8月9日

8月9日

最近の記事

  • 固定された記事

ただ在る、という事しかできない

人生については散々に煩悶してきたのだけども、結局突き詰めると「ただ在る」しかないのだろうなって思う。 人間の能力はこの宇宙を知るにはあまりにも矮小で、だから宇宙を知ろう知ろうとすればするほどに虚しいし、真実を知ろう知ろうとすればするほどに虚しい。 理性でごちゃごちゃと計算して小賢しく真実に肉薄しようとすればするほどに虚しい。 この世には所謂賢人と俗人がいて(ショーペンハウエルとかオルテガとかエドワードギボンとか、古今東西の賢人たちが散々に語り尽くしてきた“アレ”である)

    • 老人が無理して「新しいモノに寛容な俺」アピールする事の危険性について

      Ⅰ最近のAI“ブーム”を見ていて感じるのが、老人ほど無理してAIを褒めてるなって事。それもAIが何かも分からずに。もっと言えばデジタルが何かも分からずに。 この手の老人達は、デジタルに疎いからこそ、必死にAIAI連呼している。 デジタルに疎いからこそ、そんな自分を隠すために、AIAI連呼している。 今日において、こつこつとデジタルに習熟していく過程をうとましがり一発逆転的にデジタル強者に成り上がりたい老人達にとって、AIはとても都合がいいのである。 昨日今日に始めてスマ

      • 講演後とかに提出される学生達の感想文を馬鹿正直に信じてる馬鹿な大人達へ

        講演会とかワークショップ的な事があると、大人は大抵感想文的なものを学生達に書かせる。 大人というのは、こうやって子供達にアレコレ指図して支配欲を得たがるものである。 で、こういう時に書かせる感想文について。 こういう時に提出される学生達の感想の数々。それらはぶっちゃけ全部ウソである。 学生側だって馬鹿じゃないから、講師とかが喜びそうな事を適当に書いているのである。 「感動しました」とか。 こういうのは小学生の時点でもう始まっている。 子供だって馬鹿じゃないから、体育

        • 読書は自分にとって心地のいい文言と出会うためのもの

          先日「最近読書が楽しくない」という旨の文章を書いた。 その考えは今も変わっていないのだが、変わった部分もあって、というのも、最近の僕はまた積極的に読書を楽しみ始めている。 なぜ僕がこんな風に変化したのかというと、要は、今の僕はもう、完全に割り切ったのである。 「読書は純然たる“娯楽”である」、と。 今の僕にとって、読書とはなんら自己陶冶の側面を持たず、純然たる娯楽に過ぎない。 その時に用いている脳の領域は、AVを観ている時のそれと大差ない。 これはなにもフィクション

        • 固定された記事

        ただ在る、という事しかできない

        • 老人が無理して「新しいモノに寛容な俺」アピールする事の危険性について

        • 講演後とかに提出される学生達の感想文を馬鹿正直に信じてる馬鹿な大人達へ

        • 読書は自分にとって心地のいい文言と出会うためのもの

          今のうちに言っておくと、クリティカル・ビジネスは“絶対に”上手くいかない

          後になって「どうせあんなのは駄目だと分かってたよ」とか言い出すのもダサイので今のうちに言っておくと、山〇周らが最近推してるクリティカル・ビジネスは、“確実に”失敗するだろう。 こんなの少し立ち止まって考えれば分かる事だ。さしもの山〇周も焼きが回ったのかもしれない。 良くも悪くも頭が良い人(厳密には天才というより、秀才型に多い)が嵌りがちな陥穽に、彼も盛大に嵌ってしまったように見える。 理屈を捏ね繰り回し過ぎて、足元が疎かになってしまったのだろう。 で、なぜクリティカル・ビ

          今のうちに言っておくと、クリティカル・ビジネスは“絶対に”上手くいかない

          世界が狂っているのだから、狂い返す

          世界は狂っている。 この狂った世界で生きていために重要なのは、狂い返してやる事だと思う。 狂った世界で正常に生きようとするからややこしい事になる。 昨今の馬鹿馬鹿しい世情を見ていても、結局どいつもこいつもまともに生きようとするから、却っておかしな事になっている。

