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「推し活」ってなんだよ2024

GW。
みんなが楽しく過ごしている、あるいは楽しく過ごしている人を横目に、仕事をがんばっている人がいる中、私は一人ぼっちで座敷牢に閉じ込められ、部屋の隅にあった薄い文庫本を読もうかどうしようか悩んでいるだけだ。

そこでふと「そういえば『推し活』って言葉があったな」と思い「推し活」で検索してみた。
すると「推し活をすると楽しいですよ~」みたいな解説のテキストがいくつか出てくる。
そのこと自体に驚いた。

えっ、そんなところから解説しているのか、と。

「推し活」って言ったら検索する前から「推しを推す活動」だとわかる。

子供同士の喧嘩、見らんでもわかる。(by 本部以蔵)

そんな解説がわざわざ載っているということは、「推し活」をしてほしい人たちがいるわけで、なんでしてほしいかというと「推し活」によって儲かる人がいるからである。
ま、これも当たり前か。

GWでとくに楽しいこともないので個人的見解を書いておくと、
「推し活」という新しい言葉をつくって、単なる「ファン活動」を盛り上げようとする、すなわち「消費行動を活性化させる」意図が感じられる。

私からすると「推し活」とは、
たとえば大好きなミュージシャンがいたとする。CDやら配信される楽曲やらを、好きだから買っている。
でも今回の新曲はイマイチだな、金を出す気にならんなー、と思ったときに、
「それでも買う」
のが推し活である。

なぜなら、凡庸な楽曲でもそれを「推し活実行者」がファンとして買えば、推しが、うるおうからである。

果たしてこのことが消費行動として健全かどうかは、今一度、検討した方がいい。

これは「コレクションのコンプリート」という、昔からある、一般的な消費行動とはちょっと違うところにある消費スタイルに通じる。

「コレクションをコンプリートする」ということは、
「作品としてたいしたことないものでも、コレクションを完璧なものにするために買う」
ことだからだ。

古いたとえだが、私の場合で言うと、リアルタイムでマンガ「北斗の拳」のジャンプコミックスを買い続けていたが、ラオウが死んでからの展開はあまり面白くなかった。
しかし「北斗の拳」が好きだから、ラオウの死後も読み続けた。単行本も買った。
これが今で言う「推し活」だろう。

通常のファンは、長編マンガの展開が好みでなくなったらその時点で離れていく。それはファンの自由なのだ。
だが「推し活」というのは「自分が推している作品や作者のために、奉仕的に消費する」ということだ。
だって自分が面白いと思っていないのに、単行本を買い続けることなんだから。
(いちおう「北斗の拳」について言っておくと、「ラオウの死後」も観るべきところがまったくないわけではない。)

この「推し活」は、現在では「推しのために」というファンの滅私奉公的な意味合いがある。
これは60~80年代には「酔狂」、「物好き」として解釈されていた。

たとえば「ウルトラマン」が大好きだとして、ウルトラマンとたいして関連性がないが、ウルトラマン人気を当て込んで「ウルトラマン・星占いブック」という本が出たとする(架空のものです)。
そういうのまでわざわざ買うのが、おたくであり、コレクターであるとされていた。
ファンの間でも「えー、あれ買ったの!? よくやるなー」という消費行動である。

これが「推し活」に変換されると、いかにも一般的で当たり前な消費行動のように思える。
ま、言葉のマジックですね。

コンテンツの制作者サイドにしてみれば、イマイチな関連作品、スピンアウト作品、便乗作品などに惜しげもなく金を出してくれる都合のいい消費者が「推し活実践者」ということになりますよ。

「推し活は精神衛生にいい、生活に張りが出る」みたいな言説も一時期よく耳にしたが、「普段の生活が物足りないから、推し活でもやってみようか」とか思って行う消費が、本当に当人にとっていいのかどうかは、あらためて考え直す必要があると思う。

っていうかまあ、私は「推し活」をめぐる言説は一片たりとも信用してないんですけどね。

だいたい、おれらは表舞台に立つ人間を、ただただ応援する立場に甘んじないといけないんだよ!?
まず考えるのはそこからだろ。

おれらは新興宗教の盲目的な信者でもないし、「お上(かみ)」にひれふす江戸時代の貧農でもない。
もちろん、制作者サイドのお財布でもない。
一人の意志を持った人間なのだ。

他に大事なことはたくさんある。
それはみなさん一人ひとりが見つけてください。

そして私の言うことに賛同したら、私のオンラインサロンに入ってください(ウソです、そのような予定はありません)

おしまい


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