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【ロシア連邦の歴史1】ボリス・エリツィンと新生ロシア

こんにちは、ニコライです。今回から新シリーズ【ロシア連邦の歴史】をスタートします。以前に、ウクライナ戦争を理解するために【ウクライナの歴史】をまとめましたが、今回は戦争のもう一方の当事者であるロシアについて、1991年の独立から現在までの30年史をとりあげていきます。

1991年にソ連から独立したロシア連邦をけん引することになったのは、ロシア史上初の民選大統領となったボリス・エリツィンです。ソ連末期に急進派の指導者となったエリツィンは、自ら前面に立って保守派クーデターに対抗するなど、ソ連解体の立役者として活躍しました。しかし、独立後に彼が推し進めた改革は、ロシア社会に強烈な苦痛を強いることになります。今回は、初代大統領エリツィンと新生ロシアの歩みを見ていきたいと思います。

1.エリツィンとソ連の崩壊

ボリス・エリツィンは、1931年にウラルの農村に生まれ、スヴェルドロフスク州の地方のエリート党官僚として活動していました。1985年、書記長に就任したゴルバチョフによって、モスクワに招かれたエリツィンは市党委員会第一書記に登用されます。これはペレストロイカ推進のための人事でしたが、エリツィンはより急進的な改革を志向し、やがて党指導部を批判するようになったため、わずか2年で同職を解任され、さらに党政治局からも追放されてしまいます。

ボリス・エリツィン(1931-2007)
身長1m90㎝の巨漢。好きなことは飲酒とテニス。ソ連最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフとは、同じ生年、スターリンによって近親者を弾圧された過去、党の地方エリート出身といった共通点を持つ。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5377886

しかし、エリツィンは改革派として国民からの人気を博し、89年に行われた人民代議大会選挙では、得票率90パーセントという圧倒的支持を得て人民代議員として中央政界に返り咲きます。90年にはロシア最高会議議長に就任し、翌年に行われた大統領選挙では、ロシア史上初の民選大統領に選出されました。さらに、同年8月、ゴルバチョフの改革を行き過ぎと判断した保守派によるクーデターが起こると、エリツィンは自ら先頭に立って国民に徹底抗戦を呼びかけ、クーデターは失敗に終わらせました。

戦車上に立ち、国民に呼びかけるエリツィン

このクーデターを受け、ウクライナがソ連からの独立を決定すると、エリツィンも連邦解体へと一気に傾きました。同年12月8日、エリツィンは、クラフチューク(ウクライナ)、シュシケヴィチ(ベラルーシ)とベロヴェーシの森で秘密会談を行い、ソ連解体CIS創設に合意します。こうして連邦の解体は決定的となり、12月25日のゴルバチョフの辞任以降、ロシアは独立国として歩みを進めることになりました。

2.ショック療法

1992年1月、エリツィンは新たな経済改革戦略を発表しました。それは価格の自由化国有企業の民営化を主軸とする急進的な市場経済化であり、新古典派の経済理論を基に、IMFや世界銀行のエコノミストたちによって考え出された経済政策でした。国内経済に大きな負荷をかけるものの、それを耐え忍ぶことができれば、短期間のうちに体制転換が可能であるとするこれらの政策は、「ショック療法」と呼ばれました。

エゴール・ガイダル(1956-2009)
右の人物。若手急進改革派であり、エリツィン政権期の副首相、第一首相を務め、「ショック療法」を推進した。
By Photograph Paul Belien - Flickr Stream Luc Van Braekel, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=57073223

しかし、ロシアはこの「ショック」にとても耐えることができませんでした。社会主義体制下で低く抑えられていた食糧価格は一気に高騰し、ハイパーインフレーションが国民の生活に打撃を与えました。この影響で多くの企業は支払い困難に陥り、企業間の未払い、給与・年金の遅配が常態化しました。

また、政府は民営化に向け、国民に私有化クーポンを配布して国有企業の株式購入を促そうとしました。しかし、多くの国民が目先の生活費を求めてクーポンを売却したため、国有企業は一部の人々の手に集中することになりました。94年以降は、競争入札による政府保有株式の売却が行われましたが、談合などの不透明な取引が相次ぎました。

独立後の5年間でロシアのGDP3分の2にまで減少し、消費者物価は96年までに2000倍以上になりました。しかし、経済がこうした厳しい状況にあっても、ロシア政府は緊縮財政などのIMFが課した制約のため、有効な策を講じることができませんでした。

1989年からのロシアのGDPの推移
By heycci - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38620627

3.オリガルヒの台頭

エリツィンによって急速に進められた市場経済化政策によって、圧倒的大多数のロシア人は困窮する一方で、巨万の富を手に入れた人々が現れました。彼らは、ソ連時代の国有企業の企業長や支配人が民営化後もそのまま経営者となったり、国有企業を安価で買いたたいて富を築いた人々でした。これらの富豪たちは「寡頭制」を意味するロシア語から「オリガルヒ」と呼ばれます。

ガスプロム本社ビル
エネルギー資源が豊富なロシアでは、二束三文で民営化された石油、ガス、金属工業などの分野の企業が莫大な利益を生み出すことになった。

代表的なオリガルヒとしては、ソ連時代のガス工業大臣から国家コンツェルン「ガスプロム」の社長へ横滑りしたヴィクトル・チェルノムイルジン、元ソ連石油工業大臣次官で国際石油コンツェルン「ルクオイル」を創設したヴァギド・アレクペロフ、乗用車、航空機、石油、アルミニウム、マスメディアなどの諸分野の企業を乗っ取ったボリス・ベレゾフスキーなどがあげられます。