          世界が狂っているのだから、狂い返す

          他者に寛容になるために自分が天才だと認める

          世間を見ていると安易に「自分は天才じゃない」「努力しただけだ」と宣う成功者がいる。 一見人格者だが、しかし醜悪だ。ついでに言えば無知だ。 要は彼らはこう言いたいのである。 「俺は努力したから成功した」 「お前らが成功しないのは努力しないからだ」 「お前らが不幸なのは自業自得だ」 と。 「そういう事を言いたいわけじゃない」と彼らは弁明するだろうが、彼らの言い分を論理的に解釈すればこうなるのである。 僕が「自分は天才だ」と認めるのは、このためである。 世間一般には僕のよう

          他者に寛容になるために自分が天才だと認める

          天性のハードワーカーはやり切る事でしか幸せになれない

          改めてフと思うに、天性のハードワーカーはやり切る事でしか幸せになれないのだと思う。 徹底的にやり抜いて、「どう足掻いてもこれ以上は無理!」って領域までやり抜かないと安心できない。 少しでも余力を残す事を許せない。 「その気になればもっとやれるのに、やらない自分」を許せない。 これは、いわゆる完璧主義ともちょっと違うと思う。 少なくとも僕の場合は、「徹底的にやり抜いた上で尚、自身の力不足で満足いく成果が得られなかった時」は別にシンドクならない。 僕の場合は成果が良かれ悪

          天性のハードワーカーはやり切る事でしか幸せになれない

          街行くジジィのように自分もなりたい

          僕はややセクシャリティが曖昧なのだけど(強いて言うなら軽めのノンバイナリー。だからサンリオやカービィのグッズを収集してたりする)、でも基本的には「肉体は男、心は男」の普通の男だ。 なので僕はこのまま年を取れば普通にジジィになる。 そんな僕が思うのは、ジジィのロールモデルは結構充実しているなって事。 僕は所謂地方の辺鄙な街に住んでいるのだけど、そんな場所でもイカしたジジィはたくさんいる。 「イカした」ってのはハイブランドを身に付けてるとかじゃなくて、いかにも年金生活してま

          街行くジジィのように自分もなりたい

          『イージーライダー』の馬鹿馬鹿しさとパ〇ゴニアの馬鹿馬鹿しさとポリコレの馬鹿馬鹿しさとEVの馬鹿馬鹿しさと

          先日、“環境企業”パ〇ゴニアを冷笑する旨の記事を投稿した。 で、上の記事で述べたような馬鹿馬鹿しさというか薄っぺらさを、映画『イージーライダー』にも感じた。 『イージーライダー』の馬鹿馬鹿しさは即ち当時のアメリカの反動的ムーブメントの馬鹿馬鹿しさでもあるし、それは引いては日本における全共闘の馬鹿馬鹿しさであるとか、現代のポリコレ狂騒の馬鹿馬鹿しさ、「EV」はじめ環境の事考えてますよごっこの馬鹿馬鹿しさにも通底していく。 つまり、人類の表層の馬鹿馬鹿しさに通じていく。 い

          『イージーライダー』の馬鹿馬鹿しさとパ〇ゴニアの馬鹿馬鹿しさとポリコレの馬鹿馬鹿しさとEVの馬鹿馬鹿しさと

          『自分は年寄りだけど若者の「好き」が分かってますよオジサン(オバサン)』の、吐き気がするほどのダサさ

          『自分は年寄りだけど若者の「好き」が分かってますよオジサン(オバサン)』は、吐き気がするほどにダサイ。 いやほんと、ダサイ。 吐き気がする。 僕はこういう人種、大っ嫌いだな。 何がダサいって、それによって若くなれている気でいる事。それと同時に、「老い」という生物の宿命から必死にみすぼらしく逃げ回っている事。 そして何より、結局別に若者の「好き」なんて分かってないって事。 そもそもが、この手の年寄りが理解しなくてはならないのが、「若者」だって一枚岩ではないって事である。

