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「何者」かになるために10年間やってきたこと

どうもエヌケンです。

この記事は僕が運営してるオンラインサロン「インスタ研究室」で投稿したものです。

累計サロン会員数は1万人を超えてインスタ運用特化では国内最大手に、著名人含むオンラインサロンの規模で言っても国内で30番に入るほどのサロンを運営していますが、この華々しい結果の裏には鬼のような積み上げの日々がありました。

この記事はそんな何者でもなかった自分が、
何者かになれたその軌跡を自叙伝という形で書き記したものになります。


インスタ研究室は6年前一人で運用の試行錯誤して、何も解がない状態で足掻いていた頃の僕がターゲットです。今では3000人を超える巨大サロンになり、オフ会で僕と会ってくださったサロン生が累計500名はいます。ㅤ


自分で言うのもアレですが、進化し続ける僕と会う価値はあると思います。
それは知識や経験だけじゃなく、溢れ出るエネルギーをもらえるから。


僕は今ではもう会えない人は少ないんじゃないか?と言えるくらいまで本当にいろんな領域の知り合いが増えました。それでも僕が群れずに淡々と積み上げて、趣味も仕事も全力で楽しんでるのは、自分の成長が生き甲斐だからです。


だって新しいことハックしたらそれがコンテンツになるじゃない?
そのコンテンツ俺が見たいんだから。

常に一番の視聴者は自分だから。
だからこそ自分のために自分に時間を使いたい。


それに僕は毎年最高記録を伸ばしています。
仕事だけじゃなく、さまざまな領域で。

2022年は、民泊事業、プロテイン事業
2023年は、ストーリーテリング、ピアノ、不動産
2024年は、トライアスロン、役者、ストーリーズ講座

一見インスタに関係ないと思われると思いますが、僕の手にかかれば、その全てをコンテンツにして視聴者をワクワクさせます。なんなら巻き込みます。

だから、これからも進化し続ける。

きっと過去の僕が今の僕と会っても話すことはないと思う。
それは話せることがないから。

過去の僕がターゲットならサロン生の現在地点は過去の僕と同じ。
つまり、話せることがないからオフ会に行きにくいと感じてるはずだ。

それでも全力で全ての物事に取り組んでるんだ。というのは分かる。
その気を感じるだけで、自分も頑張ろうってなるんだと思います。


3分コンサルは本当に短いです。質問ミスると棒に振ることになります。
ただ、僕は現状インスタ運用でわからないことのほうが少ない。
僕からのアドバイスはきっと今の皆さんの問題解決につながると思います。



すげえ自信だなって思われるかもしれませんが、それは走り続けてきたから。

実績があるから。僕以外の人でも実績を出してきたから。3分のコンサルで月200万売り上げたサロン生がいたから。

サロン生のポテンシャルを開花させるのに3分もいりません。今も走り続けてる僕ならそれが可能なんです。

まだオフ会に来たことのない人は、こんな自分でもいいのかな?ってひよってるマインドブロックを破壊してぜひ来てください。僕はあたたかく迎えます。むしろ僕が会いたいから。みんなの気持ちがわかるから来てほしいと思ってる。

オフ会にかける思いはこんな感じです。
また来たことない人はぜひ会いに来て欲しい。

スピーチで話したこと

2024年3月2日。
28歳の誕生日を迎えた僕は自分の生誕祭を企画した。

総勢80名近くのサロン生に祝っていただき、そこで僕は自分の過去についてスピーチしました。

スピーチテーマは「僕の10年間」


今の僕をみてる人はエヌケンは元々凄かったんでしょってなってるはず。ㅤそれは過去の自分が今の自分をみたらそう思うから。

だけど現在地点にいる自分はそうは思わない。
俺はやることをやり切って今があるんだと。

元々すごかった。と結論付けられるのは心外だと思っている。
だから僕の10年前から何をしてきたのかを語った。
僕はこの10年間行動を止めたことはなかったから。

中学時代

5教科の最高得点は全教科で80点くらい。本当に勉強ができなかった。
親からも勉強はしろと言われたけど、聞かなかった。

陸上部に入ったものの練習がきつくサボることもしばしば。
ゲーセンにハマり、そのまま陸上部はクビに。

ゲーセンでは規約違反で出禁になりことも。
高校受験は学力が低すぎてどこの高校にも受からないんじゃないかと親に心労をかけさせるどうしようもない人です。

裕福ではない家庭で捻出したお金で塾に通わせてくれた。
その塾でも真面目に勉強したかと聞かれると怪しいところだ。

結果的に地元で一番頭の悪い高校へ進学。
どこにも行かないよりはマシかと親も安堵した、と思う。

高校時代

学力が低い=民度の低い学生が多い。
ヤンキーばっかの高校で授業中に椅子を投げ合う、お酒を学校に持ってくる、授業中は寝るのがデフォ。そんな学校です。

授業中のリアルな風景

そんな中でも高校からは変わろうって思って勉強を頑張った。
勉強って暗記なんだって解釈で勉強したらクラスで1番になったこともあった。

祖父から教えてもらった将棋はずっと強くて、実は文化祭の将棋大会では3年連続1位を取ってる。2年生の時には将棋部の部長を務めていた。不甲斐なかったけどね。


その後の進路を考えた時に工業高校だから9割が就職を選択する。

自分も例外なく。でも俺はどこか悶々としていた。
その時にヤンキー友達に言われた

「お前は大学に行くべき人だ」

嘘のないストレートな言葉が自分の中で葛藤していた。

行けるなら行きたい。
でも学力はないし、家に学費を出すお金はない。
どうしたものか。

その時にCMでみた「ゼロからプロへ」のキャッチコピーのモード学園。

コレだ!と心の中で何かが弾けた。

親に相談せずに和歌山から梅田まで二時間かけて行って、入学担当の人へ現状の自分を伝えた。お金がないことを、学力がないことを。

結果、学力がなくても熱量でカバーできる。お金は国から借りられる。
そのことを知り、親を説得。足りない入学費は祖母から借りた。

祖母から借りたそのお金は、定期で積み立てていた保険を解約して回収したお金だった。


借りた入学金

僕は祖母の保険を解約させて入学するんだと心が痛んだ。

しかも自分には300万円の借金がある。
もう俺はここで人生を変えるしかない。
行動マインドが形成された瞬間だ。

俺は大阪モード学園 ファッションビジネス学科への入学が決まった。
この瞬間に俺の人生の成功は約束されていたと今なら思う。

モード学園時代

大阪に部屋を借りるお金はないから、和歌山から梅田まで2時間の通学。
行き帰りは予習復習をする熱量バッキバキ学生の始まりだ。

クラスメイトになぜモードにきたのかを聞く自分。
「家が近いから」「大学めんどいから」「まだ就職したくないから」

俺はこの人たちに負けるわけにいかないと心で思いながらモードに入学してから2つの目標を設定した。

・首席で卒業すること。
・アシスタントスタッフに入り、高校生をモード学園へ入学させること。

アシスタントスタッフ(以下アシスタ)とはオープンキャンパスを案内する先輩学生のこと。自分が先輩学生にそうしてもらったように自分も自分きっかけで入学する人を増やしたい。そう思っていた。


アシスタの願書(18歳時代に書いたもの)

思い返せばこの時からインフルエンサーになりたかったんだろう。

アシスタの面接ではどうしたら合格をもらえるか考えた。絶対に入りたいからだ。そこで僕は第一印象で決着を決めようと。

面接が始まって第一声目僕はこう言った。

「どうも、お初にお目にかかります、西岡と申します」

周りがざわついた。

18歳の若き青年がそんなことをいうはずはないから。

後から聞いた話だと、おいおいやばいのがきたぞって幹部陣の中でなってたらしく、その後の話というより、個性が強すぎて即合格が決まっていたそうです。

僕の戦略がハマった瞬間だ。

学生生活の中は、テストはなく学内賞がある。

学内賞は点数で競うものではなく、クリエーションで評価されるもの。
順位は出るが、点数は出ない。
独創力、工夫力、センスなど総合的に問われるものだ。

一回目の学内コンテストではセカンドブランディングがお題になった。
既存のブランドがセカンドラインを出すならどんなコンセプトでビジネスをするか?というものだ。

自分はmiumiuのウェディングラインを提案。

家にパソコンはないから居残りで操作を教えてもらいながら時間をかけた。
それまでの人生で一番頑張ったことだと思う。

実際の納品物


結果は4位。


俺は本気で頑張っても「家が近い」の理由の人に勝てない。
頑張っても1番になれないんだと悔しくて泣いた。

だけどそんな気持ちからすぐ立ち直れた。

それはなんのためにモードに入ったのか。
自分の目標を見失ってなかったからだ。


2回目の学内賞。

テーマはマーケット情報分析。
来季のトレンドをリサーチしましょうってお題だ。

ここで絶対に一位を取る。
どうすれば一番になれるか、前回の反省もあって考えた。

結果、内容はきっとみんな同じだろうから、別で工夫しようってなった。

俺がとった作戦は二つ。

・みんながインターネットでのリサーチだけど、俺は自分の
 足を使って梅田のセレクトショップ全部を回って聞き込みをする。
・ファッショントレンドだけじゃなく
 ヘアメイクなどの別要素も取り入れよう。

