月が満ち、海上に浮かんでは、脱兎は不条理の海峡を駆ける(NODA・MAP『兎、波を走る』観劇感想覚書)

And when you look into your mirror

How d’you think you’re ever gonna see me

Look into my eyes

坂本龍一『Ballet Mecanique』(作詞:矢野顕子)

「波兎」の紋様は、兎の繁殖力の高さもあり、今も繁栄の象徴として人気が高い。もともとは謡曲「竹生島」に由来していて、湖面に月が写ってるのを見て、兎が波を走っているようだ、とか言ったのに由来している。そんなだったと思う。昔の人はおしゃれである。私もこれは観劇中に薄ぼんやり思い出すほどにうろ覚えで、帰ってちょろっと調べたことをさも最初から知っていたかの如く書いているだけである。
ところで私は、何故に月に兎がおらなあかんのだ、と幼い頃思っていた。たしかに、あまりにやることがなさすぎてボヘーっと月を見ていて兎が餅ついているように見えたかもしれん。ただ、だからって、どう考えても兎の体が一つの星に収まっていないではないか。兎は何故にあんな暗い灰色の寒そうな星で、窮屈に餅なぞつかにゃならんのだ。米なんか獲れんではないか。獲れん米で餅つく兎はただの阿呆ではないか。そんなことを思っていた。
しかし、いま私は月を見ると、兎が駆ける姿を思い描かずにはいられない。暗い海を越えた向こうにある、あの灰色の国に閉じ込められた兎が、脱兎に成らんと、その円環を何度も何度もぐるぐる駆け回る姿を。月が満ち、潮が満ち、水面に月が映るとき、写し鏡の虚構の中で兎が駆ける姿を思い起こすだろう。否、思い描かなくてはならない。現実の不条理を超え、虚妄も超えて、私は想起しなくてはならない。もう、そうするしかない。


新歌舞伎座にて

2023/8/9観劇メモ

(以下、感想の走り書きです)
(直接的な言及は避けていますが、ネタバレに抵触している箇所があります。何も事前情報を知らずに観劇されたい方は観賞後に読まれることをお薦めします)
2023年8月9日(水)、大阪は新歌舞伎座にてNODA・MAP『兎、波を走る』を観劇してきた。
これまで映像では見たことあった野田地図。「いつかは生で見てみたい!」と最前から考えてはなかなか腰が上がらなかったのを、ようやく重い腰を上げて行ってきた。
本来ならば、事前にチケットを購入してA席あたりで見たかったが、元々予定していた日付でチケットが取れなかったため、当日券で鑑賞。2回の立見席(4500円だっけ?)であったものの、舞台が見切れることなく見られたし、オペラグラスがあれば倍率上げなくても俳優さんたちのご尊顔を拝めた。足がだるくなる心配もしていたが、劇があまりに面白かったため、足の疲れもなく帰路に着けた(面白かったと無邪気に言うことがはばかられる内容だがとりあえず「面白かった」と書いておく)。悪くない席だったと思う。

にしても、劇場出た途端、蒸し暑かった……サウナかと思った。

総括的な感想

前作『フェイクスピア』は戯曲で読んでいた。恐山のイタコや星の王子さまをグツグツ煮込んだ世界観が、痛ましい日航機墜落事故の生々しい描写に接続される展開にギョッとしたので、本作でも覚悟はしていたが、想像を遥かに超える不条理を叩きつけられ、打ちのめされてしまった。
虚実が渾然一体となり膨大なエネルギーを生む野田秀樹の言葉を紡ぐ力が、役者陣の肉体を通すことでとてつもない地点に連れて行かれるような、そんな衝撃的な鑑賞体験だった。あとにも書くが、まるでそこに重力がないかのように動く高橋一生の動きは圧巻。彼が縦横無尽に動けば動くほど、物語ががんじがらめにしていき、絶望の色が濃くなっていく辛くて辛くてたまらなかった。
また、これもあとに書くが、松たか子と多部未華子の二人の声が素晴らしくよく響き、ハッと胸を打たれる瞬間が何度もあった。終盤に多部未華子演じるアリスが繰り返す「お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん……」を聞きながら涙が止まらなかった。
そして、今も高橋一生演じる脱兎が不条理の海峡を越えんと、駆け回る姿が脳裏に焼き付いている。
終わった途端、あまりの素晴らしさに拍手が鳴り止まなず、観客がほとんど総立ちだった。おそろしく体力を消費しているにも関わらず、5回もカーテンコールに応える役者陣、凄い。没入度が高すぎたので鳴り止むことないカーテンコール中も、野田秀樹・高橋一生・松たか子・多部未華子・大倉孝二・秋山菜津子・山崎一・大鶴佐助と錚々たるメンツが並んでも「本人だ!」というテンションの上がり方はなかったな…とにかく、もう凄い以外の言葉が見当たらず、帰り道もずっと放心していた。
最後にひょこっと出てくるの野田秀樹がかわいかった。
以下、各項目ごとの感想を。

