのコミュニケーションの最適解なだけであり、絵によるコミュニケーションやアイコンタクトのみで成立するコミュニケーションもそれぞれれっきとした意思疎通の形であり、ただの特性に過ぎないのだ。言語化能力が優遇されているのは、今の社会が「言語化できることが正義である」という風潮の中に我々が投下されているだけであって、そこに優劣はない。時代や社会通念が変われば強弱関係は容易く逆転するなんとも脆い存在である。そのような優劣の価値観で開かれている世界はなんとも貧しいことであろう。

言語化能力を磨くコンテンツはこの世に溢れている。僕自身もまだまだ拙いが、これでも思考を言語化できるよう「言語筋」をトレーニングしてきたつもりだ。一旦言語化に拘らず、距離を置いてみてもいいのではないだろうか。頭ではなく、心がどう感じるかにスポットを当ててみるのも悪くはないだろう。

最終的には両者の間で均衡を保ちつつ、ダブルエンジンでの運行が理想ではあるが、ここは一旦騒がしくなってしまった脳を落ち着け、自身の感性に身を任せてみてはいかがだろう。余計なノイズがなくなれば「いま、ここ」に集中することができ、地に根を下ろすと、そこには豊かさが広がっていることに気づけるはずだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?