          『自分は年寄りだけど若者の「好き」が分かってますよオジサン(オバサン)』の、吐き気がするほどのダサさ

          有望な人が結局宗教に“逃げちゃった”ときの「ああ、まぁ、そうね」感

          きわめて有望な人が結局宗教に“逃げちゃった”ときの「ああ、まぁ、そうね」感というのは、同じくきわめて有望な人ならよく分かる事だと思う。 結局の所いわゆる三大宗教とか言われてるような思想ほか各種すぐれた宗教思想というのは、結局は「人類の叡智の結晶」であり、結局は「人類の知性の到達点」なのである。 だから結局、知性を突き詰めていくと、その人が優秀であれば優秀であるほど結局は宗教にいきつく。 当然と言えば当然でこれらの思想はながいながい時間の淘汰に耐え、各時代の傑出した高知能

          有望な人が結局宗教に“逃げちゃった”ときの「ああ、まぁ、そうね」感

          結局、バカには関わらないのが吉。バカは見捨てるべし

          生半可な理想主義者はやたらとバカを救って“あげようと”するのだけども、色々な経験をしてきた僕から言わせると、そんなの全て無意味である。 彼ら生半可な理想主義者は得てして苦労知らずの甘ちゃんで、それ故に「バカ」を知らなすぎる。 はっきり言ってバカに救う価値はないし、救う意義もない。 というより、バカを救おうとする営み全てに意義はない。 なぜなら肝心のバカ当人が救われようとする意欲を持っていないためである。 生半可な理想主義者がなぜこの事に気付いていないのかと言うと、上にも

          結局、バカには関わらないのが吉。バカは見捨てるべし

          クッソかしこい人たちマジでがんばれ

          クッソかしこい人たち、マジでがんばれ。 僕は世間一般の水準から頭ふたつ抜けて知能指数が高いと自負しているけども、それでもせいぜい上位3パーセントとかそれぐらいだと思う。 だから当然、少数ではあるけど僕よりも少し頭のいい人や、僕よりもうんと頭のいい人は存在する。 そういう人々と出会うと、僕は本当に感動する。 でも、得てしてそういう人々はあんまり対外的評価に恵まれていない。 頭ふたつもみっつも抜けて頭が良すぎるせいで大衆の理解の範囲外にいるためだと思う。 彼ら彼女らもそん

          クッソかしこい人たちマジでがんばれ

          結局、世の中はなるべくしてそうなっている

          結局、世の中はなるべくしてそうなっている。 それが僕の思想の根本にある。 世間の多くの秀才達が『「世の中を変える」「世の中を良くする」的な事を我々はやってます!』的にアピールするのだけど、上の要因から僕はこういうのが物凄くどうでもいい。 結局世の中はなるべくしてそうなっているのだから。 何かがある様態を示す場合、そこにはそこに行き着いただけの合理的要因がある。 だから、その様態を改めようと考えた場合は根本にある合理的要因自体を刷新してしまわないとどうしようもない。

          結局、世の中はなるべくしてそうなっている

          noteの「なんかすんごい名文」が過小評価されてるのはなぜなのだ?(ハムたろ)

          noteをフラフラしてると思うけど、ぶっちゃけ、noteって客層のレベル低くね?っていう。 なんか典型的な「意識高い系」っていうか。 ふワっ!!?ってビックリするぐらい筆者の知能指数高めな文章とか、如何にも頭良さげではないのだけど着眼点がナチュラルに鋭い文章とか、紙の書籍や他のメディアでは補えないような素人創作ならではの属人性を備えたプレミアムな文章とか、そういう、ぱっと見では分からないなんかすんごい名文の存在感が、noteは、ものすごく低い。 すんごい名文に全然いいね

          noteの「なんかすんごい名文」が過小評価されてるのはなぜなのだ?(ハムたろ)