人間は抵抗する生物か?

 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の著者として知られているラウル・ヒルバーグは、1992年に『加害者・犠牲者・傍観者』を出版した。1961年に初版が出た『絶滅』においてヒルバーグは、国民社会主義による大量虐殺がどのように進行していたかを、一つ一つの出来事を丹念に追いながら解明したためにこの分野の研究においてゆるぎない地位を確立した。それに対して『加害者・犠牲者・傍観者』は、題名から察せられるように「出来事よりも人々に焦点を当てた著書」だった。
 66歳になっていたヒルバーグにとって、この新著は言わば集大成として送り出したものだったろう。しかしながら、第三帝国期に起こったことを研究するにあたって必ず読まなければならない本を生み出したこの大家が、満を持して新作が出したにもかかわらず、世間はほとんど気づかなかったらしい。

 九月二〇日の日曜日の朝、私はボストン行きの飛行機に乗り込んだ。ボストンに着いたときも、まだ午前中だった。かつて私自身が書評を書いていた『ボストン・グローブ』紙を一部買ってみたが、私の本のことは何も取りあげられていなかった。それから午前中に開いている唯一の大型書店バーンズ・アンド・ノーブルを訪ねてみたが、そこにも私の本は置かれていなかった。

ラウル・ヒルバーグ『記憶』柏書房p13

 自著が世間にまるで相手にされていないと気づく前、ヒルバーグはある書評を読んでいた。『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された文章にて、彼の新著はあまりに厳しい批判を浴びせられていた。曰く、『絶滅』の初版は確かにきわめて優れた仕事だったが、「いったいこれだけの大著を完成させてしまった人間は、その後何をするのだろう」。その証拠に、1985年に改訂された『絶滅』の第二版には「失望」した者もいた。今回出た新著だってそうだ、「新しい資料と新しい疑問点をもとに新しい研究を行った若い研究者たちから距離を置き、『お高くとまっている』」……ヒルバーグはその書評に少なからずショックを受けたが、彼は間もなく、わざわざ本を読むための暇を取ってもらっただけでもマシだったと悟ることになったのだ。

 私はホテルに戻り、「ラスト・ハラー(有終の美)」という名のレストランの二階の部屋で昼食を取った。食事は思いがけなく美味だったが、それ以上に素晴らしかったのは部屋を満たすギターの響きだった。私は、そのギタリストが美しく奏でるフランシスコ・タレガの《アレハンブラの思い出》に聞き入った。突然、言いようもない悲しみに包まれた。「そうか、これで終わりなんだ。これから先、何が起ころうと、これが本当の終わりなんだ」その瞬間、私は孤独のなかで自分の人生に別れを告げた。

同p13

 そして1995年、ヒルバーグは『The Politics of Memory(記憶の政治学)』と銘打った自叙伝を出版した。この自叙伝の第一章では、上で見たような『加害者・犠牲者・傍観者』の惨憺たる結果が回顧されている。
 普通、こういった調子ではじまる自叙伝を読む際に人はきっと、そこではヒルバーグが自らの来し方を静謐に振り返っているのだろう、と予想するはずだ。かつては手に取るのもひるむような大著を出版してまで積極果敢にナチスの犯した大罪を暴くほど意気軒高だった人間が、老いるとともにかつての輝きを失っていったことを白状しているからには、晩年をせめて穏やかに過ごせるように心温まる出来事ばかりを振りかえるような本になっているのではないか、と。
 しかし、ページをめくるにつれてそうした予断はあっさりと裏切られる。『記憶の政治学』は、端的に言えば論争の書だ。ヒルバーグは『絶滅』を出版して以降、様々な困難を経験していた。時には『絶滅』に書いた内容がまぎれもない歴史的事実にもかかわらずなぜかその事実を否定しようと躍起になるユダヤ人に立ちはだかられたり、時には『絶滅』の出版にゴーサインを出さなかったハンナ・アーレントがなぜか『絶滅』に頼りながらアイヒマン裁判のレポートを書いたり、時には自著の一部分がそっくりそのまま自称歴史家によって剽窃されたり、時にはユダヤ人評議会の議長の日記を出版しようと企図したところヤド・ヴァシェムに横槍を入れられたり……そういった数々のスキャンダラスな出来事が、『記憶の政治学』には何のためらいもなく記されている。
 つまりヒルバーグは、第一章において「そうか、これで終わりなんだ。これから先、何が起ころうと、これが本当の終わりなんだ」と書いたくせに、論争こそが自分の人生を形作ってきたのだから結局自分は論敵と戦うことをやめられないのだ、と開き直っているかのような激しい調子で自叙伝を書いているのだ。
 本稿ではその中から、彼が大量虐殺を語るにあたって何としても譲れないポイントとして挙げた主張を取りあげながら話を進めていく。

