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午 前 1 時 、 特 盛 の 女 【 前 編 】

 午前一時。
 こんな時間に牛皿を食べている。

 残業、残業、残業。一文の得にもならないサービス残業。
 そして俺は名ばかり管理職。

 終電ギリギリで電車に飛び乗り、自宅マンションの最寄り駅の近くの牛丼屋で食事をしている。
 ここんとこ、3日連続この店で夕食だ。
 
 というか、もう夜食の時間だよな。

 ここでせめて多少はバランスのある食事にしようと牛皿定食にサラダをつけた。
 
 ほぼ生きながら死んでいるような状態だったので、俺の目にはテーブルのトレーに載かった牛皿と、ご飯と、生卵と、御新香と、追加したサラダしか見えない。

 顔を上げても……俺と同じように死んだ顔をしたサラリーマンか、飲み帰りのおっさんくらいしかいない……はずだった。

「あ…………」

 コの字型のカウンター、その真正面に、黒いスーツを着た大柄な女がいた。

 お洒落に対する興味のなさを示すような、適当に後ろで結んだ黒髪。
 大きな黒ぶち眼鏡に、化粧っ気はほとんどない。
 まるで、こけしのような、つるっとしたノーブルな顔だった。

 わっしわっしわっしわっし……

 女は、一心不乱に牛丼を食っている。
 食っているというか、かき込んでいる。

 それにしても女はかなり大柄だった……座っていても、女の背が高いのがわかる。
 二つ右隣に座っていた、何度か見かけた作業ジャンパー姿の70は過ぎてるじじいと比較しても。

 すらっ、と背が高い、というのではない。
 太っているわけではなく、全体的にガッチリしていた。
 女が着ているのはまるで、就活中の女子学生が着るような黒いシンプルなスーツに白いブラウス。

 ぜんぜん今どきではない。

 どちらかというと……鎧兜を着せると似合いそうな感じだ。
 筋肉がしっかりついていて、たぶん体重は男にしてはやせ型のおれと同じくらいだろう。

「…………」

 なんとなく、その女が特盛をかき込むのを眺めていた。

 と、女が顔を上げる……そして俺を見る。

 俺のことを視線で捉えると、その視線は“見る”というのではなく“睨む”という感じになる。

 俺は慌てて視線を落とした。

(なんだよ……ヤベえ女……)

 視線を食べかけの牛皿定食に落としても、まだ女が俺の頭頂部あたりを睨んでいるのがわかる。
 じりじりと視線でつむじあたりを焼かれ、ハゲてきそうな気がした。

 視線外だとは言え睨まれながら食事するのは、なかなか気分が悪い。

 と、牛皿とサラダをほぼ片づけたところで、視線の気配が消える。
 こわごわ顔を上げて……女のほうを盗み見た。

「えっ……?」

 女が移動していた。
 一つ右隣に。

 そして並盛をボソボソと食べていた作業ジャンパーの70過ぎのじじいに、何やら小さな声で話しかけている。

(知り合い? ……え、いや、でもまさか……)

 いかにも普通のOL(にしてはやたら大柄だが)と、汚ったない作業ジャンパーを着たよれたじじい……どう考えても不自然だ。

 二人が何を話しているのか、妙に気になった。
 俺は(まだ少し女にビビりながら)耳を澄ます。

 しかし二人の声はこちらの耳には届いてこない。

 と、その時。

 ちらり。

 女が黒ぶち眼鏡の分厚いレンズの奥から、俺を見た。
 
「ひっ……」

 思わず声を出してしまった。
 慌てて視線を下に落とす……つくづく俺は気が小さい。
 いったいにビビってるんだ?

 いくら大柄でヤバそうな女だとは言え……いきなり殴りかかってきたり、刃物を振り回したりはしないだろう。

 ここは牛丼屋だ……店員もちゃんと。
 あれ? …………いない。

 なぜか、店員の姿が見当たらなかった。
 店の奥で休憩でも取っているんだろうか。

 まあワンオペっぽかったし……仕方ないだろう。
 しかしそれにしても、これじゃ食い逃げできちゃうじゃないか……あ、この店は前払いの食券制だっけ……

 と、いろいろどうでもいいことを考えていたら、ガチャリ、とドアが開く音がした。

 また、はっとして顔を上げる。
 眼の前のカウンターに、特盛の丼と並盛の丼が仲良く並んでいる。

 まるで取り残されたように、ぽつん、と。

 それに箸をつける人間二人はいない。

「えっ……?」

 カウンターの向こう、店の端にあるトイレに、じじいが入っていくところだった。
 そのすぐ背後に……あの大柄な黒いスーツの女がいた。
 立ち上がると、やはり背がかなり高い。

 女はじじいが先に入ったトイレに、続いて入っていく。

 そして……ドアを閉める瞬間に、またメガネの奥から俺を見て……笑った。

 俺と、特盛と並盛の丼が店内に取り残される。


 それからも俺の残業の日々は続いた。

 というか、いつまで経ってもこの日々は続き、終わりはない。
 ここのところ、ほぼ夕食は牛丼屋だった。

 もちろん、あの女のことは強く印象に残っている。

(……なんなんだ、一体あれ……)

