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北海道一周のゴール直前の大噴火 その2

21年前の今日、北海道の洞爺湖温泉の近くに居ました。北海道一周のツーリング中。苫小牧について、ゴールをむかえようとするとき、とある理由から足止めされたのでした。その日のメモを公開します。その2です。
※寅さん=スーパーカブ  #日本一周   #有珠山噴火

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スパゲッティを茹でていたら噴火

3/31金 曇り(虻田・礼文華)
きのう早く寝てしまって朝は6時前には目が覚めた。
目の前の施設だがふるさとの丘とかいう高齢者用の介護施設らしい。今は高齢者と子どものための避難所になっている。

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山は昨日に比べたら煙の量がいささか増えているような気がした。確実に噴火が近づいているのかもしれない。でもそれがいつかはわからない。昨日焚いた残ったご飯で梅茶漬け。洗わずに焚いたしから臭いし、ガスの火力が弱かったから芯が残っていておいしくない。

施設に入って「食器を洗わせていただきたいのですが」とお願いする。藤子不二雄の漫画に出てくる小池さんのようなモジャモジャ頭の故林家三平のような顔つきの腰の低い初老の男性が対応してくれた。
「外で寝られたんですよね。寒くなかったですか。どうぞ中で休んでいってください」と気遣っていただく。

中に入ると、入って横の鏡には「一般の人→○○小学校」などと避難所の案内がしてある。施設内はお年寄りがベッドに寝ていて、すでに起き出している人もいた。

トイレをし食器を洗い、昨日の夕刊と今日の朝刊を読ませていただく。トップはいずれも有珠山が噴火の兆候をしめしているってことだ。

どうやら噴火したら23年ぶりのことらしい。

施設内、テレビもついていたがやはり噴火のニュースを写している。テレビを見ているとソファで寝ていた男が起き上がる。ここの職員だ。噴火起こってから収束するまで長引くだろうからこれからが大変だろうなあ。

それにしてもいつ噴火するんだろう。噴火しそうで噴火しないって状態がずっと続くかもしれない。そしたら俺は苫小牧へ行くタイミングを逃してしまうかもしれない。

日記を書くため電源のある施設へ。日記を書こうとするも噴火が近いからか落着かなくて書けない。そして昼ご飯にさっきのもじゃもじゃさんに誘われる。
「ご一緒にどうですか」

よそ者だもん。それにもし食べたらなんだか食事の時間を待ち構えてたみたいでみみっちい。だから辞退し、テントの中でスパゲティを作って食べることにした。

その間に白い煙は確実に大きくなってきていた。しかしそれもいったんまた小さくなり、また大きく煙を上げる。そんな繰り返しを何度も続ける。

地震は昨日のような数分ごとってのはなくなり、思い出したようにたまにある程度だった。地震の少なさもある、安全なところに逃げているってこともある。昨日の夜のような緊張感はまるでない。

それどころか、「あーあ早く爆発してくれないかな。退屈だよ」とつぶやいてしまう。
でも俺だけではなかった。
地元の人も同じようなことを言っている人もいたのだ。
「グズグズしてないで早く噴火してくんないかな。その方がせいせいするよ」

噴火は急だった。
火力が弱いので茹で上がるのに30分以上かかったスパゲティ。さあやっと食べるか、と箸を手にした瞬間だ。時間は13時10分すぎだった。色はグレー。細かい皺が細胞分裂するかのように音もなく黙々とドンドンと大きくなった。しかし最初はそれが噴火だとは気づかなかった。

検問の奥

そのちょっと前から白い煙の勢いがドンドンと勢いを増していた。しかしそのときはあくまで白い煙だけ。いったん煙が小さくなったりして、また勢いよく白く煙る。その繰り返しがさっきから何度も続いていたので白い煙が大きくなってもさして驚かなかった。噴火は地鳴りとかの音が伴ったり、火山弾やマグマが飛び散ったりするもんだと先入観があったからグレーの煙もその白い煙の延長戦上だと思い込んでいた。だから最初の5分ぐらいは噴火に気づかなかったのだ。

しかし周りは噴火したと叫んでいるし、グレーの煙が見る見る煙が大きくなっていくのでこれは間違いないと俺も気がついた。スパゲティをさっとかき込むと俺はすぐさま寅さんで丘を降りた。