この二つの要素を詰めて、これまた人生で一番時間をかけた。
誰よりも早く着手して、誰よりも早く提出した。


結果は。。

金賞。

悲願の金賞だった。

俺がバッキバキの学生ってことは周りも認めていたから、クラスメイト全員ライバルだけど、金賞をとった僕のことをみんなが喜んでくれた。

嬉しかった。この瞬間も泣いた。
前回は悔し涙だったけど、今回は嬉し涙だった。

努力すれば報われる。
この言葉を人生で初めて感じた瞬間だった。

その後も立て続けに金賞をかっさらい、学生時代にとった金賞は合計3つ。

VMDコンテスト
生徒全員の前で表彰


首席だったかどうかは正直わからない。
ただ、2回目の学内賞で分析の知見が身についたから、この時にはPDCAを回す思考は身についていた。

だからその後の学内賞でも金賞を取れたんだと思う。

アシスタでもその金賞を取りまくる優秀学生、アテンド力が評価され「健斗さんに憧れて入学しました。アシスタ入ります」という願書が届いたと幹部から教えてもらった。


自分経由で入学を決めた高校生

入学した時に掲げた目標は達成した。

振り返ってみれば荒い部分もあるけれど、祖母の50万円、借金300万円の痛みを背負った学生の自分はよくやったと思う。

そうして就職はアパレルの会社で販売職に内定。
モード2年生のインターン時期に人生が変わるきっかけがあった。

今の内省マインドになった、とある出来事だ


インターン時代

モード学園はコースによって卒業年月が変わる。
俺は2年制を選択したので、4年制の3年制と同級生扱い。
そのため、学生2年目に入った時点で卒業年ということだ。

卒業年は就職活動が始まるが、厳密には1年生の2月にはインターン先を決める必要があり、進級前の3月にインターン先へ各々行くカリキュラムである。

自分はかねてから気になっていたクロスカンパニー(現ストライプインターナショナル)を選んだ。理由は女性中心の会社だからだ。展開してるブランドはアースミュージックアンドエコロジーを中心とした女性向けアパレル。

女性ばかりの会社なので女性が働きやすい福利厚生を整えられている。そのため離職率も低くポジションに空きが出ることが少ない。それでも行こうと思ったきっかけは女性が多い、ということは男性の活躍は目立つと言うことだ。

ここも学内賞で金賞を取った戦略思考で考えて、就職する時もどうやったらいかに早く会社で目立てるかを考えて会社を選んだ。

俺はプレスになりたいと言う夢はモードに入る前から考えていた。プレスになれれば別にどこのブランドでも構わない、そのくらい手段にはこだわっていなかった。

そのため3月のインターンはその会社のブランドで1ヶ月間アパレルスタッフとして働かせてもらえることになった。

当時のことはよく覚えている。

「あれ、アパレルスタッフになる夢ってこんなすぐ叶うんだ」

高校時代、底辺高校に通っていた自分が気づいたら大阪の一等地に構える綺麗な商業施設の中で服屋の店員として働いている。この状況をメタ認知して武者震いしたことがある。

インターンではバイトと同じ業務を基本的に行なった。商品出し、商品整理、接客、レジサポートなど。初めてのことだらけだったけど男性女性の先輩スタッフも多く、業務に慣れるまで時間はかからなかった。

接客で服が売れることがこんなに楽しいのかと仕事がこんなにも楽しいと思ったことがない。一生販売員でもいいなって思えるくらい没頭していた。

しかし3週間が経ったある日事件が起こる。


スニーカーを販売して、新しいものと取り替える際にサイズを間違えてお渡ししてしまい、お客様からクレームの電話が入った。インターンはクレームの電話は取らないため、当時店長が対応してくれた。

店長は厳しい方だった。

それまでも細かいミスをみていたので、今回の大きなミスでお叱りを受けた。そこ時に人生が変わることをお言われる。

店長「あんたは何がしたいん?

N「尊敬するTさんのようになりたいです」

店長「Tはもうおるやん。社会に同じ人は二人もいらんよ?
  あんただけのの価値ってなに?」

N「(言葉に詰まる俺)」

ストライプ(会社名)ではブラザー制度という教育システムがある。先輩社員がつきっきりで指導するものだ。そのブラザーになってくれたのがTさん。優しくておしゃれで、接客が上手くて憧れていた。

この人みたいになりたい。そう思っていたが、店長に一蹴された。

「社会に同じ人は二人もいらない」
「お前だけの価値はなんだ」

帰りの電車で考えた。
考え抜いた。
自分は何者で、何が価値なんだろうと。

その瞬間に内省することを覚えた。
そしてTさんを憧れるのをやめた。

憧れたらその人は越えられないなと思ったからだ。
このとき自分の中の魂の炎が赤色から青色に変わったと確信した。

俺は借金350万円背負って服の専門知識がある。大卒の人より絶対に詳しい。自分には分析の力があるから、そこらの人より少し先のトレンドを理解してる。

俺の価値は圧倒的知識と最適化だ。そう定義して残りの1週間のインターン仕事を励んだ。

インターンが終わり就活は、そのままストライプインターナショナルを選んで一発合格。最終面接ではその会社についてプレゼンするというものだが、全員がボード1〜2枚でプレゼンする中、俺は10枚用意して、多面的なプレゼンを行い面接官を驚愕させた。

4月2週目には内定をもらい、クラスで内定第一号を勝ち取った。

内定してからも、人生を変えてくれた店長の元で働きたく内定者バイトとして働かせてもらえるかを打診して、採用。

後から知ったことだけど、インターンシップ制度も内定者の学生バイトも今まで制度としてなかったみたいだけど、自分がお願いしたことでそれらが会社の制度として認められたそう。人事の人からもその時点で高く評価しれくれていた。言ってみるもんだなと。

学生バイト中に接客コンテストがあったのでもちろん出場した。
ロールプレイングコンテストだ。

画像はイメージ

要は架空の設定でお客様役が来店して、どのように営業していくかを測るものだ。

これは学校の授業であったので専門に出ていない人には負けられなかった。とはいえ経験値も違う。経験値が勝つか、知識が勝つかの世界線だ。

強敵はもちろん俺が尊敬していたTさん。この人には絶対勝たないといけない。

結果は、、、


勝った。

店長は評価側に回るので、店にいたスタッフ6人の中で自分が勝って店舗代表として地区エリア大会まで駒を進めた。

これも後から聞いた話だとバイトが店舗代表に選ばれたことはなかったそう。異例のバイトが地区大会出場に本部もざわついたそうだ。

地区大会では各店舗の代表が出場。これ勝てば快挙だったが、結果は負け。

やはり経験+知識を持った人には勝てない。少しだけ悔しかった。この大会もいつかは優勝したいと密かに思っていた。

そんなこんなでインターンバイトとして一生懸命仕事しながら、学生もこなしつつという学園生活で、最終的に精勤賞をいただいた。これは欠席遅刻が年間で5回未満に送られる賞だ。

和歌山→梅田の二時間往復をよく2年間頑張ったなと思う。

社会人になってもこのままこの店舗で働きたいと思っていたが、その望みは叶わず、大阪の中でも堺市に位置するアリオ鳳の中の店舗に配属が決まった。

何もかもが新しい環境だけど、ようやく社会人になって夢のプレスへの一歩を進めると思うと心が躍った。

社会人1年目編

初出勤日、所定の時間に店舗へいき挨拶。

漁業をしてそうな短髪のイケ兄と、クラスで絶対秀才ポジションやんって感じのメガネのスタッフがいた。短髪イケ兄が店長で、メガネが副店長だ。その日は女性スタッフがいなかった。

自分の情報は本部から送られていたのだろう。ある程度学生バイト時代の実績は評価されていた。すごく褒めてくれて居心地が良かった。

そこで調子に乗ったのか、自己啓発本に影響されたのかわからないけど自分は「僕は半年以内に副店長を目指し、2年で店長になります。4年目には本部へ行きプレスの仕事をします」と宣言した。

店長は笑いながら「いいねえ!」と半分信じていないような笑みを浮かべていたが、俺は本気で公言したつもりだった。

出勤2日目、出勤して会社のメールをチェックすると一通の公募がきていた。それは会社をSNSで広めようって企画だ。店舗スタッフは毎日のコーデを上げるだけで良かったのでこれは自分にもできそうだと。

志望動機や自分の目標をは頭に中にあったので、仕事中に頭の中で原稿を作り、昼休憩に言語化。午後には店長に黙って、その公募へ応募した。

1週間後公募採用のお知らせが来て、自分は本部のメンバーと仕事することになった。現場の仕事と、部分的広報の仕事ができる。ちょっと夢が叶ったようで嬉しかった。


結論から言うとこの企画は盛り上がらず1ヶ月で打ち切りになった。今になってわかるが、共通目的もキックオフミーティングもないので指揮が取れないのは当然である。

しかしアイデアは悪くない。このネットを活用して認知をあげる活動は実店舗でも使えると。自分が働いていたアリオ鳳は館に人がこないと結局集客はできない。

例えアリオに来たとしても食品を買いに来た人、映画を見に来た人と来店目的は人それぞれである。そのため店になかなか足を運んでくれない。


そこで閃いた。

アリオのショップブログに自社の商品のブログを書こうと。
早速相談したら、やりたかったけどなかなか時間取れなくてできてなかったとのこと。完全いチャンスだと思い、それ自分がやると立候補。

閑散時間は勤務時間内に写真を撮って、勤務終了時間が過ぎると、バックヤードにこもりに文章を考えて1~2日に一回の確実更新で投稿した。


結果、最下位(未更新)から2位まで登り詰めた。

お店のセレクトで選んでるブランドは悪くない。みんなが知ってるアディダスやナイキの最新モデルも入荷していた。みんな知らないだけだろうと、置き画、着画をしっかり撮影してイメージを具体化した。

ショップブログに掲載してから、掲載した商品が売れるようになり店長からもとても褒められた。接客以外でも売る方法はいくらでもあると自分の中で固定観念がなくなった瞬間だ。

その活躍があったのか、タイミングなのか、入社して半年が経った9/1より石川県の転勤を辞令が入った。

人生初の転勤。場所は石川県かほく市。どこなんだ。

しかし副店長への昇格付きだ。目標にしてた2番手になれる。新卒では最速クラスの昇格だった。嬉しい反面、住み慣れた関西を離れるのには抵抗がある。当時付き合っていた彼女には泣かれた。