1.ユダヤ人はドイツ人に抵抗したのか

 なんの実績もない若手研究者が本を出す時にはよくある話だが、『絶滅』は1954年にすでにおおよその原稿が仕上がっていたにもかかわらず、出版まで7年を要する羽目になった。1000ページを超える大部の原稿を出版してくれる会社を探すために、ヒルバーグは様々な交渉を経なくてはいけなかったのだ。
 1954年にヒルバーグは原稿の一部をコロンビア大学に提出し、博士号を取得するのと同時に、論文の出版を保証してくれる賞にも輝いた。しかし大学出版局では「受賞の対象となった部分のみ」の出版に限っており、ヒルバーグの原稿のすべてを本にするには「どこかの基金から補助金をもらわなければ」ならなかった。そこでフィリップ・フリードマンという博士論文の審査員が、ヤド・ヴァシェムにお墨付きをもらって補助金を獲得してはどうかと勧めてきた。フリードマンはポーランド出身のユダヤ人で、ナチスの占領中はゲットーの外で身を隠しながら難を逃れた人だった。
 1958年にヒルバーグはエルサレムに向けて完成した原稿を発送したが、ヨーロッパユダヤ人の大量虐殺を記憶するために作られた記念館からの返事は芳しくなかった。「数多くの優れた点が認められるものの、一方、何点かの欠陥もあることが指摘されました」と書かれた手紙には、二つの指摘がなされていた。

一 貴君の研究は、ほとんどドイツ側の資料に転居しており、被占領国の言語、あるいはイディッシュ語、ヘブライ語で書かれた原資料を活用しておりません。
二 当機関のユダヤ人歴史家は、貴君が到達した歴史的結論に――この事件以前の時代との比較に関しても、ナチ占領下におけるユダヤ人の抵抗(積極的であれ消極的であれ)に関する貴君の評価に関しても――同意しかねております。

同p127-128(強調引用者)(注1)

 その後紆余曲折あった末に(注2)、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』は1961年にランダム・ハウス社からどうにか出版された。最初は「二段組み八〇〇ページ」の本を読む気力がある者などほとんどいなかったせいか、まともな書評に恵まれなかった。が、そんな中でヒュー・トレヴァー=ローパーが『コメンタリー』に寄せた「八〇〇〇語」の紹介は、ヒルバーグをして「内容把握は完璧」と言わしめるものだった。『ヒトラー最後の日々』で知られる歴史家は一方で、ヒルバーグを終生の論争に巻き込むこととなる懸念点もとりあげていた。

私〔ヒルバーグ〕はユダヤ人組織をドイツ官僚機構の延長とみなしていたから、〔『絶滅』の〕叙述の中にはユダヤ人社会の行動も含まれていた。論理上、ドイツ人がユダヤ人側からの協力にかなりの部分を頼っていたことを考慮に入れざるを得なかったのだ。神、王、法律、契約を信頼するユダヤ人伝統についても考察しなければならなかった。最終的に、経済的に利用価値のある者を遂行者が破壊することはあるまいというユダヤ人の計算についても熟考しなければならなかった。このユダヤ人の戦略こそは、協調を強要し、抵抗を排除したものであった。トレヴァー=ローパーは、私がこの問題を論じた箇所に特別の関心を示したのだ。彼は、一九三三年から戦争の終結に至るまでのユダヤ人社会の指導体制が加害者によって新しく設立された寡頭制ではなかったことにいち早く気づいていた。そして、ラビのレオ・ベックが一九三三年以前からドイツのユダヤ人の指導者であったこと、またドイツが占領した国のユダヤ人評議会によって処理された管理業務はドイツ人官僚の仕事量を軽減したこと、そしてユダヤ人の抵抗はほとんど見られず、ドイツ人の戦死者もほとんど皆無だったことにも。彼は自らの絶滅過程でユダヤ人が積極的に果たした役割を「最も驚くべき発見」と呼び、それは私の本の読者にとって「最も受け入れたくない」ものになるであろうと、予言めいて宣言した。

同p145-146(強調引用者)

  トレヴァー=ローパーが書評を寄せた『コメンタリー』はアメリカ・ユダヤ人委員会が発行している雑誌だったため、当初等閑に付されたはずだった『絶滅』は論壇の俎上に載せられてしまった。アメリカのユダヤ人たちは、ヤド・ヴァシェムが示した態度をなぞるようにヒルバーグの大著に強い拒否反応を示した。『記憶の政治学』曰く、論敵は「死者を冒とくする」「不敬」などと並べたてる割に「理論的脆さ」を含んだ論文でもってヒルバーグを攻撃した。やがて論敵は増えていき、ドイツやイスラエルのユダヤ人にとっても『絶滅』は攻撃の対象となっていった。

 いったい、なぜヒルバーグは彼自身がユダヤ人であるにもかかわらず、ユダヤ人から罵声を浴びるようになってしまったのだろうか? それは(先の引用の強調部分でわかるように)彼が『絶滅』において、ユダヤ人はむしろドイツ人に協力さえしていたと同時に、ほとんど抵抗しなかったと暴いてしまったからだった。大多数のユダヤ人が抗いもせずに犬死していった――この事実は戦後を生きるユダヤ人のプライドを大きく傷つけるものだった。
 そのため『絶滅』の発表以降、少なからぬユダヤ人学者は実はユダヤ人は抵抗していたのだと証明しようと躍起になった。

