将来を嘱望されながらも大学に行けなかったある愚かな一例

生活保護世帯から東大で博士号を取るまで」というすばらしい記事を読んだ。生活保護家庭の困難、ひとつひとつの努力による打開。並大抵のことではない。

むしろ私は、どんなに努力してもくじ引きで当たりを引かなければ前に進めないような状況があるということを指摘したいのです。
私は運良く当たりを引き続けたのでここまで来られました。
しかし運が悪いというだけで一般に保障されるべき権利を享受できない人が沢山います。
この問題点を指摘したいのです。

https://note.com/rshimada/n/n058fbbff18c9

私という運が悪く、能力の低い、そして愚かしい人間が、大学進学を望みながら、できなかった、という一例を、取り急ぎ記したい。これは、「悪い例」である。

私は、10年以上前、ミスiDというオーディションから、「文学アイドル」「書評アイドル」としてデビューした西田藍だ。文筆業をすることができたのは幸運だったが、それ以外は不運に見舞われてきた。

私の能力の低さや愚かさは、私の環境において大きな問題だったが、「普通の家庭」だったならば、「普通の大学」に「普通に進学」できたであろう。
この「普通」がどれほど意味があるものか、私や近い環境にいた人間は知っていると思う。

小学校に上がる頃、両親は離婚し、母親が再婚した。この再婚相手は、暴力的な男だった。母にDVを重ね、次第に暴力は私にも向いた。経済的にも不安定で、繰り返される転居。デザイン事務所をやっていたが破産した。男から逃亡し、戻りの繰り返し。親戚の家に預けられることもあった。学校に行けない期間もあった。
そんな中、どの小学校でも私は明るく賢い生徒として評判だった。
来月どこに住んでいるかはわからなかったが、私は漠然と大学進学をするものだと思っていた。その男から九州大学に行くようにと言われたので、なるほど将来は九州大学に行くのかと思った。周りが私のことを頭が良いと言っていたし、本を読むのも好きだから、賢いねと褒められていた。自然な流れだった。

小6の6月、転機があった。母親が離婚を決意したのだ。しかし当然円満離婚とはいかず、いかにあの家から殺されすに逃亡するかが重要だった。
あの日、私はあの男とふたりきりで家にいた。弟つながりのママ友の家にいた母から、電話があった。母は今がチャンスだから逃げようと言った。あの男はそばにいる。内容を悟られないように、嘘の会話をする。私は、おもちゃをまとめるふりをして、隙を見て数枚の下着や財布をカバンに詰めた。「迎えに行ってくるね!」と明るく言って家を出た。

そこから、あの男に見つからないように生きる、長い夏休みが始まる。一学期は一ヶ月ほど学校に行けなかったが、二学期からは実父宅から、そこの近隣の小学校に通えることになった。
だが、6年ぶりに一緒に住むことになった実父とのふたりきりの生活は辛かった。父は子育ての仕方を知らず、いきなり一人暮らしが始まったようなものだった。図書館からレシピ本を借りて遠足の弁当を作った。制服のシャツを毎日洗うのかもわからずファブリーズでしのいだ。冬になると学校に行くのもしんどくなり、体が動かなくなり、休みがちになった。
裁判中の母がその様子を知り、卒業前に、一番長く通った小学校から卒業したいという私の意志を汲んでくれ、しばらく前述のママ友宅に居候することになった。
そこからよい住まいが見つかり、2DKの団地で、母と弟と私の3人で住むことになった。

当然この時点でも、私は当然のごとく大学に行けると思っていた。勉強という概念はよくわかってなかったが、転校先の小学校でも賢いと言われるし、なにより暴力から逃れることができた。虐待がエスカレートしいつかレイプされると怯える日はもう来ない。未来は明るいと思っていた。
中学校も知ってる人がいないのだから転校のようなものだが、仲の良い友人もできて、厳しい校則は耐えたがいがそこそこ安定した生活を送っていたように思う。
しかしあくまで直接的暴力を日常的に受けないという意味での安定で、学校では一部男子からいじめをうけていた。私の実父は外国人なのだが、中学校側の手続きのミスで、入学時、戸籍名とは異なるカタカナの名字で全てが記されていたのだ。戸籍名は母方の日本の名字なので、訂正してもらったが、奇異に見えたのかしつこいからかいが始まった。

