高校時代⑦ セクハラ被害に遭ってクビ

後は退学しかない中、高校に籍だけ残したまま、次の年度になった。留年という形になる。どうしてすぐに退学しなかったのか今でも全く理由はわからないが、高校生でなくなるのが怖かったのだろうか?
結局きちんと退学したのは、5月ごろだっただろうか。

そんな中、とにかくまた、悲劇が襲った。
母親が仕事を辞めさせられたのだ。

母は派遣社員で、派遣先でセクハラ被害にあっていた。私たちのために我慢をしていたが、とうとう耐え難くなり、被害を訴えた。辞めさせられた理由はこれだった。
うつで引きこもっていた私に、母はアルバイトをしてくれと頼んだ。困窮がついにここまで来たかと思った。学校も行っていないのだから、やるしかない。顔も知らないセクハラ加害者を憎みながら、アルバイトを探した。
私にとって高校生年齢で「家計を助けるためのアルバイト」をするのはとんでもない悲劇であった。もちろん高校はアルバイトが実質的に禁止だったし、そもそもアルバイトをする時間なんてないのが「普通」だと思っていた。

私がやっていたのは福岡ドーム(当時)での、球団グッズ販売の派遣バイトだった。たまに別の売り場の助っ人に入ることもあったが、基本は、野球場のあちこちにあるグッズ売り場でグッズを売る。
仕事自体はわかりやすいし、楽しいこともあった。
しかし、休憩スペースはカフェか食堂しかなく、実質有料だったのがしんどかった。一番安いパンを買ってしのいだ。また、当時の風潮もあり、私は高熱が出ても耐えてフルタイムで働いていて、その体力的なしんどさの記憶が強い。

未成年で生活のためのアルバイトをするのが当たり前の環境があることを、バイト先で知った。
中学を出たら生活のために働くのは当たり前のことで、高校生活や高校資格こそがオプションという彼女たちに出会った。
私は、運良く、今までは勉強をすればいいと甘やかされてきた部分があったのだと実感した。

外れクジをよく引く私にも、当たりクジはあった。

小学校までは、私は真面目な優等生として扱われていたし、理不尽なことも少なかった。
私は義務教育をきちんと受ける機会があったから、本を読む環境がある程度あったから、大人に評価される機会があったから、思春期に住める場所がないという状況がなかったから、直接的な身体的暴力を受けたり、食事を抜かされたりするようなこともなく健康に育ったから、「そこそこの成績」でいられたに過ぎないと悟った。
コンプレックスしかなかった在籍していた高校も、その場所では「すごく頭が良い」という扱いを受ける。そもそも伝統校ではあったので、年配の方からウケが良く、高校にまつわる福岡の面白い話を聞かせてもらうこともあった。

ゆとり教育が始まった世代だからもあるだろうが、常に「やりたいこと」を目指すように学校は言っていた。行きたい進路を調べよう、行こう、と……。まるで貧困は撲滅されたかのような空気が私は不思議だったし、保護者は常に子供の最大の理解者であり、子供の意思を尊重するものだという前提もおかしかった。
でも、そのバイト先で仲良くなった子たちは、そんなことないと知っていたし、そんなことないのが当たり前だった。自然に、似た境遇の子たちで休憩時間話すようになった。働きながら高校に行く子たちが「普通」にいることを知り、私はなんて恵まれていたんだと思った。

このバイト生活は数ヶ月で終わった。
派遣社員を辞めさせられた後、非正規の仕事を掛け持ちしていた母が、遂に病に倒れたからだ。

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