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制作ひとりごと日記 降りてくる日に

今日は、なんだかいろんなことを言ってほしいらしい。わたしの頭の中で、いろんな言葉が降り注いでくる。特別なようで、大したことではない。そんなことは、誰でもあることだと思う。そうやって解釈するかどうかだ。スピリチュアルとは、信じる信じないではなく、面白いと思えるかどうかだと思っている。

最近は、インプットとアウトプットが追いついていない。実際にやりたいことの半分以下のペースで、物事が進んでいく。ジリジリとするのだけれど、しょうがない。寒さも相まって、体と頭が思うようには働かないらしい。

最近は、本が作れないな、と言う感覚があった。アイスランドの旅から帰ってきて、しばらく経つ。かなり発酵させたし、そろそろ、と思って作ろうとしたし、実際に作ったものもある。だけれども、わたしが思い描いていたような本は、作れていない。とりあえず保留しておくことにした。今はそのターンじゃない。

「今を大切にする」人にとって、「今じゃない」は、「じゃあいつなの?今でしょ」と変換されていく。そんな時があった。今を大切にするのは同意するが、果報は寝て待て、とあるように、じっと時を待つこともまた大切だと思う。いつかパッと思いが弾けたならば、作るまでもなく、その瞬間に既に完成しているだろう。

話を戻そう。作れなくなった要因は、わたしの本を作る意味が変化していることが関係していると思う。昔は「自分を証明したい」一心で作ろうとしていた。そして、ある人から言われたように「癒す」ために作っていたのだと思う。その人は、とても美しい本を「200年後の人に向けて作っている」と書いていた。

その人の思いがわたしに引っかかる。じゃあわたしは、なんなのだろう。

昔から自分のために作っていたつもりだが、結局、自分を他者に証明するため、言うなれば外にベクトルが向いていたのかもしれない。本は伝えるもの。ある先生は、伝えたいことがあるんだね、とわたしに言ってくれたけれど、あまりそう言う気持ちで作っていなかった。いや、無意識にあったのかもしれない。後付けになるが、伝えたいことは、自分が自分である、とちゃんと他者に、そして自分に言うことだったのだと思う。今も、わたしがここにいる、わたしがわたしである、と言うことは伝え続けたいと思う。結局その渇きでわたしは何かを製作するのかもしれない。

何かと何かがわたしの前でぶつかった時ーそれが何かが生まれる時なのだと思う。わたしが、ではなく、わたしを通した何かが、であって、自分のもののようで、別に自分ではない。たまたまの偶然が生み出した一つなのだと。その原動力が、渇きだったり、切ない気持ちへの癒しや埋める作業だった。今は、それを癒す作業があまり必要でなくなり、もっと違う思いで制作に向かえるかもしれない。急流の中で刺激に塗れなくても、穏やかな流れの中で、そのぶつかりを感じていられるかもしれない。

今浮かんでいるのは、スクラップブックだ。好きなように、好きなだけ。気ままにぐちゃぐちゃと描いたり、切ったり、貼ったり。とりあえず、ありのまま作ってみようと思う。

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