私は忙しかった。母親のダブルワークに対応するために、弟の保育園の迎えやその後の一連の家事をしなくては行けない日もあった。毎日ではないが、幼児の世話をするのは楽ではない。そして母にほぼ強制的に入れられたモデル事務所のレッスン、モデルのオーディション、モデルの仕事などもあった。そしてアレルゲン免疫療法のための週3の耳鼻科の通院。吹奏楽部に入っていたが両立できずに夏の大会で退部したが、その後先輩に睨まれ続けていた。
モデルの仕事はコンプレックスだった「ハーフ」であることが価値となった、貴重な経験ではあったし、貧しい中で小遣いにはなった。それよりも子供時代のほうが欲しかったと、今では思う。

今思えば、置かれた環境を考えれば十分な成績だったのだが、私は頭が悪いと思い始めた。
中1の初めての通知表が、五教科がオール4だったのはよく覚えている。5がないことに、実両親からはかなり落胆された。
私はそこで発奮はしなかった。「そうか、私は頭が良いと言われて、そう思っていたけど、本当は頭が良くないんだ」と思ったのだ。成績の良い生徒はしっかり勉強しているという発想がなかった。
勉強面でいうと、成績は中の上だった。私には勉強という概念があまりなく、テストを運試しだと捉えていた。しかし周りの友人より極端に成績が低いのは恥ずかしいとは考えていて、とりあえず課題はきちんとやっていて、大体が中の上、よかったら上の中くらいだった。

母親はDV被害や過労の影響で精神的にかなり不安定で、酒に溺れる日もあり、暴力は私に向いた。また交際相手の男性に狙われたりもした。家庭内が安定しているわけでもなかったが、まだ、未来への漠然とした希望はあった。
土地柄もあり、学校はかなり保守的で、それはとても辛かった。不登校の時期もあった。だから、校則のない単位制の公立高校があると知って、それが希望だった。

しかし、中3の進路相談で、教師に、進学校に行かないと大学には行けないと言われた。かなり金銭的に厳しい中、進学塾に行くことになった。数日通っただけで、母に「公立トップ進学校に行きなさい」と言われ、私は反発した。塾講師が私なら行けると言ったらしいが、いままで勉強の概念もわからず、不登校気味で、内申も気にしたこともなかった私に、また過剰な期待をかけるのか。家事をして育児をして、モデルもして、トップ進学校へ? 御三家と呼ばれるあの学校へ? 中3の夏に?

進学塾で勉強の概念を知った私は、偏差値がぐんと上がった。ついでに偏差値の概念も知った。トップ進学校はさらなる努力が必要でも、12月には二番手には普通に行けるくらいには学力が上がったが、ここでまたは外れクジを引く。
端的に言えば母は詐欺に遭い、詐欺師たちに、身の丈に合わないマンションへ引っ越しさせられたのだった。
同じ福岡市内で、距離的にはそんなに遠くないが、福岡市内の公立高校学区は3つに分断されている。通っていた中学校とは全く別の学区になってしまった。その学区のトップ校(御三家の一つだ)も、二番手高校も、遠くなった上にあの男の実家が近い。危険だから無理だと言われた。そこで勉強のやる気を失ってしまった。頑張ったのに、とんだ詐欺だと思った。抑うつ状態になった私は、三学期を無気力に過ごした。最初、友達と行こうと話していた三番手の高校は安全な都会にあったし、学区も共通だったので、結局そこに進学することにした。

(余談だが、卒業時、同学年の2割が偏差値70超えのトップ進学校に進学するのだと知った。成績の良い学年だったのだ。オール4の私は別にそこまで馬鹿ではなかったのでは、とそのときに思った)

福岡の公立進学校は規則がとても厳しいところが多い。
高校受験時や、中学卒業時、書ききれないほどの大人への不信感を抱えながら(卒業アルバムで、私の茶色い髪が黒く塗られてた件などは報道もされた)、なんとか心機一転頑張ろうと思った矢先の高校での洗礼は私を壊してしまった。
今思えば、集団行動訓練を繰り返す合宿、厳しい校則や朝課外、大量の課題、それ自体よりも、「甘やかされた今時の子供を叩き直す」という空気に、私は傷ついていたのかもしれない。なにより自ら望んでこの学校に来たという前提も嫌だった。親の意向に決まっているではないか。
まあ、私の精神が弱すぎるのかもしれないが、同じ中学から進学した10人中、私含め3人が中退している。普通の生徒にとっても、かなりきつい高校生活だったことはたしかだ。真面目な子がノイローゼになって休学したのを噂で聞いたりもした。
休みがちになりながら、12月まで頑張って通ったが、出席日数が足りなくなり結局中退した。