例えば、アルノ・ルスティガーは、レジスタンス闘士のリストのなかに連合軍側で戦ったユダヤ人兵士や、果てはスペイン市民戦争――それは第二次世界大戦が始まる前に終結していたのだが――の外人部隊に参加したユダヤ人まで加えていた。多くの場合、抵抗運動の定義さえ修正される。ドイツ当局が移送が始まる前のゲットーの運営に必要な活動として許可していた、ゲットー住民に対する給食活動や看護活動のようなものまで抵抗運動と呼ぶために……。一九六八年にヤド・ヴァシェムが開催した学会で、バー・イラン大学のメイア・ドヴォルイェツキ教授は「ゲットーと収容所の日常生活における抵抗運動」と題した論文を発表し、親族や職場の仲間への忠誠のために、「自分一人が例外になりたくないという願望」のために、「死ぬなら家族全員一緒に」という思いのために、「人々が拒否した逃亡の機会」を列挙して見せたのだった。マーティン・ギルバートは一九八五年に出版した『ホロコースト』の最後を次の文章で締めくくっている。「無抵抗でいたことさえ、抵抗の一つのあり方だったのだ。威厳をもって死ぬことも、抵抗の一つの形ではなかったろうか。そしてただ生き残ることさえ、人間の精神の勝利であったのだ」

同p155

 さらに1963年、『エルサレムのアイヒマン』が出版されると、ハンナ・アーレントとともにヒルバーグは世界のユダヤ人にとっての敵となっていった。
 世間一般にはアーレントがユダヤ人との間で論争を引き起こした理由として、彼女がアイヒマンを評した際に「悪の凡庸さ」という言葉を用いたところ、それが誤解されてしまったからだと説明されやすい。だが、実はそれ以上にユダヤ人の逆鱗に触れたのは、雑誌連載中から話題になっていたアイヒマン裁判のレポートによって、戦中にドイツ人に協力したユダヤ人評議会の存在が暴かれてしまったからだった。彼女は『ニューヨーカー』に掲載されたレポートに、自らの論旨を支える典拠としてヒルバーグの名前を挙げたために『絶滅』の論敵は余計に増えたのだ(注3)。

2.抵抗を前提にすることで見えなくなってしまうもの

 『絶滅』の刊行後30年以上にわたってヒルバーグは、ユダヤ人が大量殺戮に際して抵抗したのかという論点をめぐって、多くの人物と論戦を繰り広げてきた。ヒルバーグは自説を曲げなかった。それは数多くの資料を読みこむ中で浮き彫りになった事実だったから、否定する方がおかしな話だった。と同時に彼は、そうした受け入れがたい歴史的事実を直視しなければ第三帝国期に起こったことは正しく認識できなくなる、と考えていたからこそ変節を断固拒んだのだ。
 ヒルバーグは建国後のイスラエルで、ユダヤ人によるレジスタンス「活動が誇張され、大衆受けするようになったこと」を踏まえながら、以下のように述べている(注4)。

 言うまでもないことだが、私はこの美化キャンペーンには疑問を感じた。どちらかというと散発的な抵抗運動が典型的な姿として描かれると、ドイツの政策の基本的な性格がぼやけてしまうからだ。人々はユダヤ人の絶滅をもはや「過程」として思い描くことができなくなってしまう。その代わりに、男も女も子どもも非情に殺害されてしまった極端な現実は、心のなかではもっとわかりやすい――いかに不均衡なものであったとしても――兵士の間の戦いの図に置き換わってしまうのだ。

同p156

 ナチスはしばしば殺戮対象を「敵」と呼んでいたが、それにひきずられてドイツ人とユダヤ人との間に戦争が起きていたかのようにイメージすると、「ドイツの政策」によって展開された「過程」がどのようなものだったかを見誤ってしまう。人はイメージに基づきながら過去を表象しがちであるという点に警戒を怠らなかったヒルバーグにとって、ユダヤ人とドイツ人の間に「戦い」など起こっていなかったと強調することは、歴史を冷静に見据えるためには欠かせない作業だった。
 それだけでなくヒルバーグにとって、ほとんどのユダヤ人は抵抗しなかったと認めることは、戦中のユダヤ人のあり方を正しくとらえるためには否が応でも前提にしなければならないことだった。

 最後に最も重要な点は、抵抗運動を持ち上げ、称賛することで、ユダヤ人のゲットーや収容所での現実がどのようなものであったかを不明瞭にしてしまうことだ。最も知的で洗練されており、観察力の鋭い大破局の目撃者の一人にプロニア・クリバンスキがいる。彼女は、ポーランドのピアリストック(ピアウィストック)の周辺で、ユダヤ人のレジスタンス・グループのために連絡役を務めていた。一九六八年に私と話したときに、彼女はレジスタンス闘士と実際は全く戦わなかった人々を同等――彼女はGleichshaltung(画一化)というドイツ語を用いた――に扱うことに対する躊躇を示した。彼女にとって、二つのグループを一緒にすることは、用心深くて優柔不断なユダヤ人のコミュニティーにおける数々の問題を不明瞭にしてしまうだけでなく、そのコミュニティーとそこで採用された生き残り戦術に関する多くの疑問を封じ込めてしまうことにもなるのだ。これらの疑問が解明されない限り、ユダヤ人の真の歴史は書かれないだろうと、彼女は言った。

同p158-159

 断っておくが、これはいわゆる「犠牲者(被害者)非難」とはまったく関係のない話だ。論敵はしばしば誤解したようだが、ヒルバーグは「ユダヤ人にも悪いところはあったから虐殺は起きてしまったのだ」という話をしているわけではない。彼はほとんどのユダヤ人が抵抗しなかった事実について、なんの価値判断も行っていない。ヒルバーグが重視するのはあくまでも事実判断であって、ユダヤ人がどのような「生き残り戦術」を「採用」したからこそあのような出来事が起こってしまったのかを明らかにすることなのだ。