エリツィンはこうしたオリガルヒを優遇する政策をとりました。93年12月の大統領令ではガスプロムやルクオイルなど20ほどの企業・銀行が「金融産業グループ(FPG)」として認定され、その2年後にはFPGへの投資の金融支援、関税免除を規定した「FPG法」が成立しました。しかし、こうした優遇政策は、オリガルヒの政治への介入政府とオリガルヒの癒着を生み、汚職や腐敗の温床となっていきました。

ボリス・ベレゾフスキー(1946-2013)
元々は数学を専門とする学者であったが、自動車販売会社ロゴヴァズを創設し、中古外車の高額転売で巨利を得た。エリツィンの娘婿ユマシェフを通して大統領に接近、配下のメディア業界を利用して大統領選挙にも影響を与えた。
By unknown - Original publication: unknownImmediate source: http://www.famous-entrepreneurs.com/boris-berezovsky, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=46883787

4.大統領と議会の対立

急進的な経済政策は国民の反発を招き、さらにその強引な政治指導から議会でもエリツィン批判が強まりました。エリツィンと議会の対立は次第に先鋭化していき、93年9月、ついに人民代議員大会・最高会議の解散し、暫定的な大統領統治を導入するという大統領令を発布されました。エリツィンによる「上からのクーデター」に対し、一部の議員は反発して議会ビルに籠城しました。しかし、エリツィンは妥協する姿勢を示さず、議会ビルに砲撃を加え、武力によって鎮圧しました。

砲撃される議会ビル(1993年10月4日)

12月12日、エリツィンによる憲法草案が国民投票にかけられ、58パーセントの賛成票を持って可決されました。この新憲法は、「スーパー大統領制」と評されるほど、大統領に首相任命権や議会解散権などの強い権限が与えられていることを特徴としています。こうしてエリツィンは権威主義的な支配体制を確立しました。

しかし、その後もエリツィンは議会において安定した基盤を築くことはできませんでした。憲法投票と同日に行われた下院選挙では、政権与党は第一党となったものの3割の議席を得たに過ぎず、共産党自由民主党といった野党が過半数を占めることとなったのです。特に共産党は2年後に行われた第二回選挙でも躍進し、反政権の急先鋒となっていきました。

ゲンナジー・ジュガーノフ(1944-)
93年の再建当時から現在に至るまでロシア連邦共産党委員長を務める。共産党はエリツィンへの権力の集中、市場原理の強引な導入に反対し、議会第一党にまで登り詰め、ジュガーノフは96年の大統領選挙では最後までエリツィンと競い合った。
By I, Lite, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2522769

5.エリツィン時代の終焉

「ショック療法」による経済の悪化、貧富の格差の拡大、汚職の横行、治安の悪化などにより、エリツィンは国民からの支持を失っていきました。そのため、1996年の大統領選挙に際して、エリツィンは野党第一党・共産党の推薦するゲンナジー・ジュガーノフ候補に敗れるのではないか、という予想さえ出回っていました。

反エリツィン集会(1998年)
大統領再選後もエリツィンの人気は低迷し続け、支持率は最終的には2パーセントにまで落ちた。
By Бахтиёр Абдуллаев - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=37580211

共産主義への逆戻りを危惧する改革派と、ジュガーノフ大統領誕生によって全財産を失う可能性があるオリガルヒが結託して全面的に支援したことで、エリツィンは辛うじて再選を果たすことができました。しかし、彼はすでに65歳という高齢(当時のロシア人男性の平均寿命は57歳)で、さらに、持病の心臓病、過度のアルコール摂取による肝臓・腎臓の障害、免疫力の低下など健康悪化が深刻化していました。このため、再選後は治療と療養に時間をとられ、クレムリンにはほとんど登庁せず、執務が困難な状態になっていました。

こうした中、98年にはアジア通貨危機を原因とする金融危機が起こり、ロシア政府はデフォルトの危機に直面しました。これをきっかけに政治も迷走し、2年間で4人もの首相を次から次へと更迭されていきました。そして、任期が残り半年となった1999年末、エリツィンは突如辞任を発表します。テレビで行われた辞任演説で、彼は「夢と希望を実現できなかったことを許してほしい」と、国民に謝罪しました。こうして、90年代を通して続いたエリツィン時代は幕を下ろしたのでした。

クレムリンを去るエリツィン(1999年12月31日)
エリツィンの左隣には、大統領代行に指名されたウラジーミル・プーチンが立つ。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5385425

6.まとめ

急進派のリーダーとして人気を獲得し、ソ連を解体へと導いたエリツィンでしたが、新しいロシアにおける指導者としては、全くうまく振舞うことができませんでした。彼は何かを破壊する能力に長けていも、何かを創造することは大の苦手だったのでしょう。ソ連末期のゴルバチョフ時代に続き、経済の困窮と政治の混乱が続いたエリツィン時代も、ロシア人にとって「悪い時代」として記憶されています。

新生ロシアの指導者として、エリツィンがもたらしたのはなんだったのか。それはなんといっても「強い大統領制」だったのではないかと思います。共産党支配には抵抗したものの、エリツィン自身はとても民主主義を重んじる人間とは言えず、むしろ権威主義的な統治を志向していました。その結実が「スーパー大統領制」だったのではないでしょうか。そして、この「強い大統領制」はその後のロシアにも引き継がれ、その権限をさらに増すことになります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

※タイトル画像の出典
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5377890


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