それでも会社は動き続けるから自分がどうにかするしかないと腹を括ってありがたく受け入れて、9月より自分は石川県で活動することになる。

ここでエヌケンの原型となるエヌケン1stアカウントを立ち上げることになる。

社会人半年までは順調な駆け出しだったが、ここから一気に落ちることになる。人生で発狂する日が来るなんて思わなかった。


社会人1年目秋-転勤と挫折

ショッププログでの活躍、販売員しながら広報活動していた自分は上司からもかなり認められていた。その結果入社半年で昇格、石川県への辞令がでた。

自分はキャリアアップできたことに喜びを感じると同時に、見知らぬ地域で生活することの怖さを感じていた。なんたって20歳だから。ㅤ

2016年8月31日、関西での仲間と別れを交わし石川県へ。

初めて金沢駅に降りたった日のことは今でも覚えてる。意外と都会って感想だった。しかし自分が住むのはそこから車から車で30分以上北部へ行った先のかほく市。

仲介業者の人と打ち合わせが終わり、あとは頑張れと鍵だけ渡されて一人になった。少し外を歩いてみると道が広い、コンビニが一切ない、家と家の間が広い。


そして何もない。その印象だった。

しかしもう後には引けない。来たからにはここで成長して夢を叶えるんだと意気込んでいた。

翌日から出勤だったので荷解きをほどほどにこなして、自分が副店長として働くイオンへ向かった。徒歩で10分で最寄り駅。そこから徒歩で25分でイオン。通勤には自転車が必要だと悟った。

実際働く店舗は狭く、女性スタッフが二人いたので、丁寧に挨拶を交わした。それがバイトと店長だった。笑顔が素敵な気さくでいい人みたいだ。少し安堵した。

転勤先はブランドが変わってスタッフは自分以外は女性だし、お客様も100%女性だ。今までと全く違う環境。初日はオペレーションのOJTをこなしたり、バイトちゃんの指導具合など共有もらった。

バイトちゃんも働き始めてまもなかったので丁寧に教えないといけないと思って、自分の中では業務の意図なども含む様々な仕事を教えたつもりだ。

しかし、2回目の出勤時に事件は起こった。

バイトが辞めると言い出した。原因はわからない。

しかし自分が指導した翌日に辞めると言い出したもんだから、自分のせいではと当時の自分は感じた。何もなす術もなく、速攻で一人のスタッフを退職に追い込んでしまい、店舗スタッフは、自分、店長、三番手の3人体制になった。

さらに厄介なことに三番手のスタッフがかなり年上な+プライドが高い、20歳そこらの青年の言うことは聞いてくれない。

転勤してすぐに店舗の人間関係の劣悪な環境であることに気がついた。

そこから数ヶ月で
・三番手が言うことを聞いてくれない
・接客に行かない
・店長の癖が強過ぎて、意見を聞いてもらえない
など

自分の存在価値を否定されてるような気分で仕事をしていて、正直仕事の時間が苦痛すら感じていた。


そんな状況の時に見ていたとあるインスタ。

東京住まいの若い男の子のインスタ。フォロワーは1万人。フィードの世界観はオシャレなファッション、カフェ、小物の置き画。この世界観に惚れた。


その人の写真を見ていたら癒される。俺は根っからのオシャレ好きだった。東京にはもちろん憧れはあった。こんなキラキラした私生活は自分にとっては縁のない世界。現実は人間関係に苦しむ、限界サラリーマンだ。

それでも仕事がつまらないので、仕事以外で自分の楽しみを見出した。じゃなきゃ生き甲斐がないからだ。

自分も見よう見まねでその東京のインスタグラマーの写真を参考にインスタ運用を始めた。もちろんそんな上手くいくわけでもなく、それでも自分が表現できるオシャレを体現する日々が始まった。


仕事はほぼ抜け殻状態。

入社半年までキラキラしていた自分の姿のかけらはなく、なんのモチベーションもない。

出勤して適当にこなして帰宅する。ただ、それだけ。


極力他の人の迷惑にならないように指示されたら実行して、そつなくこなす。こんな日々が半年は続いた。

インスタ運用は半年経ってもフォロワーは300人ほどしか増えない。写真の雰囲気も全くそのインスタグラマーのような綺麗には撮れない。


当時のカメラロール


何もかもが上手く行かない。

ただ、オシャレが好きってこともあり撮影自体は楽しかったから続いた。投稿を落とすことなく、毎日撮り続けた。

そんなライフスタイルの中で休日アパレルショップへ立ち寄った時に、おしゃれ時計を見ていたら、ショップ店員に声をかけられた。

同い年くらいだろうか。


石川へきて友達がいない自分からするとこう言う同年代の友達が欲しかった。話していくうちにウマがあって、とっさにでた「飯いきません?」。

店員さんも「いいっすね!」と意気投合し、その日に連絡先を交換した。家も近いこともあって、近くのファミレスでお互いについて語り合った引くくらい話があって、その日に自分の家に泊まりにきて夜通し語りあった。

これが俊哉との出会いである。

この出会いで俺は一変した。

社会人2年目-成功体験による人間力の向上-

俊哉は地元石川県で服バカと言えるほど服が好きで、給料全て服にオールイン。ジリ貧な生活を送りながらも地元で楽しんでいるそういう青年だ。

時を同じくして東京のインスタグラマーの写真の雰囲気を投稿してる別の人を見つけた。それが金山大成である。

俊哉が務めてるブランドと大成が働いているブランドが系列の会社ってこともあり、俊哉と大成は顔馴染みのようだ。なんとかして大成に会って、どうやってこの綺麗な写真を撮ってるか俺は聞きたかった。

そこから大成の写真に全ていいねを送り自分をアピール。その翌日に俊哉とともに大成が働くお店に行って、自分を紹介してもらった。

前日に猛アピールしてたのもあって自分のことは認知してくれていた。当時の俺のフォロワーは700人。大成は1800人くらいだ。

大成に写真の撮り方を教えてもらって、即実践した結果、普段のいいねの3倍。フォロワー100人以上増加した。

希望が見えた。それまで自分は1年以上置き画を投稿しており、300以上のパターンでどういう写真ならいいねがたくさんもらえるかを研究していたので、そのノウハウを大成に教えた。


攻略を始めた時のカメラロール

俺はロジカルな部分を、大成は表現の部分を。二人でインスタハックして、将来一緒に東京で仕事しよう!と夢を誓った。


俊哉と大成、石川県生活が充実してきた頃

切り口が見えたのでそこからフォロワー1万人まではそう時間は掛からなかった。大成が先に1万人を達成してその翌月には俺も達成した。

本業のアパレルよりも、もはやインスタ運用が楽しくてインスタで仕事をしたいと芽生えていた。しかし、自分には夢がある。モード学園に入った時に掲げていたプレスという仕事。

今の自分は店舗の中では発言力皆無の置物副店長。でもSNSではインフルエンサーだ。当時の会社では社員数千名がいる中でも自分が一番フォロワーが多かった。この実績を使えばキャリアチェンジできるのでは?と本部へ打診したが、却下された。

絶対これから先はSNSの時代が来るってのにこの会社はバカか?と感情を抑えて自分は転職を決意した。俺を手放したことを後悔させてやる、それくらいのモチベーションだった。

会社を辞めると決意したらそれはそれで気が楽になった。しかし、自分の中でモヤモヤしていたことがある。それは逃げたことにならないか?ということだ。

店長の上司に当たるスーパーバイザーの座右の銘が「置かれた環境で結果を出せない人は、どこへ行っても結果を出せない」と語っていたのを鮮明に覚えている。

俺はSNSの実績を武器に転職することはできると考えていたが、本業はボロボロの状態だ。ここを立て直して退職するのが自分にとってプラスになると感じて、本気で店長と三番手と向き合った。

SNSで結果を出した自分の自信は、転勤当初の時の比較にならないソレだ。

副店長として何を一番大事にしたいかを決めて、自分は「売上を上げてる人が一番偉い」という数字ファーストの価値観に変えて、自分は接客を注力した。

結果もちろん店で自分が一番売り上げていた。店長や三番手は接客が苦手みたいだから、俺を頼るようになった。俺は俺で、お前らもやれと言わんばかりに感情を捨てて、理詰めするようになった。

本部から来たディスプレイの指示を俺は無視して、店舗に最適化された状態にすると店長が激怒。それに対して数字を出せばいいと一点張りの自分。そういう喧嘩が相次いだ。

俺がディスプレイを変更すると、店長がすかさずマネキンの服を着替えさせる。滑稽以外の何者でもない。着替えさせたらその後に俺がまた着替えさせる。イタチごっこみたいな状態が続いた。

それで店長がヒステリックになった。それを見ても俺には感情がない。数字を出せば会社が儲かる。店長の感情や本部の指示に従っていたら利益は出せない。俺は俺しか信用できないようになっていた。店舗の状況は過去最悪だ。

スーパーバイザーとの面談を重ね、自分は女性心理を勉強した方がいいと注意された。数字を出してるのになぜ俺は怒られなければならないのだと理不尽になったこともあった。

しかし今の状況を作ったのは自分ということもわかっていた。そこで自分は人間関係を勉強するために人事の仕事を手伝うリクルーターへの公募へ応募。同時に哲学を学んだ。

石川県は哲学の街としても有名だ。鈴木大拙、西田幾多郎など数々の偉人を生んでいる。そこで休みの日は図書館へこもって哲学や心理学を独学で勉強した。ひたすら本を読んで内省だ。

リクルーターへは採用された。
接客力、SNSでの実績を買われたのである。

リクルーターは就職を希望する学生の対応をする仕事だ。月一で東京へ出張へ行き、学生の前で会社のいいところをプレゼンする人事の犬のような仕事だ。

それでも店舗の人としか関わりがなかった自分には刺激になった。憧れの東京への毎月いけるし、仕事が楽しくなっていた。

入社3年目にはリクルーターではなく、トレーナーとして新卒社員の先輩社員役として研修のお手伝いもするようになった。自分の考えではこの仕事が終わったら転職しようと思っていた。