 このように、ヒルバーグは論敵に抗しながら、大量虐殺の歴史を考察するための方針を一貫し続けた。筆者としては、ヒルバーグのこうした姿勢は大変参考になるものだと思う。
 だが同時に、僭越を承知で言えば、ここであえて彼の主張に一つ付け加えたい思いに駆られる。ヒルバーグは、あまりに「抵抗運動を持ち上げ、称賛する」と、「ユダヤ人のゲットーや収容所での現実がどのようなものであったかを不明瞭にしてしまう」危険性があると述べていた。この文章は、以下のように言いかえられないだろうか?
 「あまりに抵抗運動を持ち上げ、称賛すると、人間の本性がどのようなものなのかを不明瞭にしてしまう」と。
 敷衍しよう。人間は危機に際して抵抗する生き物だと前提すると、我々は抵抗しない人間が特殊例だとついつい考えてしまう。しかしながら、実際は逆なのではないか。人間は危機に際してもなお抵抗しない生き物であり、むしろ抵抗する人間こそが特殊例なのではないか? そのように前提を置き換えれば、我々は歴史のみならず、人間にまつわるあらゆる出来事をより明瞭に捉えられるようになるのではないか?

3.生存者の証言をもとに人間の性状を推し測るのは正しいのか?

 危機に際してもなお抵抗しないのが人間という生き物だ――こうした主張を聞くと、人によってはそれこそ抵抗感を抱くだろう。実際に我々は、危機に際して決然と抵抗した人間を数多く知っている。それを踏まえた上でもお前は人間を抵抗しない生物だと定義しようとするのか? そんな反対意見が聞こえてくるところだ。
 だが、落ち着いて考えてみよう。今日に生きる我々が話を聞けるのは、危機に立ち向かうことで生き延びた人々の方が多い。一方で、危機に際して無抵抗であった人々は死に絶えていく可能性が高いので、彼らから話を聞くことはなかなかできない。文字通りの生存者バイアスが作用してしまうがために、我々は危機を乗り越えた人間ばかりに目が行ってしまって、その裏にいる無数の死者を無視してしまう。だからこそ、人間は抵抗する生き物だ、などと前提してしまう可能性はないだろうか?
 それこそ、国民社会主義による大量虐殺の後に生み出された無数の証言をもとに歴史を語る際には、そうした死角に注意しなければいけない、とヒルバーグは述べている。

私の批評家たちは、〔……〕主に生還者たちの証言に興味を示している。これによる歴史証言の収集の場合には、できるだけ多くの生還者をインタビューすることに主な努力が注がれてきたのだが、この方法には必然的な限界が内在している。最初にそのような記録を取り始めてデーヴィド・パブロ・ボウダーがいみじくも言ったように、彼は「死者にはインタビューしなかった」のだ。絶滅過程に対するユダヤ人の典型的な対応と適応を視野に入れるときには、生還者が決して破壊されたコミュニティーの平均的人物ではないことに人は気づくはずだ。

同p153

 ヒルバーグ曰く、大量虐殺によってユダヤ人だけでも「五〇〇万」「が数年という短い期間に」亡くなった。一説によると、これは当時のヨーロッパに住んでいたユダヤ人の3分の2にも相当する数だそうだ。大戦期においては、死者こそが一般例であって、生存者こそが例外だったのである。そうした中で生存者の証言を頼りにしながら、たとえば「ユダヤ人は実は抵抗したのだ」だとか、「人間は危険を顧みず抵抗できる生物なのだ」とかいった意見に行き着くようでは、事態を見誤ってしまうだろう。
 それだけでなく、生存者の証言そのものも必ずしも信用を置けるものではない、とヒルバーグは述べている。

 生存者が証言するときには、概して、特定の場所とか彼らが出会った人間の名前、役職など、体験の背景となる事柄については黙っているものである。彼ら自身について語るときでさえ、自分が置かれていた経済状態、健康状態などの日常的情報に関しては、必ずしも明かそうとはしない。ゲットーでの生活とか初期の強制労働収容所での経験はあまり重要視されない。主要なテーマは移送であり、強制収容所であり、絶滅収容所であり、そして逃亡、潜伏、パルチザン闘争なのだ。当然、生還者は彼らの最も屈辱的な体験についてはほとんど語らないし、空腹、渇き、痛み、恐れを語るときは、それを聞く者は「そこにいた者でなければ、それがどれほどのものであったのかは想像できない」という暗黙の主張に直面する。

同p153-154

 惨めな過去を語るとき、人はあけすけにすべてを語るとは限らない。たとえば、SSによって列車へと連行される段階になっても抵抗しなかった人がいるとしよう。彼が後にそうした体験を振りかえろうとすると、猛烈な恥を感じるはずだ。自分は危機に際しても抵抗しなかった、という事実を改めて思い知らされるのだから。
 何より、そうした体験を誰かに話すことなどなおさら難しい相談であるに違いない。仮に話せたとしても「君はなぜ抵抗しなかったのだ?」と問われることは容易に予想がつく(注5)。その時「それは私が弱かったからだ」などと素直に言える人間がいるだろうか?
 言うなれば、生存者はたくさんの死者がいる中での例外であったというだけでなく、たくさんの証言ができなかった者がいる中での例外でもある。そうなれば必然的に抵抗した人間の証言ばかりが集まってしまって、抵抗しなかった人間の証言はなかなか拾い上げられない。こういった盲点に気づかないまま我々は、人間は危機に際すれば抵抗する生物だ、と前提してしまうのが実情なのではないだろうか?

