スポーツ観戦について思うこと


私はスポーツ観戦が好きだ。
自分がやるのはそこまで好きじゃない。というか全然やらない。スポーツをするために着替えるのも、体を動かすのも、汗をかくのも、上手くなるように練習するのも、ぜんぶ億劫に感じてしまう。私にとってのスポーツは、体育の時間にやらされるもの。なんとなく子どもの時から馴染みのないものだった。
泳げないし、逆上がりも、二重跳びもできないし、50メートル走は11秒台だし、体育の種目としては比較的好きだったマラソンも真ん中より少し遅いくらい。それで、悔しいとも、嬉しいとも思わない。
私は自分でやるスポーツには、全然興味がない。


だけど、観戦するのは好きだ。
好きになったのだ。
大人になってから。


スポーツを、やるのも観るのも好きな人と結婚して、隣で「ふうん」と観るようになって、気付いたらいつの間にかスポーツ観戦が大好きになっていた。
家族でご飯を食べて、子どもを寝かせ、寝室をそっと抜け出したら、夫婦でビールを飲みながらテレビでスポーツ観戦するのが日課だ。ほぼ毎日、何かしらのスポーツを観ている。
夫は陸上部だったし、ずっとスポーツ観戦が好きな人だったので、私よりもスポーツをみる目が養われていて、私のわからないところで「あ」とか「お」とか言う。それが適当に言ってる訳ではない事を証明するかのようにテレビの解説者も「あ」とか「お」とか言っている。
それをみて私は「ふうん」と思う。自分に見えないものがあるんだな、と思う。


昔、何かのテレビで、シンバル奏者がプロと素人の違いを解説していたのを思い出す。シンバルって「ジャーン」と鳴らすだけなら子どもでも出来るから、なるほどそういう視点がトピックになるのだな、と思うけど、考えてみればプロがいるのだから、素人と違いがあるのは当たり前っちゃ当たり前である。でもその違いが分かるかと言われるとちょっと自信がない。であれば、プロでもアマでもいいのだ、ということになるかと言うとそうじゃなくて、私が見ている世界が全てではない、見えない世界が無限に近いスケールで存在していることを感じさせてくれるように思う。

それと同じようにスポーツ観戦でも、夫や解説者が「あ」とか「お」とか言うたびに私はなんだかワクワクする。私には違いが分からないところで「あ」とか「お」とか言ってワクワクしている人がいることに、ワクワクする。そして最近では私も時々、「あ」とか「お」と思い、その後、夫や解説者も「あ」とか「お」とか言うのを聞いて見えなかった世界が少し、見えるようになっていることに更に、ワクワクする。

スポーツってなんだろう?

私は美大受験をしたのだけど、その頃はよく、美術の世界とスポーツの世界を比較して考えていた。スポーツって、どんなに自分を信じたくても、数字できっちり勝敗や順位がついてしまうからシビアだなぁ、とか。いやでもある意味、数字で勝敗や順位がつかないところが美術の世界のシビアさでもあるぞ、なにせ引導を渡すのは自分しかいないのだから…とか悶々と。
まあこれはつまり、正直にいうと
「美大に合格するって一体どういうことなんだよ?!」
と荒ぶっていたついでに考えてたことだ。

大人になって、スポーツ観戦が大好きになった私としては、この言葉をもう少し説明したい気持ちになってる。さて、スポーツとは?

スポーツとは確かに、数字で結果がでるもので、数字を競い合うものだ。
なのだけど、その数字だけでは語れない物語があって、それこそがスポーツの人を惹きつけてやまない魅力である。数字で勝敗がつくこと、正確に、誰の目にも明らかに結果がでるということ。そのシビアさ故に、誰もがその数字では語り得ない物語に熱狂する。
数字的な側面と、物語的な側面が表裏一体であることを感じさせてくれる。
そしてそれは、生きていく上で起こりうる事を凝縮して写しとったかのような、まさに人生そのものであるようだ!(ジャーン!)