要は大企業で学べること、経験できることを沢山してそのスキルを持って他業種へ移動することで自分はもっと成長できると思っていたから。

先輩人事にしばかれながらも、人前で話す力、スピーチ力がみるみる向上。

心理学の勉強も並行して行なっていたので、店舗での人間関係も少しずつ良くなっていった。店長の家でタコパする仲までに。

その後店長の辞令が決まり、自動的に自分は店長に昇格した。しかし自分は辞めることを決めていたので、昇格を蹴った。そこで辞めると告白した。

辞めるまでの期間は穏やかなものだった。最悪の状況から心理学を学んで、他人は変えられないが、自分の解釈は変えられることを強く学んだし、一番刺さったのはアドラー心理学だ。

「嫌われる勇気」これは自分にとってはバイブルのような本になった。

2年半の石川県の生活で自分は最悪の状態から、自分の行動によってチャンスを掴んだ。

▼転勤当時
・友達いない、人間関係最悪、スキルなしㅤ
▼2年半後
・親友2名、人間関係良好、インスタ、思考力

人生の下積みを石川県で学んだ。

尖っていたけど、自分のやってきたことに後悔はない。むしろ真っ直ぐに人生と向き合ったと思う。

お金はなかった。インスタでマネタイズする仕方がわからないからだ。それでも写真を撮るのが楽しくて、2年以上は毎日投稿は続いた。

自分の好きを発信することが一番のノウハウだなと思う。
それは今も考え方は変わらない。

石川県で経験したこと全てを自分のコンテンツに。
この経験からエヌケンが誕生する。

社会人4年目-エヌケン誕生

石川県での暮らしで今後の人生で生きていく上での財産を得た。

それらを整理すると

・インスタ運用の知識
・人間関係を円滑に進める心理学
・対人コミュニケーション能力
・挫折を乗り越えた自信

社会人3年目を終わることには同年代の友人と比べて思考が深かったように思う。

それは話が合わないとかそういうことではなくて、相談を少し聞くと、悩んでることがすぐに分かったり、回答が的を得てるものだったから。

石川県での暮らしが一回り大人っぽくさせてくれて、ファーストキャリアの販売員は退職。転職先は兵庫県加古川に本社を構えるアパレル会社だ。

というのも転職を考えていた社会人2年目のときにモード学園時代の学科の先輩に相談していて、その先輩が勤めてる会社が新卒を採用すると聞いた時に自分も入れないか?と相談したことがきっかけだ。

その時にはインスタフォロワーは1万人はいたし、何か役にたてることがあると自分にも自信があった。その実績を買われてか、ディレクターとの面談はあっさり合格。いつから来れるかって話になり、あと一年販売員を続けて来ると約束を取り付けたのだ。

2018年の時からすでにSNS採用というのはは顔出ししていたのかもしれない。SNSの実績を見て瞬時にスキルを見切った当時のディレクターは凄腕だと自分自身も先方のことを信用していた。

そして退職してから有休消化である1ヶ月間は自分にとってライフスタイルを見つめ直す機会になった。大きいのは住まいが変わること。


石川県から関西圏への引越し。この機会に全てをやり直したいと思っていたのでどのようなライフスタイルにするか悩んだが、結論を出すまでは時間はかからなかった。

それはミニマリストになりたいという思いがあったから。

当時からミニマリストの生き方には共感していたし、しかしどこかミニマリストを貫く自信はなかった。それはミニマリストはあまりにも殺風景すぎないか?ということ。

元々おしゃれが好きな自分にとってはモノがない暮らしは難しいと考えていた。しかしミニマリスト要素を入れた自分らしい好きな暮らしなら自分の好きもミニマリストの合理的な生き方も両取りできると考えた。

シンプリストの発想はこの時点からもう脳内にあった。
後にそれをテーマで出版することになるのはそこから2年後の話だ。

さらにインスタアカウントはフォロワー数やエンゲージメントの低迷が続き、このまま続けてもいいのか?と考えてる時期でもあった。

インテリアはガラッと変わるし暮らし方も変わる。このタイミングでインテリアのインスタに移行するのもいいかもしれないと考えるようになり、市場を調べたところファッションくらい大きいことが分かり、この領域ならフォロワー100万人目指せるかもしれないと思った。

当時のファッションアカウントのコンテンツは国内ブランド(単価1~3万円)のスタイリングが中心でした。マスのニーズはもちろんユニクロがGUなどの低価格帯である。そのためそもそもの発信コンテンツがマスを取りこぼしていた。


服好きだけどハイブランドは買えないでもユニクロは安っぽく見えるし被るから嫌だ、質のいい服で個性的な服装を。当時のファッションアカウントはこんな感じのテーマ選定である。

しかしインテリアなら老若男女全年代のターゲットを狙える。圧倒的に中価格帯のファッションアカウントよりも可能性を感じて、部屋を作る過程から1K6畳の狭い部屋でもおしゃれな暮らしを体現しようと決意した。

名前も西岡健斗という名前から改名してイニシャルの頭文字のNと名前、健斗を組み合わせて「エヌケン」と命名。

顔出しなし、本名も出さず、情報だけでフォロワーを伸ばしてみせると息巻いて石川県を後に神戸に引っ越した。

1K6畳のエヌケンが誕生した部屋


文字入れ投稿を始めたきっかけ

インテリア作りは全て独学である。

ピンタレストやインスタからこんな感じの部屋を作りたいと参考例をたくさん保存して、似たアイテムを安くネットから仕入れる。この方法で泥臭く部屋を作り始めて、ベッド、ソファ、ローテーブルが揃ったタイミングでインスタ投稿を開始。

新しいアカウントで投稿すると一発目から200いいねがついた。


もちろん戦略を立てて、それがハマったのである。

どうやって初投稿でそこまでのいいね数を叩き出したかというと、一言で言えばトレンドの部屋を作ったからである。

2019年はカフェ風インテリアが大ブームでカフェ系の家アカウントはこぞってエンゲージメントが高かったのをリサーチをして知っていたので、カフェっぽい内装の部屋をDIYで作ったのだ。

賃貸の床は濃いお世辞にもオシャレとは言えない色なので、フロアタイルを敷いて床からすでにオシャレな状態に。巾木は取り付けられていたのを外して、安いソフト巾木を買って自分で張り替えた。

今のインスタ暮らし界隈のフロアタイルを発信したのは多分自分が一番初めだと思う。そのため賃貸DIYのハッシュタグからの流入がすごくて一投稿目からたくさんの人に見られて、1投稿で200人はフォロワーが伸びた。


その後もいろんな角度の部屋の写真を載せ続けフォロワー800人くらいまで伸びたところで部屋の写真のマンネリ化という問題に苛まれた。

当然1K6畳の部屋なのであらゆる角度から写真を撮ってもすぐに万策は尽きる。次に一手を考えなければいけないと思っていた時に本業でやっていたECサイトの更新業務のアイデアがチラついた。


加古川のアパレル会社は韓国から仕入れてきたデザインをOEMで量産して楽天などで販売するビジネスだ。

そのためバイヤーが服を買い付けて、買い付けた服を本社で撮影して、編集して、ECサイトに登録する仕事の流れが決まっていた。自分はその撮影と編集マンとして採用されたのである。


撮影はインスタグラマーしての資質が変われ、編集は慣れるでしょってことで一から教えてもらった。しかし幸いなことにフォトショでの業務だったので、学生時代に賞をかっさらった経験もあり、結構得意なほうだ。

業務を覚えるのにも時間はかからずすぐに一人仕事を任されていた。編集業務は撮影が上がったデータを綺麗に修正したり、洋服の色味を調整したり、楽天へ掲載する用に画像に文字を入れて商品ページをわかりやすくするものだった。


第一画像は編集を強めて、キャッチコピーでクリックされるように。第二画像は着画のイメージで雰囲気伝わるように。その後の画像も商品説明やらディテールの解説やら一商品につき画像は20枚前後作っていた。

その経験もあって、インスタ運用の投稿に文字を入れる発想はここから生まれたのである。

さらにこんな経験もあった。

ミニマリストになろうとブログを読み漁ってる時に文章ばかりもブログと文章と途中にイメージ画像が入ってる写真とでは見やすさが圧倒的に違った。

これは読者が理解できないかも?ってタイミングで書き手がこんな感じだよろ差し示すかのように入れてるに違いないと筆者の意図を汲み取ったからだ。

読者としても画像が多い方が見やすい。画像が少ないとブログは見づらいと分かっていた。

これは何もブログに限ったことじゃないし、なんなら解説する内容によっては画像の中に文字があったほうが理解しやすいのでは?と自分の中で読んでるブログをよりよくするための勝手なアドバイスもしていたくらいだ。

・他人のブログに勝手なアドバイス
・本業での文字入れ業務

この二つが重なってインスタ運用も文字を入れた方がわかりやすいと仮説を立てて、さらにオシャレな写真から実用的な情報媒体に変えて「無印良品のティッシュケース」を紹介したところ、1000いいね、4000保存を叩き出した。

ここで自分は確信した、インスタ運用の攻略は文字入れにあると。

そこからブログによくある企画を輸入するようになり、しかしコンテンツの内容は実体験ベースで発信すると8ヶ月でフォロワー10万人に到達した。


初めてマネタイズをした日

フォロワー7万人くらいの自分はここで一つ危機感に感じていたことがあった。それは収益がないことだ。

収益化に悩んでいた自分はいつも通り、Twitterに分析記録を投稿していると、とある社長からメッセージが届いた。


「インスタ教えてください(笑)」

限界サラリーマンエヌケンは「はて、なぜ俺が社長からメッセージが届くんだ?」と疑問に思っていたが、正直本業よりもインスタが楽しくなっていたのでインスタを仕事にしたいと感じていたので、マーケ会社を経営してるこの人の会社で働きたいかも?って少し思っていたのでこう返信した。