4.抵抗を前提にしないことで見えてくるもの

 我々はついつい人間は危機に見舞われると抵抗する生き物だと考えてしまうが、それは様々なバイアスから生まれた誤謬である可能性が高い。実際は、人は意外なほどに危機に見舞われても抵抗する気を起こさない生き物であるのかもしれない。
 こういった仮説を立てれば、人間の性状を正しく見極められる可能性が出てくるだけでなく、それ以外にも様々な恩恵が得られるだろう。
 たとえば筆者は先程、「犠牲者(被害者)非難」の問題を取りあげた。犠牲者非難の典型的なパターンは、犠牲者にも悪いところはあったから今回の事件は起こったのだ、というものだ。この中には「犠牲者は本当なら抵抗できるはずだったにもかかわらず、抵抗しなかった。ならば、犠牲者にも悪いところがある」といった非難も含まれる。
 そういった非難を投げかける者は、人間は抵抗する生き物だ、という前提をもとに物事を見ている可能性が高い。彼らの口を封じこめるにはどうすればいいか?
 人間は抵抗しない生き物だと前提すれば簡単に事は済む。そもそも人間の性質を見誤っている者にこの問題に口を挟む権利はない。こうして我々は犠牲者を無根拠な非難から守れるようになり、適切な支援を向けられるようになるだろう。

 また、「人間は抵抗しない生き物だ」と前提にしておくと、加害者の罪をしっかりと認識できるようになる、というメリットも見逃せない。
 たとえば、1948年に起きたシオニストによるパレスチナ人の民族浄化の過程を見ていく上では、このような前提を立てておくと事態の重大さがわかりやすくなるだろう。
 周知のとおり、1947年11月29日に国連は決議181号を採択した。この「パレスチナ分割決議」は、簡単に言えばシオニストにとって圧倒的に有利な決定だった。当時パレスチナにはおよそ200万ほどの人口がいたが、ユダヤ人はそのうち60万、30%ほどの人しか住んでいなかった。にもかかわらず、決議ではユダヤ人国家に56%もの領土を与え、アラブ人国家には42%しか与えなかったのだ(残りの数パーセントであるエルサレムは、国連による信託統治と定められた)(図1)。それまでせいぜいパレスチナ全域のうち10%程度しか土地の購入が進んでいなかったシオニストにとって、これは棚から牡丹餅というほかないプレゼントだった。一方で、パレスチナ人にとってはあまりに不平等な採決だったことはいうまでもない。

(図1)

 にもかかわらず、パレスチナ人はこれに対して大した抗議を行わなかった。イラン・パペによると、たしかにデモやストライキ、「仲間うちの衝動的犯罪」によるユダヤ人バス襲撃はあったという。しかしながら、「三日目になると多くのパレスチナ民衆がしぶしぶ抗議を続け、明らかに普段の生活に戻りたがっている」素振りを見せるようになった。

 結局のところ、大多数のパレスチナ人にとって国連決議一八一とは、その歴史上、憂鬱ではあるがお馴染みの一幕だったのである。数世紀にわたってこの地は手から手に渡り、ヨーロッパやアジアの侵略者の支配下におかれたことも、ムスリム帝国の一部になったこともある。しかし庶民の暮らしはほとんど変わらなかった。人々はコツコツ働き、行く先々で商売し、また変化するまで新しい状況に身を任せた。ゆえに村でも都市でも住民はみなユダヤ人国家の一部とか、イギリスの代わりの体制の一部になるのがどういう意味をもつのかわかるまで、辛抱強く待とうとした。ほとんどの人は、自分たちを待ち構えているもの、起こりつつあるものがパレスチナの歴史で前例のない一幕になるとは知らなかった。単に別の支配者に変わるだけではなく、この地に暮らす人々が実際に追いたてられるということを。

イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』法政大学出版局p87

 こうした「無関心でほとんど無気力といえるようなパレスチナ側の反応にとまどった」のは、ダヴィド・ベン=グリオンを始めとするシオニストたちだった。彼らは当初、国連決議の採択を受けてアラブ人たちが騒乱を起こすだろう、と見込んでいた。その過程でユダヤ人住民に対する攻撃などが行われれば、それを口実に「報復」がしやすくなり、国際的な批判を受けずパレスチナ人を追放できるだろう――そんな見立てのもとにシオニストは計画を立てていたのだ。
 にもかかわらず、パレスチナ人はほとんど抵抗らしい抵抗を見せなかった。そうなるとシオニストは当初の予定を変更して、みずから率先してパレスチナ人を追放しなければならなくなる(パペはベン=グリオンたちがヨツマー(「主導」)という言葉を使っていたと述べている)。
 結局は、「幸運なことに」アラブ諸国が共同でアラブ人義勇軍を編成し、「ユダヤ人の護衛隊や入植地に敵対行為を拡大し」たため、シオニストは外見上は敵に「報復」する形でパレスチナ人を追放できるようになった。とはいえ、パレスチナ地元住民は依然として暢気に構えていた。