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逆方向は避難の車で渋滞している。5分ぐらいかかり市街の入り口当たりに差し掛かると警官の検問。周りは騒然としていた。西へと火山から離れる方向へと車が渋滞し、救急車や消防車がサイレンをながしながら行き交い、空には報道などのヘリコプターや飛行機が何台も浮かびエンジン音をやかましくならせていた。また家の外から、または中から窓越しに多くの人が噴火を凝視している。避難しようと車で準備する人、とにかく誰もが蜘蛛の子を散らすように火山に振り回されていた。

検問で半分はったりで「取材なんですが、通してもらえますか」と通す。
「駄目駄目、誰も通せません」と警官。

寅さんを路肩に起きっぱなしにして、歩く。37号線を背にして北側の鉄道の線路へ。踏み切りを越えたところで東方向の有珠山の方向へと右折。数分歩いて洞爺駅の裏の虻田町役場、その横の小学校のエリアに到着。

小学校には取材陣が集結していた。
パラボラアンテナのついたNHKの中継車がすでにそこに停まっていて、テレビ局のカメラもいくつか並んでいたし、朝日新聞や北海道新聞の記者やカメラマンが入り乱れていて、校庭から火山を見上げる人にしきりにインタビューを試みていた。

煙は噴火直後よりも大きくなっていた。数え切れないぐらい細かい皺を持つグレーの煙はねずみ算式に相変らず音もなく増殖を繰り返し空を埋め尽くさんとしていた。その勢いに唖然とし煙を凝視してしまい、撮影に力が入らなくなった。途切れ途切れに数枚撮っただけだった。音はなかったが煙の勢いだけでじゅうぶん自然の力を思い知った。

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旅行者なのに避難を指示される

寅さんでふるさとの丘に戻ったとたん、急に雨が降ってきた。と同時に施設の前は被災者を運ぶバスで埋まつつあり、俺はテントの撤収を迫られた。もじゃもじゃさんが
「悪いけど撤収したら豊浦に避難してくれないかな」
どうやらこの施設自体から全員避難してしまうのかもしれない。

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俺は噴火の直後に立ち会えたことでもうここにとどまっている気はなくなった。いれば警察やら役所の人たちに迷惑かけるかもしれないし、なるべく早く苫小牧に到着したいし、ここはさっさと立ち去ろう。

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寅さんとともに37号線を引き返す。道は案の定、避難の車で渋滞していてノロノロ運転。バイクは関係ないが。
知人の今Pカメラマンから電話がかかる。震災カメラマン。加藤さんに噴火の直後を撮ったことを聞きつけてかけてきたのだろう。災害写真で名を上げつつある彼女のことだ。撮りに来たくて仕方ないようだ。
しかし頭の中が噴火の現場の雰囲気でやられて興奮し、何を話したのかよく覚えていない。「噴火撮ったよ」「いいわね。売れるかもしれないわね。よかった」とかその程度の話だろう。

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一先ず、避難所へ。
礼文華は虻田町から30kmぐらいの西のところ。そこの小学校の体育館。

17時ごろ。毛布やかばんをを持った被災者が続々と入ってくる。
入り口で共同通信のカメラマン。ニコンの1眼レフデジカメD1を首から下げている。そうか、新聞はスピード勝負だもんな。

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避難所には足を伸ばすスペースもないぐらい人がひしめき合っていた。神戸のときのような沈みきったようなムードはない。家がつぶれたわけではないのでまだ避難初日ってこともあって被災者もまだ元気だ。ま、それに23年前の噴火の経験があるからかな。

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しかし驚いたのは避難所に住職がいたことだ。
しばらくしてその住職のいる体育館の少し奥、中央付近へ行く。
伊達の名寺、○○増上寺の住職と副住職。
「寺の住職が変わるたびに有珠は噴火するんですよ。でも今回は少し早かったですけどな」

噴火のおととい亡くなった人の葬式のため伊達の避難所から虻田までかけつけたらしい。昨日お通夜、そして今日葬式。そして式がすべて終り切らないうちに噴火が始まったのだそうだ。それでもなんとか火葬まではできたそうだ。
それにしても噴火が近いというのに葬式のため出向いたとはなんと徳の高いお坊さんなんだろう。尊敬する。