「僕を採用してください!(笑)」

すると

「DMします!」

と返信があった。

当時のTwitterフォロワーは200人くらい。社長は400人くらい。
ともに弱小も弱小のアカウントだが、これが運命の出会いとなる。


実際にDMでやり取りすると、その社長は神戸出身らしく、近々神戸に帰るからそのタイミングで会おうと打診があった。

もちろん断る理由もなく、三ノ宮にあるBAL地下のスタバで待ち合わせることに。

そこに現れたのが若干ミディアムヘアの渋谷系のイケイケの兄ちゃんだった。初対面の印象は「え、男性かい!」ですw

というのもTwitterのアイコンが女性アニメのキャラだったのでてっきり女性だと思っていたからです。何か期待はずれのような、悲しいような。

まあそれは置いといて、自分の現状を説明して、その社長の仕事も聞いてお互いについて30分くらい話した。

すると社長が「まじおもろいっすね!一緒に仕事しません?」って言ってくれて、俺なんかに何ができるのか聞いたら、インスタで商品を紹介する案件を紹介してくれた。

要はアフィリエイトやってみようぜってこと。

言われるがままに投稿を作り、実際商品を体験したコンテンツを投稿した結果、なんと1回目の投稿で80件の成果が上がり、単価7000円の商材だったので50万円以上をたった一投稿で稼いでしまったのである。

その社長もそれはすごい喜んでくれて、でも俺は半信半疑でほんまに50万くれるんか?ってことを聞いたら普通はやってないけど月末入金をしてくれて、自分の通帳には見たこともないような50万円の入金が確認された。

あの震える感覚は一生忘れないと思う。

「待って、50万、、何?が買えるんだ、、
え、てか使っていいやつやんな。。」

まじでこんな感じだった。

その体験もあってか、その社長のことを信じきってこの人の下でマーケティングを学びたいと思うようになり、正社員雇用してかいかと聞いたが、結果は今は正社員を採用していないと断られた。

あくまでも業務委託としてのドライな関わり方を向こうは求めてるのかとやや残念な気持ちになったけど、今でもめっちゃ稼げるしいいかと内心そこまで気にしていなかった。

そうしてフォロワー10万人になるまでの間もアフィリエイターとして月に100万円を切ることは無くなって貯金もみるみる増えていった。お金の勉強をしていないから使い方もよくわからず、ただただ貯金していた。

お酒が苦手、夜のお店のガヤガヤした雰囲気が苦手という生真面目な性格でよかったなと今振り返れば思います。

フォロワーが10万人に到達した時に、自分はふとこういうことを思うようになった。

「一人勝ちしていても面白くねえな。」
「もっとワクワクするコンテンツが見たい」
「そうだこの方法を世に出そう」

そう思い、noteを書くこととなる。

後にそのnoteがきっかけで大インフルエンサー時代を招くとも知らずに。。。


伝説のnote販売秘話


神戸でアパレルデザイナーとインスタグラマーの二足の草鞋を履いた自分。月収益は100万円を切らない生活が3ヶ月続いたある日、自分はこの道を極めたいと思うようになった。

アフィリエイターとしてはそこそこ上手くやっていたし、本業のデザイナー業も決して嫌いな業務ではなかった。しかし自分の好きの衝動が抑えられず、業務委託でもいいから社長のところで働きたいと申し出て、2019年11月をもってデザイナー業は退職を決意した。

自分の中で月収100万を超えていたのは誇らしい結果だったけど、正直これがずっと続くとは思っていなかったし、この稼ぎ方には再現性がないと思っていた。

だから自分は上京前に、自分が今までやってきたことをまとめて1本のnoteを書こうと決意した。元々自分もファッションYouTuberのげんじさんなどの有料noteを読んでいたので、なんとなく書きたいことは固まっていた。

「顔出しなし、本名出さず8ヶ月でフォロワー10万人までの伸ばしたインスタ運用ノウハウ」この記事を。


もちろん今までそういった記事は全く書いたことがないのでどのようにどう書こうか悩んだ。ライティングの本を買って読んで構成を考えての繰り返し。最初の休日は構成を作るのに潰れた。

ただ、構成(見出し)ができてからはスムーズだった。それは自分がやってきたことをただ順を追って書くだけだったからだ。なぜフォロワーが伸びたのか、なぜコンテンツは保存されるのか、なぜアフィリエイトで稼げたのか。

今もなお語り継がれるインスタ運用の基礎を会社員の業務が終わった後に近くのマックでずっと書いていた。執筆期間は7日。書いた文字は2万字ほど。

今ではややボリューム少ないと思うが、自分の中では最高傑作の記事が完成した。

これをどこで販売するかって話だけど、今のようにリストマーケティングの知識がなかったので、その10万人のフォロワーに対して販売することにした。

売り方はシンプル。

制作過程をひたすた毎日ストーリーズで投稿して、販売日前にはリマインダーをセット。当日は販売価格には期限があることを明記して限定生を持たせて販売。

※今も情報販売の売り方は変わっていませんが、初めは安く販売して販売部数や口コミが増えてきたら徐々に値上げする戦略です。

そうして緊張の第一回目販売日。
販売価格は990円の以上な価格。

結果は初日で700部が売れた。
反響がすごかった。


名もしれないマーケティング素人が書いたnoteが大バズりして、Twitterやマーケターの中では話題になった。

そのバズリを僕は逃さず、すかさず値上げ。これを繰り返してみるみる1000部を突破。販売価格も2980円まで伸びていた。

それでも安いととにかくたくさんの人に手をとってもらい1年後には2000部を突破するヒット作になった。

そのnoteを見て、インフルエンサーがたくさん現れて、あの時のnoteきっかけで今がありますと声をいただくことも増えた。

上京前にエヌケンという名前をSNS運用界隈に轟かせたのは自分にとっての成功体験になった。もう思い残すことはないと1年弱住んだ神戸を離れ、東京へ引っ越した。

自分にとって忘れられない鬼の下積みである神戸。この土地は一生好きだろう。今でも神戸にふと立ち寄っては積み上げた日々を思い出して初心を忘れないようにしてる自分のアナザースカイだ。



石川県で人間関係や心理学を、神戸でインスタ運用とマーケティングの基礎を学んだ。自分の人生は着実に積み上がってきてる。東京へ行ってもこの炎は燃やさず頑張ろうと誓った。

エヌケン上京-発言権を獲得する


上京して最初は白金高輪の部屋を借りた。
東京の土地勘はないので、今になればなぜここを選んだんだって感じだけど、ここでも問題がたくさん起きた。

一番大きかったのはコロナだ。

上京したのが2020年の1月だけど、2020年の2月にはコロナ騒動が起きて3月末にはロックダウンが発生した。
一番最悪のタイミングの上京である。

「弊社では数字出せない人間に発言権ないんで」

代表のこの言葉が今でも忘れられない。

仕事はインフルエンサーマーケティング業務で、インフルエンサーをDMスカウトで集めて、案件を受注してもらい、アフィ商材売ってもらうという仕事。

自分もインフルエンサーではあったけど、自分以外の業務委託メンバーはみんな一般上がり。他にメンバーは4人いた。鬼のベンチャー企業だ。

初めに課されたノルマは3ヶ月で粗利益100万円を出すというものだ。

自分で100万円稼ぐのではなくて、インフルエンサーに仕事を依頼して、その発注金額以上に売り上げを出して、さらにその利益が100万円を超えろという仕事。

正直イメージが全然できなかった。


要は1件売れたら6000円単価のものを、1件5500円報酬でインフルエンサーにお願いして、インフルエンサーが1件売ったら500円会社の儲け。みたいなことを一生やり続けるような仕事だ。

この時にアパレル時代のロジックツリーを思い出した。
売り上げを上げるには客数と客単価を掛けるしかないと。

この場合インフルエンサーに発注する依頼金額を安くして会社の儲けを増やすか、単純に稼働してくれるインフルエンサーの数を増やすかの話に置き換えられる。

そうとわかれば、アパレル時代もセット売りでとにかく単価を積むのが得意だった自分は、強いインフルエンサーをスカウトしまくって安く稼働してもらる+一人のインフルエンサーに何案件も同時に稼働するということが閃いた。

それは他にも別のメンバーがそうしていたからその手段を丸々参考にさせてもらったから、その方法が一番手っ取り早く利益を伸ばせると思った。

しかし現実問題そんな強いインフルエンサーはDM返信してくれない。自分がエヌケンであることを伝えれば反応が来るだろうが、それはチートであり、再現性がない。


何よりインフルエンサーではない他のスタッフがノルマを達成してるのだから自分にできないはずがないと本気で思っていたので、とにかく数をこなすこと、スカウトの文面を変えてみることなどあらゆる手を尽くしてスカウトに徹していた。

そんなことをしていたある日ロックダウンで出社停止命令。

会社のメンバーとのコミュニケーションが遮断されて、いよいよ自分一人でなんとかしないといけない状況に追い込まれた。

2ヶ月経っても自分の利益は15万円ちょっと。このままじゃ来月のノルマ達成はできない。しかもコロナで世間はパニックになっている。

色々考えた結果、もう俺には量しかないと悟った。
今までも積み上げで、しぶとくくらいついた結果今があると自分の積み上げ力に自信があったから。

そこで今まで一日スカウトDMの量は多くて100件ほどだったが、アカウントは7つ作成して、全アカウントから1日1000件送るようにした。

日中はYouTubeでお金の勉強をしながら、ひたすら無心でインフルエンサーを見つけてはDM送信を繰り返した。その期間にお金に関するインプットも出来たので、いい時間の使い方だったなと思う。

その圧倒的な量の結果2週間で100人近く集めることができて、そのインフルエンサーの中にはフォロワーは少ないけどファンが濃い方もいて、その人一人でその月は利益50万円近く出せた。