と、シンバルを鳴らしたところでひとつ。
私がスポーツについて考えるとき、どうしても思い出してしまうエピソードを紹介したい。

あれは数年前(あやふや)
テニス中継を見ていた時。
確か錦織圭選手の試合だったと思う。記憶が定かでないのだがクレーコートだったような気がするので、全仏だろうか?(やっぱりあやふや)
実況は鍋島昭茂さん。解説は松岡修造さんだった。鍋島さんの実況、聴いたことのある人はわかると思うのだけど、すごいのだ。画面に映ったものをきっちりと、過不足なく説明していく。そして、フェア。

テニスって、とてもタフで、孤独なスポーツなので、もうその分、選手一人一人に濃厚なドラマを感じてしまい、負けてる方とか、頑張ってるように見える方とか、紳士的であることを心がけている方とか、記録がかかっている方とか、レジェンドに立ち向かう若い世代とか、もうなんかあらゆる理由で、どちらかの選手に肩入れしてみてしまう。
そして錦織選手だ。
日本人の多くのテニスファンは錦織選手の試合を心穏やかに観ることができないのではないだろうか?そんなことはないですか?私はできない。
熱い気持ちを抱えすぎて、本当に慣用句ではなく手に汗を握って、固唾を飲んで、見守ってしまう。
一方で、そうなってしまう自分を不思議に思って、なぜ錦織選手のプレーを他の選手の試合と同じように、もう少し穏やかに見れないんだろう?と考える。まあ簡単に言えば「日本人だから」ということなんだと思うけど、それってどういうことだろう?これまで「日本人だから」と生きたつもりなんてないのに。誰が勝とうが私にはなんら関係ないはずなのに。
けど、この私の内側に湧きおこってくる熱狂は一体?

とか考えているところに鍋島さんの実況は、それはそれはフェアで、眩しく響く。錦織選手に対しても相手選手に対しても言葉のチョイスに敬意を感じる。私が錦織選手にものすごい肩入れをしてしまっているところに、対戦相手が決して「敵」ではないことを優しく諭してくれるかのようだ。きっとテニスのようなタフなスポーツを長年実況していると、プレイヤーと同じように精神が鍛えあげられていくのだろう。私のように大人になるまでスポーツにまるで興味のなかった人間とは精神の仕上がり方が違うのだ。
とまたごちゃごちゃ勝手に考えていると、
「日本人なんだもん、日本人応援しようよ」
と松岡さんが言った。

思わず雷に打たれたような気がしてしまった。
細かい文脈を忘れてしまったので、前後を記述することができないのだけど、この言葉は鍋島さんに向けられた言葉ではなく、私たち視聴者に向けられた言葉だった。そしてそれ自体に鍋島さんも優しく賛同されていたように思う。

松岡さんには、鍋島さんとはまた違った、解説の信念を感じる。
ご存知の方も多いと思うが、とても熱い方で、実況もこれまでも何度も聞いていた。
「がんばれ!圭!」
と惜しみなく、迷いなく錦織選手を応援する。
私はそれを、これまでなんとも思わずに見ていたのだけど、
「日本人なんだもん、日本人応援しようよ」
というその言葉は、なんだか全然違って聞こえてしまった。
ああ、そうか、この人は元プレイヤーとして、選手にとって「応援の力」が、決して小さくないことを、観る人に教えようとしてくれてたんだな、と気がついた。
そしてそれは、私が錦織選手に肩入れしすぎて心穏やかに見れないような応援とは何かが違うもののように感じられた。

鍋島さんの実況スタンスと、松岡さんの信念のようなものは、一見すると相反する姿勢のような気がしてしまう。でも、選手に対する敬意を忘れないことと、応援したい人を全力で応援することって、なにも喧嘩しない。むしろ私たち観客が、その二つをきっちり分けて両方大事に持っておくことが、スポーツをかけがえのない唯一無二の娯楽たらしめる、肝心要のポイントなのだな、と思った。

ずっとスポーツに親しんで来た人にとっては当たり前のような話なのだと思うけれど、私にとっては、忘れられない大発見の瞬間だったのだ。
まあ、スポーツ観戦キャリアをこれまで積んでこなかった私は、自分で肝に銘じたことも忘れて、応援しているチームや選手が負けると、すぐに荒ぶってしまう。直後、テレビの画面には、対戦相手とハグをして健闘を讃えあう負けた選手の姿が映る。
「いけない、いけない」と反省する日々である。

それからなぜこんなに日本人を応援したくなるのかは本当に不思議である。多くの人がそうであるように、私もそうなのだ。そういうもんなんだ。という結論で全然構わないのだけど、ただやっぱり不思議なのである。
自分の中に沸き起こる気持ちに対して
「お前どこからきたの?いつもはどこにいるの?」
と聞きたい。

ただ全力で応援したい選手やチームがいることはとても楽しい。
テレビ観戦が主なので、実際に私の応援が選手に届く訳ではないのだけど。
全力で応援することが大事なんだ。だってそれが楽しいんだから。


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