 パルティ・セラは、民族浄化作戦を実行するうえで重要な役割を担う情報部隊の一員だった。パレスチナの地元住民の雰囲気や傾向を毎日報告することもその任務の一つだった。パレスチナ北東部の渓谷に配置されたセラは、みずからを取り巻く政治情勢の変化に関し、コミュニティにおって対応がまったく違うことに驚いた。キブツや集団入植地、市営の入植地のユダヤ人農民は、防壁を強化し、フェンスを修理し、地雷を埋めたりして住居を前哨基地とし、防衛と攻撃に備えた。どの農民も銃を持って現れると、ユダヤ軍に編入された。だが、パレスチナ人の村は、セラが驚いたことに、「いつもどおりの生活の続けた」。実際、彼が出向いたアイン・ドゥール村、ダッブーリーヤ村、アイン・アーヘル村では、人々はいままでどおり彼を迎え、物々交換や商売の潜在的顧客として挨拶し、軽口や冗談を交わしたのである。〔……〕セラは一九四七年一二月の月次報告を次のようにまとめている。「日常性が支配しており、動揺は滅多に見られない」。これらの人々を追放する場合、相手に攻撃されたので「報復」したという言い訳はできなかったのである。

同p89

 もちろん、すべてのパレスチナの村民がこのように振舞ったわけではない。シオニストの侵攻が進むにつれて、やむにやまれず武器をとるようになった村民も少なくない。だが、基本的にはパレスチナ人はほとんど抵抗することなく殺されるか、他所の土地へと移送されていった。
 我々はここでシオニストのように抵抗を前提した上で事態を目の当たりにすると、「とまどっ」てしまうだろう。パレスチナ人は領土の半分以上を奪われ、さらに敵からの攻撃の手も迫っているのに、なぜ抵抗の準備を進めなかったのか? と。だが、人間はそもそもそういう生き物なのだ、と初めから認識しておけば、そんな無用な問いに時間をかけずに済む。代わりに我々は、シオニストの罪を知るための作業に集中できるようになるだろう。
 当時のパレスチナでは無数の村々が破壊され、無数の人々が虐殺されたが、その中の一例としてサアサアという村で起こったことと、それに対するシオニストの反応を紹介する。1948年2月14日から15日にかけて、シオニストの軍隊は「家屋にトリニトルエンを取り付け」、中で家族が寝ているにもかかわらず容赦なく爆破した。「破壊された三五軒の家と、六〇~八〇体の死体が後に残った(そのうちのかなりの数が、子供だった)」。
 この結果を受けてシオニストたちは会合で、「パレスチナ人はいまだに戦意を見せていない」だとか、「村人は戦うつもりがまったくないようだ」とかいった見解を示した。にもかかわらず、ベン=グリオンは「心を動かされなかった」。

「〔アラブ人の敵意に〕少しばかり反応したところで、誰の記憶にも残らない。家を一軒破壊したって、なんの意味もない。一帯を破壊するのだ。そうすれば心に焼き付くだろう!」「アラブ人を追い立てた」サアサアの作戦を好ましいとした。

同p122

 つまり、この時点でベン=グリオンはパレスチナ人が抵抗しようと抵抗しなかろうとどちらでもよく、最終的に彼らを虐殺ないし追放できればよい、と考えていたのだ。これが引き金となって、以降パレスチナ各地で抵抗しなかった村人さえも躊躇なく殺されたり、移送用のトラックやバスに乗せられたりするようになった。

 念のために言うが、筆者は「人間は危機に際しても抵抗しない生き物である」と仮説を立てるものの、だからといって「我々は危機が訪れてもされるがままでいるしかないのだ」などとニヒリスティックに断言するつもりは一切ない。むしろ逆で筆者は、こうした仮説をあえて受け容れれば我々はこれまで以上に抵抗の可能性を切り拓けるようになる、とさえ考えている。
 どういうことか? 仮に、「人間は基本的に抵抗しない生き物だ」との前提のもとに物事を分析するとしよう。片方には、そうした前提があるにもかかわらず抵抗できる人間がいて、もう一方には抵抗しない人間がいる。前者は、人間の性質に逆らいながら立派な行動ができる者だ。では、彼らはどのようにしてそのような行動ができるようになったのか? 我々は必然的にそう考えるだろう。つまり、本来抵抗しない人間が抵抗するためにはどうすればいいのか、という具体的な方法を考察するようになるのだ。
 そして同時に、我々は後者のような無抵抗な人間に無用な批判を向けることはなくなる。たとえば、権力に対する抵抗運動が起こるときは、デモ行進やストライキなどを熱心に行う人がいる一方で、それを傍観する人もまた必ず出てくるものだ。すると活動家は勢いあまって、「腐敗した権力を打倒すべき時に傍観するとは何事か!」などと傍観者に批判を投げかけてしまう。こうした批判を繰り出す瞬間はたしかに気分が良くなるが、その代償として傍観者から反発を招き、まわりまわって大衆の支持を失ってしまう惧れがある。
 ここで反対に、「人間は抵抗しない生き物だ」と前提しておけば、傍観する人が出てきても自然だと割りきれるようになる。そして、彼らを取りこむためにはどうすればいいか? どうすれば抵抗運動が目の前で起きていても傍観しているような者を抵抗できる人間に変えられるのか? といったより有用な問いに思考のリソースを向けられるようになる。
 このように、抵抗するための方法を単なる精神論に頼ることなく、より実践的に探究できるようになるという意味でも、「人間は抵抗しない生き物だ」との仮説を受け容れるメリットは大きいのだ。