結果的に全体で120万円ほどの粗利益を出せて、社内でトップの成績を出すことができた

最短のノルマ達成で社内で一目置かれるようになり、インフルエンサーとしての自分とマーケターとしての自分の型が完成した。


会社員しながらも毎日投稿は落とさなかった

それからはどうやってものを売るのかをひたすらに勉強して今がある。インフルエンサーマーケティングは、ただ強いインフルエンサーを囲えばいいって話ではない。

そのインフルエンサーに合ったクリエイティブとは何か、たくさんの事例を分析して転用する仮説検証の日々が続き、インスタ投稿の分析の才能は開花した。

上京して一年後にはサブリーダーになってクリエイティブの分析のプレゼンをするように。その一年後には役員になることはまたどこかで話そうか。

インフルエンサーマーケをハックして、自分のインスタも並行して毎日投稿していたのでフォロワーは20万人を超えていた。

月収はインスタで200万を切らないように、本業ではインセンティブ含めて50万円以上はもらっていた。

お金にはもう困らないようになっていて、自分の中で次に新しいことをしたい目標が芽生えていた。それがオンラインサロンの立ち上げだ。

社長はインスタマーケで日本一をビジョンに掲げていて、俺はインスタ運用で日本一になりたいだった。お互いの夢が交差して、完成した事業がインスタ研究室だった。

インスタ研究室の誕生

2020年の夏頃、インフルエンサーマーケの仕事が順調だった自分は、自分のアカウントで自分の商品を作りたいと考えた。

インスタアフィ全盛期でしたが、自社商品の流れは今後確実に来ると予想していたからだ。アフィと自社商品のマネタイズ2本柱があればかなりキャッシュが潤う、そこで何を始めようかとマーケ会社の社長と相談日々重ねた。

暮らし領域だからD2Cか、あるいは別か。

お互いに色々意見を出し合った結果、自分が直近で打ったnoteの実績もあり、オンラインサロンをつくろうって話で決着した。

もちろんそれまでオンラインサロンに加入したこともなく、互いに知見がないため、リサーチから始まった。

オンラインサロン最大手のキンコン西野さんの「エンタメ研究所」、山本隆玄さんの「人生逃げ切りサロン」、ストックサンの「ストックサンサロン」など、ビジネス系から自己啓発まで20個ほどのサロンに加入して、どのように運営してるのか参考にさせてもらった。

全社に共通していたのがFacebookでの情報共有。
そのためFacebookでの運用が固まった。

そこからエヌケンとパートナで分業して、サロンの仕組みや管理についてはパートナー。コンテンツ生成から集客をエヌケンが担当することになった。

僕はもちろんこのようなコミュニティを作るなら、インスタ始めた頃の自分が絶対に入りたくなるようなサロンにしたかった。

そのため、まず自分がどのようなコンテンツがあれば嬉しいのか、自分はどうやて当時の自分が形成されたのか要素を思いつくだけ洗い出した。

・ロードマップ
・交流部屋
・勉強会
・細かな運用のテクニック
・コンテンツの添削

上記5つは外せないと考えて、現在でもその考えは変わっていない。

コンテンツの方向性が固まったら、次にどうやって集客するかだ。自分のメインインスタは暮らし属性がかなり多いため、いきなりインスタ運用のコミュニティを始めましたといっても正直集客はできないと思った。

だからTwitterを使って集客することに。
※当時のTwitterフォロワーは1000人程度

ローンチまでに1万人は欲しかったので、サロンコンテンツになり得る有益な発信を続けて伸ばした。

しかし2000人程度で伸び悩みが来た。

そこで当時は(今でも通用する手法)プレゼントキャンペーンでフォローリツイートで特典を配布することにした。

特典に選んだのは、なんと有料で販売したnoteだ。


僕が書いたnoteはその時までに2000部くらいは売れていて、販売価格は5000円まで上がっていた。月に100部は何もしなくても売れていたので月に50万円の自動販売機みたいなものだ。

これを僕は捨てることにした。

このくらい価値のあるものを犠牲にしないと信用と集客はできないと覚悟を決めたから。

収益源は一つ消えるが、インスタアフィの方が売れていたので大きなダメージではなかった。正直きつかったけど。。

有料noteを無料配布するキャンペーンはもちろん大バズりして、結果的に2日で3000人のフォロワー増加、公式ラインも3000人近く登録があった。

さらにTwitterの勉強のためにTwitterの有料ノートも複数購入してノウハウを勉強して、実践した結果、ローンチの11月には1万人のフォロワー獲得に成功した。

ただ、ここで皆さんに伝えたいのはこの時僕がしていたことは何もTwitterだけではない。

・インスタの毎日フィード企画更新
・ストーリー更新
・Twitterの勉強
・毎日10ツイート
・アフィクリエイティブの下書き
・サロンコンテンツ作成
・本業のインフルエンサーマーケの業務
・法人コンサル週一ミーティング
・一冊目書籍の執筆

上記だ。

今でも人生で3本指に入る忙しさ(充実感)だったと思う。

友人との時間なんてもちろんなく、毎朝5時おき、本業終わりにスタバで作業。4ヶ月ほどひたすら仕事をしていた。

しかし、サロンローンチ時期はエヌケンになってから毎日更新を止めた。さすがに限界だった。

そして、時は満ちた。

11/15、ローンチのタイミング

・入会したらすぐみれるコンテンツ
・公式ラインでの誘導文章
・Twitterでのローンチ文章
・インスタストーリーCL

準備が整って夜の19時、緊張の公開。

公開した瞬間からメールボックスがバグって、1日で700人の加入。2日目には1000人を突破。


正直、「えっ」って感想でした。

嬉しいというより、まじかって驚きの方が勝った。

500人くらいかなって思っていたのでいきなり1000
人を超えて衝撃と嬉しさと、プレッシャーが降りかかった。


それもそのはず。

今考えれば、当時のサロン価格は1000円だ。今でも3000円はえぐい値段だと思うが、当時はもっと安かった。

1000円の投資でインスタ運用が学べる場所は当時の日本にはなかった。ローンチして一瞬で日本一の会員数になったのだ。

これがインスタ研究室の始まりだ。

サロンを解体する直前まで行った話


サロンは順調に進み、集客に伸び悩んでからは一旦閉じて、時間をおいて瞬間最大風速を何度も出すプロダクトローンチ手法を採用した。

おかげで2年目には2000人以上がサロンに加入して、エヌケン=インスタオンラインサロンの人というポジションを取ることができた。

ここまで順調に来ていたが、あるタイミングで崩れた。僕がサロンを辞めるといったとある炎上事件だ。

それは4期生をを募集するタイミングの2022年10月の話だ。

退会理由にサロンが使いづらいという内容が寄せられていたので、どうしたら使いやすくなるかいろんな人に話を聞いていたところ、Slackでの運用がいいって話を聞き調べた。

結果的に、見やすいUI、仕事で使ってる人も多いってことでFacebook運用からSlackへの運用へ切り替えた。

さらに記事の管理もFacebookでリスト化するよりも、専用サイトがあった方がいいと思い、メディアを立ち上げてインスタラボが完成した。

このタイミングで一回ノウハウの整理をしようとロードマップも一から全て書き直して、動画コンテンツも増やした。

この準備期間もかなりきつかったが、2年前の全てが重なった時期に比べると大したことはなかった。そして4期生のローンチ、さらに既存会員の引越し案内を送り、インスタ研究室2世が始まった。

スラックは本当に見やすくて一目でどんなチャットがあるのかわかるので、Facebook同様添削部屋を作り、全員のアカウント見てやるぜって施策を配信した。

その結果300人から添削の依頼が来て、僕は潰れた。

添削は浅い内容ではなく、一人一人しっかり運用のコンセプトからコンテンツまでチェックしていたので、当時の僕の力では1時間で1人見れれば早い方だった。

毎日10人は添削して100人ほど添削して頭がバグった。あんなに好きだったインスタも何故か見ることも辛くなった。ほとんど毎回同じような内容を添削してるのに、コンセプトが少し違うので見せ方のアドバイスは変わる。

ポジティブに解釈すれば、今の僕の即興コンサルができるのは当時すごい量のアカウントを添削したから無意識レベルにダメ出しができるってことだ。


しかし当時の自分の思考力ではそこまでは考えられなかった。

もう月3000円のサービスのクオリティじゃない。
50万円のスクールと同じようなことをしてる。

それでも僕はエヌケンのサロンは安いのに価値がすごいって印象をつけたかったので頑張った。

でも無理だった。


完全に力不足だった。

サロン生に謝って全員は無理ですと全体送信したら、添削受けられなかった人、添削を目当てに入会してくれた人から非難が殺到した。

もちろん自分が悪いのは100も承知している。

でも心のどこかで、添削以外にもロードマップや運用のテクニックをまとめた記事が50個はあった。勉強会の参加もできる。

さらに僕の運用の裏側も公開していた。

月3000円のサービスとしては十分すぎる価値提供していたと思うのに、添削ができなくなったってだけでここまで言われるのが本当に辛かった。


サロン生のために

サロン生のためを思って

今まで頑張ってきたのに、サロン生の言葉によって僕は心を痛め、燃え尽きた。

そして俺はインスタを休み、パートナーにはサロンを辞めたいと泣きながら申し出た。

当時のことは鮮明に覚えている。

パートナーがもう少し待ってくれと、エヌケンが続けられるように仕組みを考えると言ってくれた。


その間自分はインスタを休み、気分を変えるために日本全国行脚をした。したは熊本、上は仙台へ。いろんな地方を見て回って心を癒した。

東京に戻ってパートナーから話があり、「サロンはエヌケンありきだから、エヌケンの好きなようにやればいい、添削がなくて辞めるなら受け入れよう。期待値をあげるのはやめて、エヌケンがルールを作り、エヌケンのルールに従えない人には返金して辞めてもらおう。」と言ってくれた。

