医者が病院を辞めた日⑦

天文学者サイモン・ニューカムは、(中略)自然界にある測定値や定数の先頭の桁は、大きい数字よりも小さい数字が多いことを認識した。そして、それについて短い論文を発表して、先へ進んだ。

実用的でないPythonプログラミング 第16章ベンフォードの法則で不正を見つける より

今の僕の生活は、週に数時間非常勤(いわゆるバイト)の医者の仕事があるだけで、ほとんど自由時間です。
大半の時間は、物思いに耽ったり、運動と読書と勉強と散歩しながら、人生のパートナーである鳥と過ごしています。
この生活になってから2年になります。

病院にいた頃、周りを見てきづいたことがあります。

ほぼ全員の人は大人になると、進歩なんかほぼしません。
一年前とだいたい同じ人間のままです。

医療の世界でも同じようなことが当てはまります。

研修医や専攻医の時は新しい職場で、新しい仕事を覚えていくので、年々変わっていきます。
その時は例外です。

年を追うにつれ、仕事も仕事以外の時間も、メンテナンスに取られる比率が上がります。
仕事のメンテナンスのための会議、人間関係のメンテナンスのための食事。

メンテナンスは楽です、短い時間のブロックでどんどん処理することができるからです。やった気にもなれます。
基本的にそんなにストレスはかかりません、自分の限界を越えるなんてこともないですよね。
ほとんどの医者がある一定以上の年齢になると、医者としての仕事そのものではなくメンテナンスの肩書ばっかりになります。〇〇センター長、〇〇診療科長、副院長。
ある管理職のスケジュールを院内端末で見たら、毎日会議が詰め込まれていました。

ある日自分にとって全く新しいものを発見し、素早くインストールしようとすると、学生の時や駆け出しの頃より、反応が鈍いことに気づくと思います。体力のせいではありません。

「進歩」の実際について、想像を巡らしてみましょう、
新しい技能を習得しようとするとき、仮に少なく見積もって20時間必要だとします。
平日は夜帰ってくるので、土日が完全に休み(そんな医者はほぼいませんが)だとして週末にやる計画を立てます。片方1日3、4時間割ければいい方で、週末にしかできない他の用事(子供をディズニーに連れていくなど)もありますから、結局終わるのは数ヶ月先です。

そう、小さな計画を終わらせるだけで、達成するのは季節が変わるくらいになります。
1回週末に手をつけて、次に手をつけるのが3週間後だと、忘れていますよね。
積み上がっていきにくいですよね。

まだあります、トイレの修理、車検、銀行振込など、偶発的なタスクが他にも同時並列で発生してきます。これらのタスクも、1回週末を先送ると、なんだかんだで数週間後になったりします。

ちなみに、期限厳守のものを忘れると、ペナルティを支払わないといけなかったり(僕は確定申告を忘れたことがある先輩を2人知っています)、もっとめんどくさいことが起きる可能性もあります(虫歯を放置して、神経を抜き取る処置のハメになります)
少しでもミスると、どんどんやることやコストが増えていきます。

本当に進めたいことも、偶発的に発生するやらなきゃいけないことも、すぐには始まらないし、終わらないです。やろうと思った時、スケジュールは先々まで埋まっています。

つまり、大人は、何をやり始めるにしろ、ノロノロ運転なのです。
荷物を満載したトラックのようです。

これが、ほとんどの人が一年前と同じ人間であり続ける実像なのでは、と気づきました。

さらに、病院勤めの時、日々の行動をつぶさに記録して、物事に腹立たしいほど手が進まない本当の原因は何かと分析し、やっと仮説に辿り着きしました。

結論は、ずっと平日仕事をやっているから、です。

医者の仕事は必要人数ギリギリで余剰がありませんから、平日は基本張り付くことになります。(ほとんどの人は休日も)この間、やらなきゃいけないことも、自分の進めたいことも両方進まなくなります。社会システム上、平日に制約されることも多いんですよね、平日みんなが殺到してすぐにアクセスできないサービスも(銀行窓口、エアコンの修理)

平日に自由があれば、1日で終わるタスクは発生するたびに速やかに終わらせることができます。(もちろん有給はそんなことに使いたくありません、使うなら旅行です。)

自分のプロジェクトもやらなきゃいけないタスクにもまれにくくなり、直ちに始めやすくなるのではと思いました。

実際、ある年の長期休みの1週間ほどの間に、普段着手すらおぼつかないタスクやプロジェクトが全て終わるか試しました。
休みの最後の日、全てにチェックがついたToDoリストを目にして、僕ははっきりと、何が起こっているのか、どうすればいいかを理解しました。

小さな実証が済み、先へ進むために、あとは実行するだけとなりました。

続く