なんどもなんでも、「ああすればよかった」と思う。友人のように、さっさとやめて単位制の公立高校に入り直していたら。(友人は三番手高校と遜色ない進学をした。単位制でも大学に行けるのだ。当然ながら。)そもそも必死に単位制高校への進学を望んでいたら。というよりなにより、母が詐欺に遭わなかったら。

母は、不登校の私を支えようと頑張ったが、職場で犯罪被害に遭い、被害者ということでやめさせられ、私も派遣アルバイトで家計を支えたが、家庭は完全に崩壊した。
母は病に倒れた。

その後、親戚に預けられたり、別の地方に引っ越していった母の元や、別の県の実父のもとで暮らしたりしながら、10代後半は精神科に通いつつ、無理して福岡のモデル事務所の仕事は続けた。これも今思えば愚かだったが、社会と繋がりたい、社会的に認められる一瞬がほしいと思っていたのだろう。並行して携帯販売のアルバイトもした。
高卒認定資格を取った。無意味にセンター試験も受けた。

なんどもなんでも、「ああすればよかった」と思う。実父のもとで、地元の国立大学を目指していたら。なにもしない父でも、1年分の予備校代だけは出せると言ってくれたじゃないか。安定して「大学生活」を得ることができただろう。

ここで更に私が愚かだったのは、「一発逆転」の夢を見てしまったことだ。
私は何者かになれるはずだと。中退した高校の進学実績で上じゃないと意味がないと。

だってあれほど、沢山の人が、私は賢くて美しいと、子供の頃から褒めてくれたではないか?
インターネットで出会う人はみんな東京にいる。私も都会で活躍できるのではないか?

アルバイト代で模試を受けたりもした。私文に必要な教科の偏差値なら、高校半年のみの知識でそこそこよかったのだった。
じゃあ普通に勉強したら、もっとすごいかもしれないと、東京の有名私立大学に行きたいと思ってしまったのだ。だがそれは計画ではなく、ただの夢想だった。学費もない。生活費を貯める気力もない。数日動くと、疲れて倒れてしまう。ろくな勉強できていない。なにより、高校生活の途中から、私の頭は働かなくなってしまった。うつはどんどんひどくなっていった。小学生時代の虐待のトラウマもどんどん強くなる。

なぜ、わたしだけ?
私は穢され壊された。

精神科で受けた知能検査で、かなり発達に凸凹があると知った。私が高校の勉強についていけなかったのは、努力不足ではなく、苦手な分野でどうしようもないことだと知った。
でも今更、きちんと目標に迎える心身なんてない。
私には適切な計画を立てる力がなく、また実行もできなかった。
何度も精神科に入院した。
夢ばかり見て、ずっとずっと布団の中にいた。誇大妄想に溺れた。

しかしその誇大妄想が叶ってしまった。
色々とオーディションを受けた中で、ミスiDというオーディションに受かり、「元引きこもりの文学少女」としてアイドルデビューをしたのだ。私は中卒だけど、だけど賢くて美しいのだと、世間が言う。なんて喜ばしいことだろう。
だからといって何も解決しなかった。
でもアイドルとして解決をしたふりをした。私の仕事は文筆業メインでそれだけでは生活費にもならず、また地方から東京に行く金も自力ではどうしようもなかった。
上京しても、芸能活動でも執筆活動もうまくいかず(完全なる能力不足である)結局、生活も心身も安定せず、学歴もいわゆる普通の職歴もなく今に至る。

これが私の愚かしい、家庭環境が悪く大学に行けなかった一例である。
普通の家庭なら、高校を中退してもやり直せただろうし、そもそも虐待のトラウマもなく、精神的に安定した生活を送っていたのかもしれない。通信制大学という選択をしたとしても、とっくにもう学位がとれていただろう。
本当に愚かしい人生で、恥ばかりだ。
なんどもなんども、もう数え切れないくらい後悔を重ねている。

私の弟は、くじの当たりを得、そしてもちろん大変な努力の末に、大学進学を果たしている。
高卒後就職しお金を貯め、そしてあしなが育英会から奨学金を得た。あしなが育英会の支援者の皆様に、感謝を申し上げたい。

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