その言葉に救われた。

俺がルールを作り、
俺のルールに従えない人は
お客様として受け入れない。

客をこちらで選ぶというスタイル。その考えで自分の心の中で何かが弾けて、再度立ち上がることができた。

そうしてエヌケンは復活して、そこからサロン生への感謝を伝えるべきリアルイベントであるオフ会が始まった。2023年も引き続き行い。毎年全国のサロン生と会って、感謝の気持ちを伝える。これを実行した。

年間300人近くと会って好きなインスタの話ができるオフ会は毎月の僕の楽しみでもある。オフラインで僕の添削はできなくても会ってくれたら即興でコンサルする3分コンサルも大変好評だ。

オフ会に来てくれた人ありがとう。

2周年パーティでは200人弱の人が参加してくれて大々的に交流会も開いた。

あの時やめなくてよかったと心から思う。


▼脱東京 -大阪で武者修行-

サロン内で炎上して、そこからサロン生と会ってたくさんのサロン生と会ってきたりして、順調な日々を送っていたが、自分の中で一つのモヤモヤがあった。

それが贅沢な悩みではあるが、ゲームクリアした感が強く出てしまって生き甲斐がなくなってしまったこと。

そのころはがむしゃらに何者かになろうと頑張っていた石川県の記憶や神戸時代の記憶が鮮明に蘇り、「今の自分はあの頃の自分より頑張れているのだろうか」と自分の行動に対して疑問視するようになった。

もちろんインスタは上手くいってる、サロン運営も問題なく進んでいる。友達は多いし、25歳の人生としてはこの上なく順調だったと思う。

しかし自分は18歳から行動してここまで積み上げてきたことは偶然ではなく必然であると確信していたので、今この行動できていない状況にモヤモヤしていた。

そのころの月収は500万ほど。もう十分だ。これ以上目指しても何も変わらない。足るを知りすぎている状況だ。

自分がどういう時にキラキラしていたか毎日内省して導き出された結論が「挑戦してる自分が一番好き」だった。

今の自分はインスタマーケで日本一になるという目標を叶えて、ダラダラ日々を送ってるにすぎなかった。

そんな自分は嫌いだ。

そこで決断した。


捨てよう、と


よく行ってた会員制バー

当時は芸能系やYouTuberの飲み会にも顔を出して暇を潰していた。そういう生産性のない関わりや東京で知り合った人との関わりを精算するために、東京を出ることを決意した。

26歳の誕生日、自分は東京を飛び出した。

住民票や法人の登記も丸ごと変えて、もう東京には戻らない覚悟で飛び出した。

そこから自分の武者修行が始まる。

大阪の日本橋というミナミに拠点を構え、2LDKの部屋から1Kの部屋にサイズダウン。何もかも一から始める覚悟で初心に戻った。


自分は今の月収の2倍を目指すと決意して、月に1000万円を稼ぎ出すには何が必要か考えた。その答えは単純なもので、リーチ数を増やすこととPRの投稿頻度を増やすことだった。

今まで受けてこなかった案件を受けて、その案件を売るために何ができるかを考えて、セールスも一から学び直した。


すると、3月に大阪に帰ったその月に月収1000万円は達成した。

その時に自分に呆れた。

やればできるのに、できなったのは自分がやってなかっただけって仮説が立証されたからだ。

そこからプロテイン開発事業、民泊事業を立ち上げて、勢力的に事業を立ち上げた。

大阪で一人になって余りに余った時間は全て今までやりたかったけどできなかったことに充てられた。

他にもエヌケンフォロワー同士をマッチングさせる婚活事業を立ち上げようとしてみたり、自分が欲しい服は自分で作るってコンセプトのアパレルブランドにも着手した。

婚活事業はフォロワー同士のトラブルの責任が取れないってことで撤退。アパレルの方はサンプルを取り寄せて、イメージと違いすぎて、何度もやりとりすることの工数に耐えられなくなり撤退。

両方ともかなり調べたので、ここで事業を立ち上げることの難しさを痛感した。

同時に始めた民泊事業は、インテリアの領域と趣味の旅行が掛け合わされてるので、順調に準備が進み夏終わりにオープンすることができた。

プロテイン事業も自分の理想をかなり詰め込んだので、サンプルでは納得いかず業者選定に時間がかかった。

それも大阪で一人黙々と仕事してるので、インスタ運用、サロン運営、プロテイン、民泊、その他を同時並行するのは苦ではなかった。

しかし、プロテイン試飲、民泊の視察、インテリア搬入など、東方面へ行くことが増えて、大阪に住んでるのにかなり移動も多く体調が崩しがちになったため、東京にも拠点を構えた。

目黒の方に部屋を借りて二拠点生活が始まった。

そうした行き来が増える中、大阪へ帰ってる途中に「なぜ俺は大阪に帰ってるのだろう」「東京にいた方が何かと早いのにわざわざ大阪に帰る理由はなんだろう」って考えた時に、自分の疑問を払拭できる合理的な回答が見つからなかった。

その疑問は日に日に膨らんでいくうちに、大阪ではもうすることがない。この半年でかなり成長したと自分の中で東京へ戻る理由を探し、2022年冬に大阪に部屋は解約して、東京へ戻ってきた。

1年弱と実に短い移住期間であった。

ことごとく自分は多動な人間だと思う。1年半以上同じ部屋に住んだことがほとんどない。

めんどくさい書類の手続きや家具の搬入など済ませて、1年ぶりに帰ってきた東京は変わらない景色だった。

でも自分のマインドはかなり変わった。稼ぐ力を伸ばして、事業を2つ作って帰ってきた。もう以前のように生産性のない飲み会に群れることもない。

この再上京で覚醒することになる。

仕事以外で人生の幅を広げた


・ピアノとの出会い

再上京のタイミングで毎月行ってるコーチングセッションの中で、仕事が上手くいってるなら、趣味をもっと伸ばしましょうとアドバイスがあり、ずっとやってみたかったピアノを始めることになる。

コーチの太郎さん

コーチングは本当にすごい。

いうても自分がやりたかったことに足して背中を押してくれるってだけなんだけど、常に目標設定されてるのでやる意味が見えてくる。

ピアノはストリートピアノに憧れたのも会って、世界五大陸でピアノを演奏する。昔習わせたかったと言ってた親の前で演奏するというのも目標に、完全未経験のピアノライフが始まる。

多忙な日々の中でも毎日10分でも弾くようにしたり、オフ会で出張した際には近くにストリートピアノがないかを探しては弾いた。

ピアノ初めてから半年で一曲弾けるようになって、沖縄で演奏した時にギャラリーから初めて拍手をいただけた。自分の中では超がつくほどの成功体験だ。

たまたま自分の視聴者だったピアノYouTuberのアンジーと出会い、個別でレッスンをしてもらった。


そうしてアンジーと個別レッスンしてる中で、年末に発表会企画するから参加してみないか?とお誘いを受けた。

ピアノを始めてまだ1年経ってないのに発表会は正直自分には難しいと思った。

だからこそ、ぜひ出たいと申し出た。

やらざるを得ない状況にしてこそ、自分の真の力が出るって確信したからだ。僕はそれまで弾いていた戦場のメリークリスマスの中級楽譜から、上級楽譜へテーマ曲を変更して、そこから猛練習の日々が始まった。

自宅でも練習したし、時には本物の音が聞きたくてスタジオノアを借りてグランドピアノでも練習した。


そうして迎えた本番の2023年11月中旬。

緊張感漂う中、自分の出番が回ってきて深呼吸。

大好きな曲をたくさんの人に聴いてもらえる機会。

それまでもたくさん練習してきた。

会社経営、インスタなど自分はたくさんのことを複数やりながら今ここに立っている。

ここでバチっと決めたら超かっこいいぞと未来の自分を妄想しながら鍵盤を弾き始めた。


苦手なパートもクリアして、ラストサビもイメージしてる通り指が動き、なんとミスタッチ0で弾き切った。

今までの練習でもミスタッチはかなり多かった、でも本番では全くなく自分史上最高の演奏ができた。

そうしてたくさんの拍手をいただいてる時に思ったことがある。

「一旦ピアノは卒業しよう」と。

最終目標は世界で弾くことと、母に聞かせることだ。

その目標は半分叶えていて、半分未達成だ。

このまま母に聞かせる機会を作らずだらだら続けるなら、継続しなくなって辞めるより、最高の演奏の後にキッパリ辞める方が潔いと思ったからだ。

完全に辞めるわけじゃない、辞めた後もピアノがあれば弾くし、自分の指が覚えてる限りこの先一生ピアノは弾きたいと思う。

ただ、24時間毎日の時間が決まってる中で、ピアノに割いていた時間を他にことに充てようと考えたのだ。

そうして最高の演奏をしてピアノを卒業して、自分が使っていたピアノは3人の子供を持つフォロワーさんにプレゼントしたとさ。

その後の話だけど、2024年3月末の家族旅行にて母に演奏を聞かせて、目標は達成しました。


自分の家を買う

2022年1月ごろにジェレミーさんというインフルエンサー/不動産投資家と出会い、「日本でお金借りない人は情弱だよ」と言われた。

なぜそうなるんだろうと自分の中で調べまくって、自分も借りれる与信を使ってお金を借りたいと考えるようになった。

そこから不動産の勉強を始めようと本10冊くらい、YouTube100時間くらい、不動産投資家に会いに行って話を聞いたり、実際中古マンションの内見行ったりと、自分が今まで知らなかった世界を勉強し始めた。