 あの老人とトイレに消えていったとき、女が見せたあの笑顔。
 なにか背筋が凍りつくような、不気味な笑みだった。

 あれから数週間、女をこの店で見かけたことはない。

 体力も気力も限界を超えてから久しいので……ひょっとしてあの夜見たのは幻覚か、もしくは半分眠っていて見た夢だったのかもしれないと思い始めていた。

 あり得ないことではない。

 それにしても……

 気が付けば今晩も俺がオーダーしたのは牛皿定食とサラダだった。
 そして、あの晩と同じ席に座っている。
 というか、毎晩毎晩、同じ席に座っている。
 
 昼間の仕事はもちろん、退社するのも終電に乗るのも、この牛丼屋で食事するのも、ほぼ自動運転だった。

 あまり深く考える時間も、気力もない。
 あと数時間後に俺ははまた目を覚まし、会社に向かう。

 こんな状態の生活なんだ……牛丼屋で変な女の幻を見てもおかしくはない。

 と、牛皿定食から顔を上げた。
 そして、目を見開く。

「あっ……」

 カウンターを挟んで真正面に、あの女が座っていた。
 今日も大柄な身体を黒いスーツと白いブラウスに包み、特盛の巨大な丼を片手に、わしわしと肉と米をかき込んでいる。

(うわあ……)

 思わず、俺は視線を逸らせるもの忘れて……女が牛丼を貪る様子をだだ呆然と眺めていた。
 
 やがて女が……俺の視線に気づいたのか、丼から顔を上げる。

「ひっ……」

 視線を下げようとした。
 が、分厚い黒ぶち眼鏡の奥から女の視線が俺の顔を射る。
 まさに、射る

 子どもの頃に見たアニメの再放送かなんかで、悪者のロボットが目から“冷凍ビーム”を発射してビルや善玉ロボットを凍らせる、というものがあった。

 考えてみれば光を用いて低温を作り出す、というのはかなりメチャクチャな発想だと思うが、女の視線にさらされた俺はまさに、冷凍ビームを浴びたようになっている。

 カチンカチンに凍り付いてしまった。

「……………………」
 
 女は俺の顔を“睨ん”でいた。
 特盛をかき込む箸を休めて。

(やばい……される……)

 笑わないでほしい。俺は本気でそう思った。
 なぜなら女の目はかなりの三白眼で、睨まれるとそのへんのヤンキーに睨まれるよりもずっと迫力がある。
 本気で身の危険を感じた。

 が……

 急に女が表情を崩した。
 そして、あの笑みを見せる。

 この前、トイレにあの爺いと消えていったときに見せた、あの笑みを。

 女が急に立ち上がった。
 立ち上がると……やはりこの女はデカい。
 しかも、特盛の丼を手に持ったままだ。

 そしてゆっくりと……コの字型のカウンターに沿って俺のほうに歩いてくる。

「あっ……ああっ……」

 本気で恐ろしかった。
 慌てて店員のほうを見る……店員は厨房の奥で、こちらに背を向けていた。

 俺たち深夜の客などに、いちいち注意を払うはずもない。
 逃げることもできずに、俺は座っていた。

 女が特盛の丼を手に、俺の左隣にぴったりと腰を下ろした。
 その体温は妙に高く、なにか湿っている感じがした……大型犬みたいに。

「あんた……」女が言った。どえらく低い声で「うちのこと、見とったやろ? この前……」

「えっ……あの、そのっ……」

 俺はビビッていた。
 これを読んでるあんた……俺と同じ状況に置かれてビビらずにいれるか?

「あんたも……うちとトイレに行きたい……?」

「え?? あ、あのっ……そ、そ、そんなっ……」

 女の顔を見ることもできなかった。
 あんた……この状況で俺をチキンだと言えるか?

「あんた、あの爺いと……うちがあのじじいとトイレで何しとったか、今日まで、ずーーーーーーーっと考えとったやろ?」

「は、え、あのっ……そのっ……」

 ずっと視線を落としているテーブル上の牛皿定食が、ものすごく遠く感じた。

「そやろなあ…………あんたも、あのじじいみたいなこと、うちとしたい?」

「えっ……ええっ……? えっ?」

 と、いきなり女は丼を顔まで持ち上げた。
 そして……

 しゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃ……

 と、残りをかき込む。
 
 しゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃ……

 やがて女は、重い特盛の丼をカウンターに置いた。

「ほな、行こか……トイレに」

「は……はあっ?」

 俺は女の顔を見る。
 
 間近に見る女の顔は……卵のような形をしていて、ぞっとするほど肌が白い。
 その細く笑った目はきつねのお面のようで、眼鏡の奥で紀元前からずっとそこに存在していた山脈のように、くっきりとしていた。
 
 鼻は小さく、少し上を向いていて、それが少し動物的でもある。

 唇の色は、頬の色とほぼ変わらず、艶はなかった。

「…………行こか。行くで……それ、ぜんぶ食べてまいいな……」

 たしかにトレーの上には三分の一ほど白飯が残った茶碗。
 わずかに残った牛皿。
 醤油をかけて解いた卵があと少し。
 サラダはぜんぶ食べた。

「……わ、わかり……ました……」

はよ食べ」

「は、はいっ!」

 俺は茶碗に牛皿をぶちまけ、卵をかけて、グルグルとかき混ぜて混然一体にするとガサガサとかき込んだ。
 そしてぬるくなったお茶で流し込む。

 ごっくん、と飲み込むと、女はもう席を立ってカウンターを回り込み、トイレに向かっていた。

「はよ、おいで……」

 女があの笑みを見せる。

【後編】はこちら


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