物語

本作、とても複雑な構造をしており、一見して全容を正確に把握することは極めて難しい。
①まず、一番の外殻にあるのは、チェーホフの『桜の園』とシェイクスピアの『ヴェニスの商人』が混じった世界。秋山菜津子演じる沒落貴族婦人ヤネフスマヤカジコが、彼女の所有する「遊びの園」なる遊園地で「かつて見たアリスの物語」を上演すべく、チェーホフならぬチエホウフ(大倉孝二)やベルトトルト・ブレヒトならぬベルトトルト・ぶれる人(野田秀樹)ら作家にあーだこーだ指図しているが、この遊園地はシャイロック・ホームズ(大鶴佐助)が「遊びの園」を競売にかけてしまう。
②そこに『不思議の国のアリス』の脱兎(高橋一生)が紛れ込み、アリス(多部未華子)、失踪したアリスを探すアリスの母親(松たか子)も紛れ込む。アリスの母親は、穴ぐらを通じて脱兎を追いかけ「鏡の国」に入り込み、消えたアリスの行方を探す。
③実は、鏡の世界の写し鏡の機能により、脱兎は前世("ぜんせい"と読む)ではピーターパンであることが明かされ、脱兎はアリスがネバーランドの住人となり、迷子たちの母親になるために連れてきたという。迷子たちは一様に母親の存在を否定している。アリスは穴ぐらから出て、今も自分を待っているであろう母親に会いに行こうとする…
ざっとまとめたが、これでも全然物語の2~3割程度しかまとまっていないし、そもそも①~③は必ずしも、直線的にリンクしておらず、また時系列の逆行も生じているので、かなり正確性に欠けるだろう。
では、なんもわからんまま終わるのか。否、むしろすべてが理解できたときにひっくり返るのだ。散りばめられたいくつもの言葉遊びを交えたギャグ、意味不明だと思われていたセリフが、具体的な日時・地名・名前が明示され、1つの「もうどうしようもない」不条理に収束し、現実が開陳されたとき、観劇中に引っかかりを覚えていた喉のつっかえのようなものが頭の中でスパークする。もしかして、とうっすら予感していた寓意(海峡を越える脱兎、そもそもアリスなんて子供いないんじゃないかと突き放される母親、「母親なんていらない」と叫ぶ連れてこられた子どもたち、ハートの王国)が、現在進行系の事実と合わせ鏡のごとく対称形になり、アリスが置かれた不条理と脱兎の矛盾した苦悩に、とめどなく溢れる涙を抑えることができなかった。
それにしても、なぜここまでややこしい構造なのか。まず、寓話をリメイクすることが必要なのではないかと思います。悲惨な真実を悲惨な真実のまま語るのとは別に、寓話という1つのパッケージに包括して語ることで担保される普遍性、そしてファンタジックな物語が現実の「もうどうしようもない」不条理をより克明に浮かび上がらせる。
そうした「もうどうしようもない」現実を寓話を通して消費してしまうことは一見危ういことにも思えるが、むしろ本作はそうした「物語を見ている観客」自身が危うい存在として描かれ、寓話を通して現実の「もうどうしようもない」不条理を思い起こさせ、再び現実に立ち返らせようとする強い書き手の意志を今までの野田地図作品以上に感じた。
穴ぐらの言葉を解くアナグラムに象徴されるように、知的な好奇心・意志は「もうどうしようもない」不条理へと立ち向かうための微かな希望であり武器にもなりうることを示したように思える。
それにしても、「兎、波を走る(=USA.GI NAMI WO HASHIRU)」とは物語を通すと非常に考え抜かれたタイトルだ……それはある種の諺で、寓話で、言葉遊びなのだけれど、言葉が解体され分裂した意味たちが、虚構のパイプを通じて繋がったときにグンと物語の強度が高まり、現実に逼迫するとき劇空間がぐらりと変貌する。あの瞬間。頭を強く打ったかのよう。

