医者が病院を辞めた日⑩

人間の時間は、円く回らず、一直線に進む。そこに人間の苦悩の全てがある。

ミラン・クンデラ

私は、常々、人に時間を貸せと求めるものがおり、求められるほうはいとも簡単に貸し与えてやる者がいるのを見て、驚きの念を禁じ得ない。

セネカ 生の短さについて

今の僕の生活は、週に数時間非常勤(いわゆるバイト)の医者の仕事があるだけで、ほとんど自由時間です。
大半の時間は、物思いに耽ったり、運動と読書と勉強と散歩しながら、人生のパートナーである鳥と過ごしています。
この生活になってから2年になります。

病院を辞める前に、病院で勤めることで感じていた違和感について、紹介しています。

医師の仕事は救急などを除き、ほとんどは、ルーチンになっています。

もちろん、緊急の時に素早く動ける必要はあります。

ほとんどの人は、就業時間前から来て準備しています。
おいおい当たり前だろって思うかもしれません。

僕自身は、始業の1時間半前から来て、その日の予定を全て把握し、準備していました。

ただ、手術も含めて、医師の仕事の多くは、判断や決断することが多くを占めるのです。

救急などの場合は、考えている時間をできるだけ短くするため、かなりアルゴリズム化が進んでいます。特に心肺停止の時、心肺蘇生術は決められた手順通りできることが求められます。

判断や決断が極めて早く行われないといけない領域ももちろんあります。

ただ、外来や病棟での管理業務、僕のように病気の診断に関わる業務は、一刻一秒を争うものではありません。
冷静な判断、見落としがないかどうかのチェックなどが大切になるわけです。

これは、僕が当時から抱いていた意見です。

ピッタリ始業時刻に合わせて始めないといけない根拠などない。

判断の質が求められる、ある意味頭脳プレーの仕事で、別に慢性的に一時間二時間遅れていいとは言わないが、時刻が少しぐらい前後しても、システム上大きな問題は起こらないと考えます。

何が言いたいかというと、
「ピッタリ始業時刻に遅れない」ことを絶対化すると、
医療現場の雇われ人が遅れないようにするには、膨大なコストをかける必要があります。

遅れないようにするために、電車を一本早くしないといけない、
余裕を持って早めに準備せねばならない、何なら早く寝ないといけない。

長い休みの時、好き勝手生活してみてください、
寝る時間や起きる時間は±30分以上はズレるはずです。
1日1日コンディションが違います。

生理的なズレで、もちろん正常です。

ピッタリ遅れないようにするためには、このズレを加味してスケジュールを立てるということになります。

つまり、時間厳守によって、生活のさまざまなスケジュールが決まってきてしまい、仕事以外の時間の多くも仕事に規定されるということが起きています。

想像してみましょう。
時間より早く仕事場に到着するのはノーコメントであるのに対して、少しでも遅れると、電話で連絡せねばなりませんし、それが何回も続くと、問題になったりします。
一方、仕事が少しでも超過するのは、ノーコメントであるのに対して、仕事が全部終わったからといって、医療現場では少し早く帰宅することは認められていません。

時刻より早い時と遅れる時、対応に明らかに非対称性があります。

個人の時間と組織としての仕事の時間が等価ではありません。
明らかに雇われ人側に都合の悪いように作られた規則になっています。

これをお話ししても、ほとんどの人には、ぽかんとすると思いますが、

企業や組織の経営管理をすると、はっきりと理解できます。
僕も会社を経営していますが、このインセンティブはわかります。

雇われ人の時間をできるだけ制限し、余計なことしないで一定の出力を出してもらいたい、
でも不足のことがあったら、雇われ人のサービスで何とかしてもらいたいと思いたくなってくる、

言い方が悪いですが、皆さんも会社の経営をしていたとすると、指示に従って、自分の時間を喜んで差し出してくれる奴隷が欲しくなってくると思います。
組織にとってはとても好都合、便利です。

ただし、金を払って大学病院で働く大学院生は例外です。
(僕の友人に、奴隷制度ですらなく人類社会にほとんど例を見ないこの労働システムを紹介すると、非常に適切なコメントをくれました、「それはカルト教団だね!」)

できれば、雇われ人に自身が奴隷だと気づかないで、言いなりになって欲しいと願います。
皆さんの職場では医療現場とは違うかもしれませんが、人員が足りなかったり、業務時間で仕事が終わらなかった問題を、同僚や直属の上司の愚痴として聞いたことはありませんか?

本当の原因の所在から逸らせて、自分たちのチームでの問題と認識してくれて、内輪でケンカしてくれるのは大変ありがたいのです。

仕事が人生のほとんどのような感覚がするのは、こういったメカニズムの存在もあると思います。実際仕事(でのいい加減な規則とか)が、仕事以外の人生も多く決めています。

時間というとても高いコストをジャブジャブ支払っています。

もう少し未来を想像しましょう。
自分がお年寄りで病気になった時、昔の仕事や職場、就業規則含めて何もかも消滅した世の中で、昔を振り返って何と思うでしょう。

奴隷を辞めることを心に決めました。

ちなみに、僕の今の仕事上の契約は、全て遅刻しても良いという内容になっています。