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#153 人の「厚み」というものについて

他人に対して「厚み」というものを感じたことがある人は、世の中にどれほど存在するだろうか。極限までトレーニングを行うことで「筋肉的厚み」を手に入れた人もいれば、今まで生きてきた人生の中で計り知れない挫折を乗り越えて「精神的厚み」を手に入れた人もいるだろう。その人が持つ「波動の高さ」や「身体つき」、「精神性」など諸々総合してその人の持ち合わせる「厚み」というものは、「分厚さ」という指標で世の中に対して現されるのだろうと考えている。

これを考えるきっかけになったのは、とある男性との出会いである。その男性を目の前にした時、まるで樹齢数百年と生きてきた御神木のような「圧倒される」「気圧される」印象を受けたことを鮮明に憶えている。

今まで「物理的な身体の大きさ」によって圧倒されるようなケースは何度か遭遇したことがあるが、その男性は僕と大差ない年齢、体格をしていたにも関わらず、僕より遥かに大きなものに感じられた。しかもそのように向かい合った時に、圧倒されつつも威圧感を感じさせなかったことがまた、非常に興味深い体験として僕の中に深く残っている。

このような身体性と精神性を兼ね備えた年輪の如き「分厚さ」なるものは、今までの人生において初めての出会いだったからこそここまで深く印象に残り、尾を引いているのかもしれない。


自意識過剰にはなってしまうのだが、ここまでの人生において、僕は真の意味での「居心地の良い関係性」というものにほとんど出会う機会がなかったように思われる。というのも、僕と関わっていた周囲の人間が僕の持っている「分厚さ」に耐え切れないが故に僕の元から離れていったのではないか、という考えに行き着いたためである。

幼稚園の頃から周囲に存在した「近しい年齢の他人」というものを、僕はどこか1歩退いた目線で動物を眺めていたような感覚を強く憶えている。とはいえ、当時の僕にも仲良くしたいという気持ちは持ち合わせていたため交流を図るものの、上手く同調することができない。同調できないなりに交流を試行錯誤した結果、無意識の内に他人が篩にかけられ、その網目から落ちていった人が自然と僕の元を離れていくというような仕組みが誕生していたのかもしれない。その網目から落ちていった人というのが、「僕の分厚さに耐え切れなかった人」ということになるだろう。

また一部「分厚さの篩」に残った人の中で妙に腰を低く振る舞ってきた他者という存在もあるが、その人も恐らく僕の分厚さに違和感を感じながらも交流せざるを得ない立場にいたために、そのような状態でいることを妥協した結果だったのであろう。

そういった意味で、先述した男性との出会いというものは僕にとって非常に新鮮な印象深い機会となった。



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