演出

観劇経験が乏しく、あまり突っ込んだことは語れないのが非常にもどかしいが、舞台が暗転せず、役者陣が舞台の道具をすべて自分たちで用意するというのが非常にオーガニックで、ユニークだった。というか、めちゃくちゃ大変だろうな。場面転換のたび役者が舞台装置を動かすのだけれど、それが違和感なくシームレスに演出と世界の転換に結びついており、語りの邪魔をしていなかった。走り回る役者さんの肉体の躍動に触発されて、自分ももっと動きたくなった。本当に大変だと思うけど。
合わせ鏡の背景がおもしろかった。無限に続く背景が終わらない現実と時間の煉獄のように見えた。あれどうなっているのだろう…

高橋一生

先の項でも触れたが、とにかくみんなよく動く。その中でもイントロダクションからラストまで動きまくりなのが、高橋一生だろう。劇中一番運動量が激しい。ただでさえ、よく喋るのに、縦横無尽に走り回る。もともと肉体表現が卓越した役者であると知っていたが、生で見るとより一層凄い。
彼の動きで特徴的なのは、体幹がブレない肉体の躍動だろう。強靭さがあらゆる人類の中でも頭一つ抜けていると思う。ずっと目で追っかけていたくなるほどにシャープで、重心の動きがなめらかで、軽々と地面や時間を越えたような肉体の動きは見惚れてしまうほどの美しさ。
あの陰影の濃い骨ばった顔から紡ぎ出される表情は、無邪気で幼さすら感じさせる瞬間から、鬼気迫る装った冷酷さまで自在に変貌する。
本作では唯一、虚構の存在(脱兎)と現実をつなぐ存在として彼はある実在の人物の名前を背負うことになる(松たか子と多部未華子は意図的にはぐらかされているのではないかと思うが実際はわからない)。おそらく並大抵の努力では背負いきれない苦痛があるはずだ。それを背負って駆け抜ける高橋一生という役者の驚異的なまでの全身表現に心震えた。

松たか子

徐々に物語の核心に迫っていく、彼女は役柄的に戯曲的な発声を求められたのではないかと推察する。何も知らされていない、ある意味観客に近い存在として、尋常じゃないセリフを語らなくてはならないにも関わらず、おそらくほぼミスなく緩急を絶妙にコントロールしながらとても滑らかに発声しており「すっげえ……」と唸ってしまった。歌舞伎界のサラブレッドにして、日本を代表する俳優。伊達じゃない。声1つで圧倒的な存在感を示す。類稀なる能力とスター性を兼ね備えた日本の宝です。
「STAP細胞はありまぁす」のモノマネでめちゃくちゃ笑いました。

多部未華子

松たか子が戯曲的なら、多部未華子はミュージカルあるいはアニメ的な発声。この人も良い声で、声が響いた瞬間に物語の主役だと分かる。舞台上によく響く声はとても澄んでいて、その損なわれることのない透明性が終盤に向かうに連れ、その声を聞く観客の胸を掻きむしる。
聡さと子供らしいあどけなさを両立させながら、無邪気な振る舞いで笑いを誘う卓越したコメディエンヌぶりにも脱帽。
あとマジで本物可愛かったです……

大倉孝二・秋山菜津子・山崎一・大鶴佐助

・大倉孝二
 本作一番のコメディリリーフとして一番笑わせられた。おそらくアドリブの箇所も多かったと思うが、ふざけ倒してて終盤近くまで笑いっぱなしだった。裸の美女に囲まれたと思ったら、実はふるさと納税の返礼品でした、というあまりにしょうもない夢を語るシーンとかくだらなさ過ぎて最高。
 クネクネする動きを思い出すだけで思い出し笑いをしてしまう。

・秋山菜津子
 沒落貴婦人としての佇まいもさることながら、切れ味鋭いメタいツッコミで大倉孝二に次いで笑いを引き起こしていてた。

・大鶴佐助
 高橋一生の身体表現も凄かったが、この人のアクロバティックな動きも凄かった。お父様譲りの肉体、さすがである。

・山崎一
 個人的にはもっとこの人の見せ場がもっとあればと思ったので、贅沢を言いたいところ。あまり半ズボン姿をお見かけしないので、すらっといた脚で、舞台俳優さんの脚だ…となった。

ここには書かなかったけど、メイン8名以外の俳優さんたちもこんな超大変な舞台をよく成立させたな、と感心する次第である……本当にお疲れ様です。

最後に

また、上演前に冒頭にも引用した坂本龍一『Ballet Mecanique』がかかっていて、そのときは「良い選曲だな」と思う程度ではあったが、舞台を反芻し、歌詞を読み返したとき「君が鏡に映ったとき、僕の瞳を見つけてほしい」という詞で、高橋一生が見せたあの絶望に満ちたやりきれない表情・慟哭をこらえる声の震えを思い出し、目から水が止まらなくなった…

(おしまい)

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