「確かに家賃はもったいない
払ってる家賃が資産になるなら
持ち家という選択肢もありだ」

気づけばこのような考えに変わり、自分の家を本気で探し始めた2023年1月ごろ。ちょうど再上京した頃だ。

不動産の勉強したこともあって、都内の相場や割安マンションの見つけ方は熟知していた。あとは見つけて買うだけ。

しかしそんな条件のいい物件はなかなか出てこない。

探してるサイトはみんながアクセスできるSUUMOやat homeだから、同じように探してる人は何万と存在してるからだ。

ある日毎日見ていた物件が100万円値下げされたことに気がついた。

その物件の売買履歴を見てみてると、媒体に掲載してから実に500万円も値下げしてることに気がついた。

これは早く売りたいって証拠の現れだろうと、100万円値下がったタイミングで仲介業者へ連絡して、内見させてもらうことになった。

実際の内見

立地、ビュー、広さ申し分なかった。

この家をリフォームして最高の部屋を作りたいと心が躍り、そこから指値(希望金額)を入れて買付申し込みをした結果、100万円の値下げに交渉に成功して、最終売り出し価格よりも600万円ほど安く購入することに成功した。

不動産の勉強してる最中に知り合ったリノベ業者様との打ち合わせを重ね、2023年12月に我が城が完成した。今も現在住んでいる最高の部屋です。

勉強と行動とセンスで作り上げた自分の集大成のような部屋です。部屋がこうも変わると自分の価値観も一歩次元の違うものに変わる。

スケルトンへ
間柱
竣工

賃貸でできなかったことが全て叶った。理想の家です。

家本体とリノベ合わせてトータル8000万超えの大きな買い物だったけど、自分の手出しは1000万近くだし、ローンの金利は0%台。

この家の立地なら上がることはあっても落ちることはない。負けのない実需を手に入れて、底堅い資産を手に入れた。


奮闘記はハイライトに全て掲載しています

トライアスロンへの挑戦

2023年9月ごろ、自分がプロデュースしたプロテインの試飲イベントを開催していた時に、休憩中に会社の後輩から急に
「トライアスロンでましょう!」と気合の入った声で誘いがあった。

その時の自分の状況を整理すると

・プロテインローンチして間もない
・サロン6期生の募集を控えていた
・新事業でインスタ顧問を始めていた
・インスタ運用ではストーリーズの勉強をしていた
・民泊は3.4棟目の準備をしていた
・ピアノ発表会前で練習のピークだった

控えめに言って、そんな時間はない。

しかし俺は少し考えて「でますか!」と快諾。

理由としては

①やったことないし面白そうだったから。

このスケジュールの中でトライアスロン練習して完走したら、時間がないって言ってる人の言い訳潰せるっしょって、

②自ら時間がないは言い訳だ論を体現したかったから。

動機がもはやストイックのそれでしかないなと改めて思う。

色々並行してる中で一番ネックだったスイムだけは絶対に克服しなければならなかった。

10月より本格的に練習が始まり、週に2回トライアスロンに特化したスイミングスクールを見つけて即契約。


初めこそ100メートル泳ぐだけでもうしんどくて吐きそうだった。周り全員が強いのに自分だけしんどいって状況が悔しかった。

スイミングスクールでの奮闘記はハイライトにまとめてるので詳しくはそこをみてもらいたい。

自分はスイミングスクールとは別にコーチにもついてもらった。

理由はスポーツの領域もそもそも初めての挑戦だから、このスケジュールの中で完走するには効率のいい練習が必要だと感じたからだ。

インスタトライアスロンのコーチになってくれる人を募ったところ、5名から連絡が来て、その中で一名ガチのプロの方から連絡をいただいた。それが内田選手だ。


現役プロに教えてもらえるなら願ったり叶ったりってことで早速お願いして、スイムでフォームを見てもらったり、トレーニングメニューを考えていただいたり、大変よく管理してもらった。

時に千葉の海へ行って、実践の練習をしたことも。

一人だと本気で死ぬ可能性があるので、プロがそばについてくれるととても安心して、練習に励める。こういうお金の使い方は非常に有意義だと思った。

そうして本番の4/21。





完走しました!

スイムは一番練習していたので、かなりペースも良く楽しみながら泳げた。

バイクは40kmを今まで通しで練習したことがなかったので、正直こんなに長いのかと驚愕しましたが、これもなんとか苦しみながらも乗り越えました。

最後のランニングはもう足が動かなくて、歩いたり走ったりを繰り返して悲願の完走です。


半年前は完走できるビジョンは見えなかったけれど、準備を重ねて挑戦したことで現状の自分を乗り越えることができました。本当に嬉しい!!!


DM200件以上はいただきました。


たくさんの応援DM嬉しかった。

自分が挑戦してることでフォロワーさんの背中を押してるんだと思うと余計に頑張れた。


今は無理。
未来は自分次第

最近は挑戦する前にこの言葉を自分の中では大事にしています。


スポーツ未経験だし、半年前は100mも泳げなかった。
会社を2つ経営しながらさまざまな事業展開している。

時間はないと言ってもいいレベルのスケジュールの中でも、計画的にトレーニングをこなし、継続した結果が今なんだと書いていて思います。


できるかできないかじゃない。
やろうとするかしないかの差だと。

本当に半年間色々犠牲にしたけど、完走できてよかったと思う。




ストーリーズの研究レポート

上記以外にもちゃんと仕事はもちろんしてます笑

全て同時進行です。完全に覚醒していた。

2021年の初めにジュレミーさんと出会ってからストーリーズがアカウントの影響力の底上げに一番繋がってるのではないか?と仮説立てて、ストーリーズ運用が上手いジェレミーさんを徹底的にモデリングしてストーリーの研究が始まった

文章がいいのか、構成がいいのか、イメーじしやすいビジュアルがいいのか、あらゆる観点から心理学や行動経済学などの視点を入れて分析して、自分のアカウントでも実践。

実に1年で5000ストーリーは配信して、傾向が見えてきた。

ストーリーズ運用はとにかく信用が大事であること、その人経由どれだけgiveされたかが大事であること、あとは何よりも情報に価値があるかどうかであること。

それらを見やすくデザインして、伝わる構成に直すこと。

考えることがフィードやリール以上に複雑で、そりゃ誰も攻略できないよな、、と思いつつも自分はインスタの王なんて言われてるから、この情報を公開するのも使命だろうと考えて筆をとった。

正直このノウハウを公開しなけれなストーリーズの分野で完全に一人勝ちできただろうと思う。でもそれだと経済が回らない。

自分きっかけで文字入れ運用が流行ったように、この自分のレポートからストーリーに悩む人を無くしたい、本気でそう思って執筆期間に1ヶ月以上かけて完成したストーリーズ運用の教科書。

たくさんの人に読んでもらいたかったけど、運用初心者が間違っても買わないように販売価格は3万円以上とたかく設定した。

これは中級者以上が読むべきものだから。

そうして自分が知ってるマーケ知識を全てぶち込んで、販売した結果、1ヶ月で5000万円以上売り上げました。

月収500万円でもう十分だって満足していた1年半前。

その頃の自分から1.5年で10倍の売り上げを出す実力まで自分は成長していた。

かなり後発 でインスタ運用の教材を出したのにも関わらずこの数字に業界がざわついたし、何よりも運用ノウハウがもちろんみんな知らない概念ばかりなので、賞賛の嵐だった。

その後に、ストーリーズ講座も開き合計10名の方に受講いただいた。マンツーマンでエヌケンがストーリーズ指導するってものだ。


そうして今まで以上にDMが来るようになった人や売り上げを爆発的に伸ばした人を増やしつつ、運営しています。


終わりに


今もインスタ運用の研究を続けています。

これから新時代が来そうなので、面白いことを仕込んでいます。

僕の挑戦はまだまだ終わらない。

何度も言うけれど、

挑戦してる自分が一番好きだし、
何かを達成した時のレベルアップ感が
たまらなく、それが生き甲斐です。

すげえ人生楽しんでるなって感じ自分でも思います笑


長々と僕の10年間を読んでくれて、ありがとうございます。

ここまで読んだらもうわかると思いますが、自分は凡人の頃の自分が見たら十分に成功してからも、驕らずに積み上げました。

新しい領域も初めから無理だと決めつけずにまずは行動してみるし、それで無理ってなかったことは少なくともここ数年間はないと思います。

できない理由を潰して、できる理由を考える。

目標が必要なら目標を達成した先の自分を想像して動く。

そういった

盲信して妄信した結果が現在の僕を作っています。

盲信と猛進

これは根拠はないけど、自分にはできると信じて進む力と、進んだら成功するまで動き続ける力だと解釈しています。

その猛進する過程でも

思考力と試行力と志向力

これらを積み上げることだけは意識していました。

・思考力:改善するために考える力

・試行力:リスクリターンを考え試す力

・志向力:目標を設定する力

まとめると、

根拠はないけど、とりあえず動いてみて、そこから改善を重ねて成功するビジョンを描き、目標達成まで動く力。

これら複合して「行動力」と言うのだろうと10年かけて知りました。


最高の10年だった。

この先10年でどんな自分になるのか今から楽しみだけど、この先の10年を作るのは今日の僕の行動に全てかかってるので、驕らず積み上げたいと思います。



お知らせ

サロン7 期生の募集が4/24~28日の5日間で行われます。

入会はここから24日朝8時からスタートです。


それを記念してエヌケンがスピーカーの無料セミナーを開催します!
ここでは普段では絶対有料のチケットを販売しないと語らない内容を話します。


ここまで読んだ方へのプレゼントのようなものです。


よかったら参加してください。

インスタ運用初心者向けセミナー
「まず何から始めたらええねん」


インフルエンサー向けセミナー
「影響力どうやって伸ばすねん」


※参加資格はフォロワー1万人以上、月売上10万円以上


アーカイブなし。
サロン生になれば後日視聴可能です。


僕はこれからも自分の人生を変えたインスタというゲームを遊び、ハックし続け、その情報を皆様にシェアすることを誓います。


僕の人生まだまだこっからっす!!


ログインしなくてもいいね押せるので、
読んだらぜひ皆様の1いいね!をよろしくお願い致します。


エヌケン