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#148 貧しさと豊かさ

「清貧」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

〘名〙 貧乏だが、心が清らかで行ないが潔白であること。余分を求めず、貧乏に安んじていること。

コトバンク

この言葉から見るに、豊かな状態より貧しい状態の方が真に豊かであるという仮説が導き出せないだろうか。さらにこれは、物質的な貧富の差の話ではなく、精神的な貧富を指している。


物質的な豊かさを求めること。資本を稼いだり、権威や名声を手に入れたり、食欲や承認欲求などの欲望を満たしたり。こういったことは一時的な満足感を与えてはくれるものの、永久的に満たされることはない。

物質的な欲求は、底に穴の開いたコップのようなものである。その穴の大きさは個人によって、欲求によってまちまちではあるが、そのコップの中は永遠に満たされることはなく、絶えず漏れ続けていく。仮にどれか1つ満たされたとしても、物質的な欲求は次々と形を変えて波及していき、我々を侵食していく。さながら内なる化け物に乗っ取られていくかの如く。

その化け物が暴走すると他人の時間や労力を奪い始め、それが怒りや争いの種となり、互いに永久的に奪取し続ける生存競争となりかねない。

そしてその生存競争が終わってふと我に帰ったら、そこには何もなく、ただ虚無感のみが漂っていることに気付かされる。そうならないためにも、我々は「精神的充足感」というものを思い出し、外部依存の物質では「本当の充足感」は得られないということに気づくべきである。まぁこれを教えてくれるのが今まで何度も紹介した『十牛図』であるのだが。

はじめから、我々は全てを持ち合わせてこの世に生まれてきている。既に持っていることにも気づかないがために、外に求めて苦しみを味わう羽目になっているだけなのだ。


個人的な例を挙げるとするならば、ファスティングも上記の発見を手助けしてくれる1つのいい例となってくれることだろう。

僕と同じように、「際限のない食欲」というものに悩まされている人は少なからず存在している。食べ過ぎだと薄々勘付いてはいるものの、欲に負けて手を伸ばしてしまう。これも先述した「外部依存の物質による豊かさを求める」凡例の1つである。その時は満たされても、食欲というものは時間をかけて際限なく襲いかかってくる。

そんな人こそ試しに1日ファスティングを実践してみるのはいかがだろう。

個人的な感想としては、余分な食べ物が入らないことによって頭の聡明感や身体の軽快さ、体内のあらゆるところの詰まりの解消といった反応を得ることができた。が、行う日程と頻度はそれぞれの身体と要相談事項である。休みの日でないと人によっては過度なエネルギー不足となり、自分自身への暴力となって反動で食べ過ぎてしまうという事態になりかねない。そのため無理は禁物であるが、外部物質に依存せずに自分の内に隠されていた充足感を体験できるわかりやすい例だと感じている。


『バガヴァッドギーター』には以下のように書かれている。

これと同じように物質世界は精神世界の反映、すなわち真実の影なのである。影の中には現実も実体もないが、影を見ると実体があることがわかる。砂漠には水がないのに、蜃気楼はまるで水があるかのように思わせる。物質界には本当の水、すなわち本当の幸せはない。それが実在するのが精神界である。

序章 P44

この文を読むと、現実世界における物質依存の満足感というものがいかに虚しいか、虚構であるかが身に沁みて感じられる。ハリボテの豪邸で歓喜するくらい虚しいことである。

かと言って僕は求めるな、満たそうとするなと言っているのではない。豊かさが悪と言っているのではない。

全ての人が生まれつき持ち合わせている「精神的充足感」というものに気づければ、自然と余分に求めたりしなくなり、また物質的に持ち合わせていなくとも不幸と感じることは少なくなっていくはずであると伝えたい。


本当の幸せなどこの世に存在しない。なぜなら既に自分の中に持ち合わせているから。



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