 もちろん、筆者が今回提示したテーゼ(「人間は危機に際しても抵抗しない生き物である」)はあくまでも仮説である。筆者は無理にこれを受け容れよ、と断言するつもりはないし、何らかの反証を挙げられれば取り下げるのもやぶさかではない(現実的には、なんの訓練を経ずとも抵抗できる人もいる一方で、訓練がなければ抵抗できない人もいる、くらいのありきたりな結論こそ正しいのかもしれない)。
 それに加えて、危機に際して抵抗できる人間をくさすつもりも一切ない。文中でも述べたとおり、危険を厭わず抵抗できる人は立派であり、見本とすべきだと思っている。
 だが一方で、彼らに憧れるあまり抵抗を前提に話を進めてしまうと、余計な弊害が生まれる可能性も否めない。抵抗ありきで事態を捉えると、抵抗しなかった人間に無用な批判を投げかけてしまいかねないし、そもそも抵抗できなかった人間の存在に気づかない可能性だって出てくる。「人間は抵抗する生き物だ」と前提してしまうとそれらの弊害を取り除くのに相当な苦労が必要になるが、反対に「人間は抵抗しない生き物」だと前提するだけでそうした弊害に悩まされることはなくなる。
 今回は収容所における大量虐殺や、戦争にともなう民族浄化など様々な極限状態の事例を取り上げ、危機に際しながらも抵抗しなかった人々を見てきたが、我々が住んでいる世界にはこれ以外にも無抵抗のまま犠牲になる人々が多数いる。
 洪水や津波などの災害に見舞われてもなお家屋から逃げることなく死んでいった人々。痴漢やレイプ、ドメスティック・バイオレンスなどの被害に遭った人々。様々なハラスメントに苦しみながらも勤務先を辞められず、精神を病み、場合によっては自殺さえしてしまう人々。強権的な支配者に苛まれながらも変革のために立ち上がれない人々……こういった人々をよそから見ていると、我々はつい「なぜ逃げなかったのか?」とか「なぜ抵抗しないのか?」などと問うてしまうものだ。
 だが、本当に問われるべきなのは、そういった無責任な問いを投げかける方ではないだろうか? 誰だって抵抗できるはずなのだから抵抗しないのはおかしい、だとか、よくよく考えれば抵抗する余地はあったのだから実は被害者の方こそ悪いのではないか、とか、そういったろくに検討されたことのない偏見によりかかって物事を論じる人々のほうこそ問われるべき存在なのではないだろうか? そもそも、なぜ彼らはそんな問いを投げかけるのだろうか?
 あけすけに推測すれば、被害者に心ない言葉を投げかける者は、「自分はこいつらと違って抵抗できる偉い人間だ」とマウントを取りたいだけなのではないか? そんな彼らとて、実際に危機に際したら抵抗できる保証があるわけでもあるまいに。
 いずれにせよ、そんな連中が跋扈しているようでは一向に被害者は救われないし、次なる被害者の出現を食い止めることもできないだろう。我々は抵抗できなかった人々を救うためにも、いったん「人間は抵抗する生き物だ」との先入見を疑ってみるべきである。そして、よりよい抵抗の方法を模索するためにも、「人間は危機に際しても抵抗できない生き物である」という仮説を検討する価値は、十分にあると思うのだ。

脚注

(注1)結局ヒルバーグとヤド・ヴァシェムは和解したが、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』のヘブライ語訳は2012年まで実現しなかった。ヒルバーグがすでに5年前に亡くなっていたためか、ヤド・ヴァシェムは刊行に際して埋め合わせをするようにシンポジウムを開き、『ハアレツ』も「なぜ今までラウル・ヒルバーグの本がヘブライ語で出版されなかったのか?」と題した記事まで書くほどだった(https://www.haaretz.com/2012-12-06/ty-article/.premium/driven-by-his-fate/0000017f-ea2c-d4a6-af7f-feee4f290000)
。どこかで『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の日本語訳が1997年まで出なかったのを引き合いに、日本人の「最終解決」への関心が薄いのを嘆く意見を見た覚えがある。その基準からすれば、イスラエルの関心は日本以下ということになろう。

(注2)ヒルバーグは1959年にプリンストン大学出版局に原稿を持ちこんでいる。それを受け取ったゴードン・ヒューベルという人物は、ハンナ・アーレントに原稿の評価を依頼した。彼女の意見を汲んでヒューベルは、「ライトリンガー、ポリアコフ、アードラーによってこの分野の研究は達成されている」との理由で出版を断った(ヒューベルは後日アーレントに謝礼として小切手を渡している)。その後アーレントが『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』を大部分参照しながら『エルサレムのアイヒマン』を出版したのは周知のとおりだ。しかも彼女はアイヒマン裁判のレポートのドイツ版を出す際に、出版社からの引用元を明かすように、との要請に応える手紙に、こう書いていたそうだ。

 ここでは、私が他の場所でしたように、一九六一年に出版されたラウル・ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』に提示された内容を用いています。この本は、権威ある優れた研究であり、ライトリンガーやポリアコフなどの先駆者による調査のすべてを時代遅れとするものです。著者は一五年を費やして資料の身を調査しました。そしてもし彼がドイツ史に関する無知をさらけ出した馬鹿げた第一章を書き加えなかったら、いわゆる完璧な本と言えたでしょう。いずれにしても、彼の著書から引用することなしに、誰もこれらの事柄について書くことはできないのです。

