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桃太郎はなぜ面白いのか

語ることに関する幾つかの思い出がある。初めは誰かに語ってもらった思い出、大人になるにつれて自分で語ることができるようになった思い出が増えていった。覚えてない思い出すらある。母が私を育てる時、言葉がわかる前から本を読み聞かせていたらしい。私は全く覚えていないのだが、自分の体にそのように言葉が刻まれているのだと少ししみじみと思う。

語る、と聞いてまず思い浮かぶのは桃太郎だ。誰もが聞いたことがあるストーリーである。また、誰もが誰かに語ったことがあるストーリーである。今回は、その桃太郎についていくつか気になることを考えてみたい。

物語というオープンソース

誰もが桃太郎について知っている。桃から生まれた少年が、老夫婦に育てられ、動物たちを従えて鬼を退治する物語。誰もが自由に語り、聞くことができる。ある種の共有財産である。

子供のころに、桃太郎の話を改変して遊んだ事はないだろうか。例えば、流された桃が誰にも拾われなかったり、退治されるはずの鬼が優しいやつだったり。

ある種の創作である。桃太郎のシンプルな物語は、まるでそうした改変のためにあるかのように思われる。語り手の口調によっても変わるわずかな違いの他に、創作的な改変も受け入れることができる。語り方が、人それぞれ違うのも昔話の特徴である。もっと言えば、その人の口調や息遣いなども語り方の多様さに入れることができる。桃太郎の物語そのものは、そうした違いを生み出すための基盤と言える。

「桃太郎」と言えば誰もが、桃太郎のストーリーを思い浮かべる。これはなかなか面白い現象だ。「りんご」という言葉によって、誰もがリンゴを思い浮かべることができる。それと同じようなことが「桃太郎」という物語でも可能なのだ。概念化された物語とでも言おうか。

桃太郎が作られた時代にはプログラミング、という概念はなかった。物語を何かの働きや効果を作り出すコードであるという考えで見ると、桃太郎は面白い。桃太郎というソースコードを応用して様々な物語が生まれる。桃太郎と、浦島太郎を組み合わせて、新しい物語を作ることができる。そのようにして、ゼロからの創作ではなく、元々ある共有財産(オープンソース)からの創作が行うことができる。

語るだけで楽しい

語る事はそれだけで楽しい。これは根源的な楽しさと結びついているように思う。誰もが語る。人と話す。何かずっと抱えていたものを打ち明ける時、心が浄化されるかのような快感がある。あるいは、誰かの語りによって目を開かされる時の「目から鱗が落ちる」ような衝撃は心にいつまでも刻まれる。

語る事それ自体に楽しさがある。なぜ楽しいのか。これは物語の内容の面白さとは違う次元の楽しさだと思われる。

小さい頃、桃太郎を何回聞かされただろう。数え切れないほど、様々な場所で様々な桃太郎を聞いてきた。それでも飽きずに人は語り続ける。

桃太郎のシンプルさは、そうした繰り返しの使用に耐えうる形になっている。単純に、登場人物だけを数えてみる。おじいちゃんと、おぱあちゃん、桃太郎、犬、猿、キジ、鬼。七人?である。人が短期的に記憶できる数の限界数といわれるマジックナンバー7を連想される。しかし、その中にも人間、動物、超常的な存在がすべて配置されている。三つの世界がコンパクトにまとまっている。また、非人間が多いのは、心理描写を省くためとも思われる。

桃太郎は、ネタバレによって色あせない。むしろネタバレしてなんぼの物語である。絵本などでも桃太郎は語られる。これは、犬や猿、鬼などを見たことのない子供にも理解やすいようにするためだろう。このように語られる桃太郎は、子供に対する教育的な意味合いがある。子供たちは絵を見て、犬や猿はこういうものなのだと学ぶ。

そして、物語の結末を知った後に再度語られる桃太郎は、違った意味合いを帯びる。犬や、猿などの登場人物などをしっかり想像できるようになったら、純粋な語りだけの桃太郎を楽しむことができるようになる。その時、子供は桃太郎の物語の流れに身を任せることができるようになる。そこで、何が起きているのかということを理解した次には、その世界の住民の気持ちなどに自分の気持ちを重ね合わせ一緒に悲しんだり喜んだりすることができるようになる。これは、物語の結末がたとえわかっていたとしても、楽しい。

語ることそれ自体の楽しさ、というものはその感情的な楽しさに関わっているのではないか。桃から新しい命が生まれる不思議さや、鬼を退治し終わった後の達成感を味わいたくて人は語り続けるのではないだろうか。

なぜ物語だったのか

なぜ、そのような感情の味わいは「物語」によって演出されるのか。私たちは、嬉しい、や悲しいなどの感情に関する言葉を持っている。にもかかわらす、「桃太郎」という一連の流れで感情を味わう。ただ一人で、「悲しい」と言ってもあまり悲しい気持ちにはならないのではないだろうか。その代わりに、悲しい音楽などを聞く方が感情とうまく味わえるだろう。むしろ、「悲しい」とあえていうのは自分のためではなく、相手と共有しなくてはならないことが多い。

物語は、ある種の感情の共有である。つまり、私たちはこのようなことで喜び、このような時に悲む、ということを語るものと語りを聞くものの間で共有しているのだ。

思えばしかし、桃太郎の中にはセンチメンタルな部分がない。具体的な感情などに関する描写はあまりない。なんとなく、桃太郎が生まれた時におじいちゃんたちが喜んだりするのは想像できるがわざわざそのことを語らずに「大切に育てました」と淡々と語られる場合の方が多かったように感じる。

それに関しては、語り手が語りやすいようにそうなったのではないか。あまりにも、感情に関する描写が多いと語り手自身がそのような気持ちにならないと上手く語れない。だから、淡々とした事実の集まりが物語として受け継がれてきた。それはむしろ、語っている本人のありのままの息遣いや考えを際立たせるのではないか。

言葉の限界と、物語は深く関わっているように思える。「悲しい」という言葉の表現力はいかにも乏しい。また、どのように悲しいのか、人それぞれでありそれだけでは正確に表現することができない。その言葉の限界を補うために物語が作られた。物語はむしろ、言葉で心情を語るためではなく言葉で語ることができない心情を容れるための器のような働きをする。

それは、複雑で豪華絢爛な様式ではなく、シンプルで耐久性があり没個性的なあり方で実装されている。言葉そのものの感情になる、というよりもまさに言葉を使ってそこに感情を容れるのだ。シンプルさによって複雑さを制御している。

物語という言葉の技術を使うと、言葉の限界を乗り越える。太古から人はそれを知っていた。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!