昔はアイヌ語でお経、樺太にいたときはロシア語でお経を唱えたそうだ。そのことをなんども言われた。

「おとといおじいちゃん亡くなったんですけど無理言って来てもらったんですよ」と上品な初老の奥さん。
「大丈夫、おじいちゃんが見守ってくれてるよ」とはだんなさん。

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おじいちゃんを亡くした一家はその塚本さん夫婦。そして息子夫婦(嫁は69年9月生まれの僕と同い年、息子さんは70年4月以降生まれの俺よりひとつ下)。春雨工場を経営しているらしい。そしてその会社の社員のおばさん。

住職二人はじきに苫小牧方向へと車で向かっていった。住職と話したくてたまたまここに来ただけだ。住職が出るのと一緒に出てもよかったが外は雨降っているし、勾配のきつい道なのだ。しかもどこに泊るか考えが浮かばなかったのでここに泊まらせてもらうことにした。

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住職がいなくなったあと、
「ここで知り合ったのも何かの縁です。さあ食べてくださいよ」とそうお菓子を勧められた。このころには別の避難所が用意されたとのことで少しスペースが広がった。(翌日ここにいるのは265人とわかった)。

こんなときにのこのこと旅しにきたことに、嫌がられるかとおもったが、特別扱いもなく迎え入れてくれたのだ。
「これも良い経験よね」とは奥さんが言うものの、
「ここ二日間地震でほとんど寝ていない」というから疲れているのだろう。話している分には明るいが、会話が途切れフッと気を抜いた瞬間、とてつもない絶望の表情になる。これは大なり小なり誰も同じ傾向が見て取れた。

「春雨のドライヤーかけっぱなしだけどもうもどれないもんな。ボソボソでもう売り物にならないよな」
「工場つぶれたらつぶれたで頑張るしかないな」

だんなさんが以前の噴火についての思い出を話すかわりに俺は神戸の震災の避難所での様子を話した。
「あのときは噴火が始まって灰がガンガン降ってきても避難勧告なんてなかったから灰の降る中みんな生活してたよ」
「灰ってね水を含むとセメントみたいに固くなるし、そうでなくても重みで屋根が落ちたり車のガラスが割れたりする。灰の中車走ったらボロボロになるよ」
「あのときは夏だったけど、灰の重さでこんな太い木が折れたんだよ」

一方で俺は神戸の話。
「直後から神戸にいたんですけど、宗教団体が布教のためにいろいろ入り乱れてましたよ」などと。

それにしても何もすることがない。テレビもラジオもないから情報が全く入ってこないのだ。参った。時間が遅々として進まない。

「トランプでもしたいわね」と奥さん。

役所の人の呼びかけで自治組織が作られることになった。
「食べ物配るのを私たち二人ではとてもまかないきれません。申し訳ないんですが、皆さん助けていただけないでしょうか」

パチパチ、と暖かい拍手。館内が一つになった。
夕食はたしか20時ごろ。自衛隊の炊き出しした白飯にふりかけがかかっただけのもの。その前後に菓子パンがいくつか配給されたが。急遽ここが使われることになったから準備が出来てないとはいえ、ちょっとこれはひどい。

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役所の人は少ない人数で休むことなく頑張っている。スピーカーつきのメガフォンでいろいろ連絡するもよく聞こえない。でも連絡事項は人呼ぶときに放送室使えるんだから、せっかくだから使えばいいのにな。でも本当によく頑張っている。頑張れ。

寝るときは体育館の照明の半分が消えただけ。昨日寝過ぎたこともあるし明るいので、床はカーペットに塚本さんに貸してもらった座布団を枕にして自衛隊の配給らしき緑色の毛布に包まって寝ころがるがなかなか眠れない。

そこで廊下に作られた仮設無料電話を使ってインターネット。ジャニーズにスカウトされたという16才の高校生と話す。

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やはり地震であまり寝てないという。噴火については不安になった。どきどきしたそうだ。
「当てもなく長電話するのって楽しいですよね」

深夜1時をすぎても彼は電話を続けていた。
毛布に包まって寝転んで無理矢理寝た。でもこんな生活毎日続くのは辛すぎる。これからが大変だ。噴火がすぐにおさまりますように。

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