『記憶』p183

(注3)その結果ヒルバーグは、アーレントの代わりにサンドバックの役回りを引き受ける羽目にもなった。ニューヨークで行われた「アイヒマンとユダヤ人の悲劇」と銘打たれたシンポジウムにヒルバーグが出席したことがあった。最初はアーレントが招待されるはずだったが彼女は断り、ヒルバーグはその代役として招かれた。当初30分の予定だった彼の講演時間は、当日にどういうわけか20分に切り詰められた。講演の経験が少なかったヒルバーグは、予定していた話の内容をそのままユダヤ人だらけの公衆の前で読みあげるという迂闊な真似をしてしまった。

 私はアイヒマン裁判の公判記録を用意していたので、ヴォルヒニアという田舎の村に住んでいたある女性の証言を読み上げた。彼女は家族と一緒に追い立てられた時に、若い娘にどうしてこうなる前に逃げなかったのかと聞かれた。いらいらした警備員は誰から先に殺そうかと尋ね、子どもを殺してしまった。母親は負傷したものの、墓から這い出すことができた。私はこれこそ命令に従った者に何が起こったかを示す場面なのだと言いたかったのだ。これがユダヤ人が何世紀も守り通してきた政策の行き着く果てだったのだ。〔……〕私の講演は途中で遮られてしまった。あるパネリストはテーブルを握りこぶしで叩いた。その強打の音はマイクで拡大され、会場からの嵐のような野次がそれに続いた。アーヴィング・ハウは会場の参加者からの質問とコメントを募った。そうすると、人々は次から次に立ち上がり、ある者は私をサディストと罵り、ある者は用意してきた紙を読み上げながら、ワルシャワ蜂起時のドイツ人戦死者数に関する私の数字に挑戦するなど、延々とそれが続いたのだ。

『記憶』p180‐181

(注4)イスラエルにおいてはレジスタンス活動を行ったユダヤ人こそが記念すべき人物として扱われていたことをよく示すものとして、「ホロコースト記念日」制定をめぐるエピソードが挙げられる。1951年に大量殺戮の記憶を維持する目的のもと、ヤド・ヴァシェムによって「ホロコーストとヒロイズム記念法」を制定してはどうか、という案が出された。議会での議論にあたっては、大戦中にヨーロッパで起きたレジスタンス活動と、大戦後に進行しているイスラエルでの戦いの連続性が強調された。ヨーロッパユダヤ人は「ヒロイズム」のもとに「何百という反乱」を起こした。他方、現在のイスラエル人もまた「ヒロイズム」のもとに建立されてまもない国家を守ろうとしている。記念日を作ればこの連続性は否応なく意識され、イスラエル国民はより積極的に戦うようになるだろう、というわけだ。クネセトからは「以前ドイツとの賠償協定を批准してホロコースト犠牲者を裏切ったから、提案されているホロコースト記念法案を成立させる資格がない」など様々な反論があったが、結局法案は反対者なしに可決された。以降イスラエルでは、ユダヤ暦ニサン27日を「ホロコーストとゲットー蜂起記念日」と定め記念式典などを行うようになった。記念日の名称からも察せられるとおり、ユダヤ暦ニサン27日はワルシャワ・ゲットー蜂起が開始された1943年4月19日にあたるとされている。黎明期のイスラエルでは抵抗したユダヤ人こそが記念すべき象徴であって、抵抗せずに死んでいったユダヤ人はあくまで脇役にすぎなかった(トム・セゲフ『七番目の百万人』ミネルヴァ書房p515-517)。

(注5)アウシュヴィッツの生存者であるプリーモ・レーヴィは、戦後にさまざまな場所で自分の体験を語ってきたが、質疑応答の時間になってから聴衆に必ずと言っていいほど訊ねられたのは、「あなたはなぜ逃げなかったのですか?」という問いだったそうだ。レーヴィは抵抗できなかった理由をいくつか書きつつ、このようなエピソードを紹介している。

私は何年か前に小学五年生のクラスで起きた、ほほえましい出来事を思い出す。私はそこに招待され、自分の本に解説を加え、小学生の質問に答えるように求められた。ある利発そうな様子の、明らかにそのクラスのリーダーと思える少年が、決まりきった質問を投げかけてきた。「なぜあなたは逃げなかったのですか」。私はこの場で書いたことを、彼に簡潔に述べた。少年は納得せずに、黒板に収容所のスケッチを描き、扉、鉄条網、発電所の位置を示すように求めた。私は三十人の視線を一身に浴びながら、何とか図を描いた。彼はその図をしばらく検討し、さらにいくつか細かな説明を求め、自分の考えだした計画を開陳した。ここで夜に歩哨の喉を切り裂く。そしてその制服を着こむ。それからすぐに発電所に走り、電流を切る。そうすればサーチライトは消え、高圧電流の鉄条網は機能しなくなる。そうなれば悠々と出て行けるだろう。少年は真剣になって付け加えた。「もう一度同じようなことになったら、僕が言ったようにしな。きっとうまくいくから」

プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』朝日新聞出版p171-172

 このエピソードはレーヴィが言うとおり「ほほえましい」ものであると同時に、我々は子供の時点ですでに、危機に際したら人はふつう抵抗するものだ、との先入見に捉われていることを示している。


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