日居月諸

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人間は抵抗する生物か?

 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の著者として知られているラウル・ヒルバーグは、1992年に『加害者・犠牲者・傍観者』を出版した。1961年に初版が出た『絶滅』においてヒルバーグは、国民社会主義による大量虐殺がどのように進行していたかを、一つ一つの出来事を丹念に追いながら解明したためにこの分野の研究においてゆるぎない地位を確立した。それに対して『加害者・犠牲者・傍観者』は、題名から察せられるように「出来事よりも人々に焦点を当てた著書」だった。  66歳になっていたヒルバーグにと

    • なぜ「なぜホロコーストで犠牲になったユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか⑥完

      7.では、どのような問いを探究しなければならないのか?  だいぶ長い論考になってしまったので、改めて本稿が目指していたところを確認しよう。筆者は最初に岡真理による、「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜ?」と問うのは偽善なのではないか、との提言を取りあげた。該当箇所を引用しなおそう。  この主張に対して筆者は、「大筋正しいとは思うが、部分的には問題を抱えている」と異議を唱えたのだった。粗方シオニズムがたどった歴史を振りかえった今となっては、岡の文章がどのような問題を抱

      • なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのが偽善なのか?⑤

        6.現代にも生きるシオニズムの基本原理と「ユダヤ人遺伝子」への執着  ここまで筆者は、シオニズムの歴史を駆け足で振りかえってきた。シオニズムの開祖であるテオドール・ヘルツルを動かしていたのは、反ユダヤ主義との癒着と、同化ユダヤ人への蔑視の両輪だった。  ヘルツルは1904年にこの世を去ったが、彼の打ち立てた基本原理を後世のシオニストたちはしっかりと受け継いだ。反ユダヤ主義との癒着と、同化ユダヤ人への蔑視は、ナチスドイツ期によく見受けられた。彼らはハーヴァラ協定でもってナチス

        • なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのが偽善なのか?④

           前回は難民としてパレスチナに渡った収容所の生存者が、シオニストや入植者によってどのように扱われたかを確認した。 5.活発化していく「ホロコースト」の政治利用  1948年にイスラエルが建国すると、少しずつ生存者の待遇は良くなっていく。彼らも形はどうあれアラブ人との戦争に加わり、建国の基礎となった人々なのだから、当然それなりの尊敬は得られるべきだった(その裏にはパレスチナ人の追放があったし、中東やアフリカを出自とするユダヤ人が新たな差別の対象になったという事情もあるわけだ

        人間は抵抗する生物か?

        • なぜ「なぜホロコーストで犠牲になったユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか⑥完

        • なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのが偽善なのか?⑤

        • なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのが偽善なのか?④

          なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?③

          4.大量虐殺の犠牲者はイスラエルでは侮蔑されていた  前回はパレスチナのシオニストが、第二次世界大戦のさなかにヨーロッパで起きていた大量虐殺を、傍観に近い態度で受け止めていたことを確認した。  大戦末期に各地の収容所が連合軍によって解放されると、シオニストは派遣員を送りこみユダヤ人の現状を確認させにいった。当然ながら、どれくらいのヨーロッパユダヤ人をパレスチナへ移住させられるかの調査も兼ねていた。派遣された役人たちは当初、衰弱しきったユダヤ人たちの様子を見て驚くと同時に、

          なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?③

          なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?②

          3.シオニストはヨーロッパユダヤ人の虐殺をどう受け止めていたか  前回はパレスチナに入植していたシオニストが、ナチスに抵抗するどころか、むしろ結託さえしていたことを確認した。  とはいえ、後にドイツのユダヤ人たちがたどった運命を踏まえると、シオニストを非難するのは厳しすぎるのではないか、との声も聞こえてくるところだ。たしかにハーヴァラ協定はナチスを利したかもしれない。しかしながら、ユダヤ人にとって数少ない避難所としてパレスチナが機能したのはゆるぎない事実だ。もしシオニストが

          なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?②

          なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?①

           イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、一見すると汗牛充棟の感もある第三帝国期の強制収容所に関する研究について、「それらの出来事が産み出された特有の法的‐政治的構造を考察することが端的に怠られていることもしばしばである」と不満を述べつつ、以下のように述べている。  「人間に対してこれほど残酷な犯罪を遂行することがいったいどのようにして可能だったのか」という問いは「偽善的」である――この主張を受けて、岡真理は『ガザに地下鉄が走る日』のなかで迫害されつづけるパレスチナ人を念

          なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?①

          イスラエルにとっての「自衛権」とは何なのか

           『現代思想』2024年1月号のなかで、三牧聖子は「戦争のない世界は可能か?」という問いに取り組みつつ、単に戦争を批判するだけでなく「「自衛」の名のもとに、「自衛」の概念ではとても正当化できない性質の軍事行動」も批判すべきだとしている。  三牧はその上で現在イスラエルがガザに対して行っている攻撃を取り上げ、わずか1ヶ月でガザ市民を含めた死者数が1万人を超えたこと(現在は2万5千人を超えている)、病院や救急車、難民キャンプや大学にまで爆撃が及んでいること、ガザ全体が封鎖されたた

          イスラエルにとっての「自衛権」とは何なのか

          『かわいそうな ぞう』と「かわいそう」でない動物たち

           前回の記事ではゼーバルトが戦後ドイツの文学作品の何に不満を抱き、どんな表現を求めていたのかを見てきた。彼が今後の文学の課題として突きつけてきたものを確認したところで、やはり気になるのは、「では日本ではどうだったのか?」という問題だ。改めてゼーバルトの求めるところを確認しておこう。  「激甚な破壊を前に文学的営為を続ける唯一のまっとうな理由」を示してくれるような文章は、日本で書かれたのだろうか?  周知のとおり日本は先の大戦でアメリカ軍によって無数の爆撃を食らったばかりか

          『かわいそうな ぞう』と「かわいそう」でない動物たち

          W・G・ゼーバルト『空襲と文学』~破壊の自然史はどのように語り出すべきか~

           以前筆者はジュディス・バトラーによるイスラエルのジェノサイドに関するコメントを取りあげたが、その中ではキャスターのエイミー・グッドマンがこんな発言もしている。  実際にモーシェ・フェイグリンがイスラエルのテレビに出演した際の映像は、多くの人々の間で話題になっている。  筆者はこの話を聞いたとき、(あからさまに民族主義的な立場をとる者の扇動的な発言とはいえ)イスラエル人にとってはドレスデンは気安く引き合いに出せる出来事なのだと思った。かたや被害者側であるドイツではドレスデ

          W・G・ゼーバルト『空襲と文学』~破壊の自然史はどのように語り出すべきか~

          ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』――虐殺を受け入れているのは、外から見ている我々ではないか――

          1.沈黙のうちに行われた虐殺  1982年9月、ジャン・ジュネはベイルートを訪れている。当時は長期にわたって続いていたレバノン内戦がいったん凪になっていたころだった。が、すぐさま状況は一変し、ジュネは惨劇の中に身を置くこととなる。  1970年にいわゆる「黒い九月」事件でヨルダンを追われたPLOを始めとしたパレスチナ人たちは、その後レバノンに難民として身を寄せていた。これによって国内にイスラム教徒が増えたのを懸念したキリスト教マロン派は対立姿勢を強め、PLOとの間で一触即発

          ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』――虐殺を受け入れているのは、外から見ている我々ではないか――

          ジュディス・バトラー『分かれ道』――我々をがんじがらめにする二者択一から逃れるために

          1.何ら変わらなかった11年間  ジュディス・バトラーは今般のガザ地区で起こっているジェノサイドについて、「Democracy Now!」のプログラムに出演しコメントを寄せている。      パレスチナの人々は哀悼不可能(ungrievable)な存在としてみなされていないこと、イスラエルによるジェノサイドは今に始まった話ではなく75年にわたって続いていること、パレスチナ/イスラエルの間で起こっている戦いは(一般的な戦争のように対称的な暴力が行きかっているわけではなく)一方

          ジュディス・バトラー『分かれ道』――我々をがんじがらめにする二者択一から逃れるために

          ジュディス・バトラー『非暴力の力』を読んで

          1.死へと駆り立てる超自我からいかに逃れるか  ジュディス・バトラーは『非暴力の力』の第四章において、どのように暴力を批判すべきかという問題に取り組んでいる。その際彼女はフロイトを引用しているのだが、その参照の仕方はヒネリが効いている。というのも、フロイトが深く携わりつづけた概念を批判しつつ、フロイトが深く論じきれていなかった概念をこそバトラーは重要視しているのだ。  具体的に言うと、本書では「超自我」に対して批判の目が向けられている。よく知られている通り、フロイトは「自我

          ジュディス・バトラー『非暴力の力』を読んで