医者が病院を辞めた日①

「ねえ君、人生というものは、人の考え出したどんなものにもまして、不可思議千万なものだねえ。
我々の思いもよらないようなことが、実生活では平凡極まる実在としてゴロゴロしてるんだからなあ。
たとえば、いま2人が手に手をとってあの窓から抜け出しこの大都会の上空を飛行し得たとしてね。家の屋根を静かにめくって、中でいろいろなことの行われているのをのぞいてみると仮定しよう。
そこには奇怪極まる偶然の暗合とか、いろんな企みとか、反目とか、そのほかの思いもよらぬ出来事が、それからそれへと連綿と行われており、そこからまた奇怪な結果が生み出されるというわけで、
それに比べたら、小説家の考え出した月並みですぐ結末のわかる作品なんか、気のぬけた、愚にもつかぬたわごとに過ぎないと思うよ。」

1890年ごろ 大英帝国 ロンドン ベイカー街221B号室にて 

シャーロックホームズ 花婿失踪事件

今の僕の生活は、週に数時間非常勤(いわゆるバイト)の医者の仕事があるだけで、ほとんど自由時間です。
大半の時間は、物思いに耽ったり、運動と読書と勉強と散歩しながら、人生のパートナーである鳥と過ごしています。
この生活になってから2年になります。

生活を変えた動機はたくさんありますが、そのうちの一つをお話しします。

仕事で同じことをしている時間が長いと思っていました。

平日朝から夕方まで同じところで働いている間、
僕のみていない世界では、思いもよらない変化が起きているのではないだろうか、
その瞬間を見逃しているのではないだろうかという疑問が頭から消えませんでした。

スマホを見ながらでも、正確に往復できる通勤経路から、いつもは通らない路地に入ると別世界のような気がしますよね。
逆に、サラリーマンで毎日通っている道から一歩でも外れたことがある人はどれだけいるのでしょうか。

画像診断を学んだ時、私に教えてくれた上司は、自分の感じた予想外な出来事を全てノートに書いて記録していました。
僕もやり始めてしばらくして、患者の中で病気の典型例はむしろ少数で、不可思議なパターンの方が多いことに気づきました。

ピンと来ないかもしませんが、例えるならば
後ろ姿を見て、間違いなく自分の母だと思ったシルエットが、実は犬だった、みたいな感じです。
錯視や錯覚に近いイメージです。
経験を積んだ今でも、消えるどころかむしろ増えているような印象さえあります。

僕はそういったパターンの多さに驚愕しました。
まるで、自分の理解の及ばない出来事が、次々とマグマのように噴き出てくる感じです。

病気の起きた人の過去の記録を見ていると、
良かれと思って処方した薬や、手術が、巡り巡って命取りになったり、
頭で考えたことが、全然その通りにいかない例に幾度となく出会いました。

でも、人によっては、非典型例には気にも留めなくて、典型例を正しく診断したり、褒められたりして出世したり名声を得た方が満足に感じる人もいるのでしょう。僕にとってはクソくだらないものです。

PCの狭いモニターから患者の体を見つめていましたが、僕にとってはさながら世界への窓でした。
やがて、病院の中でも、こんなに多彩な出来事が起こるのなら、外の広大な世界ではもっと複雑なことが起こっているに違いない、と推察するようになりました。

自分の人生はどうせ終わるので、それなら世界の営みをできるだけ見ておきたいと思ってきました。
例えるならば、ディズニーに行って、時間が限られているのに、一日中ビックサンダーマウンテンに乗り続けず、もっといろんなアトラクションを回ろうよってなりますよね。そんな感覚です。

そのためには、どうしても時間が必要でした。

時間を作るために、数年前から考え抜いたポートフォリオを設計し、辞める日に備えました。
そのポートフォリオはリスクを積極的に吸収し、傍目には頑強に見える不思議なシステムになっています。これに支えながら、想像もつかなかった世界に一歩を踏み出すことができました。

孤島に住んだままでも何不自由ないのに、船を自作して食料と釣り道具を積んで、出航するような感覚です。
まだ旅は続いています。

続く